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生きがいと生きる意味

「生きがい」と「生きる意味」似ているようだけど、全く異なるものなのだと気がついた。

私は今まで自分を理解していなくて、これ!って思ったら、比重をそこにほぼマックスでかけなければと無意識に思い込んでいた。それが苦しさの原因だったのかもしれない。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の中で引用されていた「推し、燃ゆ」が気になり読んでみた。

推し活に人生の実存を預ける女子高生が主人公の小説だ。

主人公あかりにとって推しは生活の一部とか人生を彩るものではなくて、生きること、生きる意味そのもの、つまり推しが実存になっている。

全てが推しに直結する生活を送る中で、他の部分に歪みが生じる。いや、元々生じていた歪みから、推しを推すことによって目を背けられたのかもしれない。

推しを推している間は、歪みを忘れられる。推しのために自分は生きているのだと思えば、日常の歪みはちょっとした副作用みたいなもので、たいした問題ではない。

一つのことに集中するっていうのは、良いことだと思われがちだけど、それが勉強やスポーツ、仕事なら良くて、推し活だとダメってことはないと思う。

サラリーマンが徹夜して無理をして資料を仕上げたことを、称揚すること。
お母さんが日々自分を犠牲にして子育てしていることを、称揚すること。
高校球児が恋愛せずに日焼け止めも塗らずに野球したことを、称揚すること。
アイドルが恋人もつくらず常にファンのことだけを考えて仕事したことを、称揚すること。
クリエイターがストイックに生活全部を投げうって作品をつくることを、称揚すること。
ーそういった日本に溢れている、「全身全霊」を信仰する社会を、やめるべきではないだろうか?
半身こそ理想だ、とみんなで言っていきませんか。

三宅香帆著 なぜ働いていると本が読めなくなるのかp258

つまり、趣味だろうが仕事だろうが家庭だろうが、一つのことに自分の実存を預けることを良しとすると、いずれ苦しくなるのではないか...ということ。

色んな自分がいていい。

「生きがい」と「生きる意味」。

決してイコールではない。
生きがいは、生きる意味そのものにはならない。

仕事も趣味も家族も、生きがいにはなるかもしれないけど、それだけが生きる意味にはならない。

生きがいはたくさんあっていい。

生きがいと生きる意味はイコールではないし、生きる意味なんて、死んでも分からないのかもしれない。

生きがいをたくさん集めたら、生きる意味が少し見えてくるんだろうか。



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