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散歩によって世界を観察することの意味
現代に生きる私たちが、17世紀に戻って街や都市を散策したら、きっと新鮮味のある印象を受け、驚くのだろう。
逆に200年後の未来にタイムマシンで行って、都市や街を散策したらそれ以上の驚異を感ずるのだろう。
でも、現代に生きる私たちが普段、散策する道も、細心の注意を払って観察すれば、過去や未来の光景に劣らず、発見に満ちているとは言えないだろうか。
図書館や書店に行けば、本がたくさんある。
私たちも、そこで出会った本を読む。
一方で、街や都市、自然のなかを散策すると、また違った気づきや発見、驚きが得られることがある。
散策しながら見る風景や光景は、日常という書物ではないか。
世界という書物ではないか。
歩きながら観察するのは、過去から続く人間の営みの途上であり、それは未来へと続いている。
散歩しながら観察できる風景や光景は、過去から見たら未来であり、未来から見たら過去である。
そして、未来に少しずつ近づくにつれ、目まぐるしく変化していく。
一瞬、一瞬、一つとして同じページはない。
本はもちろんそうだが、散歩しながら見るものは、もっとそうである。
未来人の視点で街を観察して見ると、何が見えてくるだろうか。
17世紀人や古代人の視点で街を観察して歩いてみるとどんな感じだろうか。
本を読んで知り、考えた世界の視点から、散歩しながら世界を観察する。
きっと本には載ってない世界が見えるだろうが、本とリンクする世界も見えるのだろう。
本を読み、歩き、観察し、本を読み、歩いて観察する。
その姿は、モンテーニュやパスカルさながら、ヒューマニストのようだ。
読書と散歩による世界の観察は、相互補完的、同じ輪っかにあり、密接につながっているのだろう。
一方が、もう一方のためにあるのだ。
バランスが保たれれば、ヒューマニストのように世界を観察できる。
われわれには、読書という立体的な世界構築と、散歩による世界の観察の双方が必要である。
そのバランスによって、一方が豊かになり、もう一方も豊かになる。そして、人間が豊かになる。
散歩による世界の観察は、本を読むことと同義だ。
散歩するときは、上を向いて歩き、思いっきり世界を観察し、感じよう。
普段の街や都市を歩く時も、好奇心をもってよく観察して歩いてみる。
そうすると、現代世界というものを、ヒューマニストのような視点で見ようと思える。
ぼくも、そうしたい。