映画『ゴッドランド/GODLAND』(2022)感想※ネタバレ含

フリーヌル・パルマソン監督の『ゴッドランド/GODLAND』を観たので、ネタバレを含む感想を書きます。あまり好きではありませんでした。

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ここ数年、フィルムの粗い映像に、物語の中での1つの重要なモチーフとして記録媒体が登場する映画が、定期的に世に出ているような気がする。

例えば『aftersun』(ビデオカメラ)、『アフター・ヤン』(ロボットとしてのヤンの記憶)など(『グレース』もざらざらした映像に映写機が登場するという点はこの条件に当てはまるが、映画として他の作品とはあまりに別格だった)。

これらの共通点を敢えて示すなら、「境界を持たないノスタルジー」になるのではないだろうか。時代や場所を超越して、誰か/何か/どこかを懐かしむ感覚が、作品の全体に流れている。これは今の時代に求められている、象徴的な空気感のひとつなのかもしれない。

本作『ゴッドランド』も、映像はフィルムで撮影され、主人公が抱えているのは巨大なカメラという点で、上記の流れを汲んでいるように思う。度々長回しで映されるアイスランドの自然はどこまでも美しく、動物と子どもはひたすらに愛くるしい。19世紀という時代背景も相まって、知らないけれど懐かしいという普遍的な郷愁の感覚を覚える。

特に映画の前半では、主テーマといってもいいくらい、鑑賞者から遠い場所=ここではない場所としてのアイスランドの景色が提示される。その中には、作り手が自覚的に、「あなたの身近にはない、心の深くに訴えかける美しい景色でしょう?」と鑑賞者に伝えたいがための映像が多く、言ってしまえば辟易する部分もあった。途中に数分映されるマグマなど、水面下で沸る劇的な展開のメタファーにしては安直すぎるし、作品には正直全く関係がない。

また、こうした「美しい」光景の中で、主人公の存在はずっと異質である。最初から目は虚ろで挙動不審、文字通り死ぬような思いをして布教に行っているというのに、献身的に祈りに励む様子もなければ、見知らぬ土地で言葉を覚えようとする向上心も皆無。人の話を聞かず、無茶してまでいちいち写真を撮ろうとする様子は、SNSのために必死でスマホを構える現代人を見ているかのようで、共感性羞恥すら感じる。

この主人公への違和感というか不快感は、物語が進むに連れて加速していく。新設された教会が初めて使われる村の結婚式(主人公が教会が完成していないことを理由に挙式を拒んだため、正確には披露宴のようなもの)のシーンでは、彼の無根拠なプライドの高さが浮き彫りになる。世話になっている家族の姉への依存に見せかけた支配、他者のことを道具のようにしか見ていない主人公の人間性は、ちょっと盛り込みすぎなくらいグロテスクだ。その悪趣味さに、観ている側は彼に制裁が加えられることを無意識のうちに予想している。

そもそも冒頭で、この作品がアイスランドで撮られた数枚の古い写真からインスパイアされて作られたものであることが、鑑賞者には示されている。人が消え、写真だけが残るという結末になることは最初から明らかで、実際その通りになるため、そこには何ら驚きも予想外の魅力もない。壮大な自然の中で印象的に響くはずであったろう「人間なんてちっぽけな存在だ」という終盤の台詞も、予定調和の範疇に収まってしまう。

日常から切り離されたものとして遠く懐かしい気持ちを誘う(ことを見込まれた)悠久の自然の中に、対照的に位置する「人間らしい存在」としての主人公を、薄っぺらく不愉快なキャラクターとして意識的に形作ったことで、そこには作り手の作為が多分に介入し、現実との妙な接合が生じてしまった。

こうした映像と物語の作り物的な浅さに加えて、作品の最終到着地点が予め示されていることで、この映画の奥行きは悲しいくらい消えてしまっている。

“今ここに無いもの”に対する感覚は、もっとできるだけ淡々と、何もかもから遠いところにあってほしい。そんなことを考えて、かなり消耗した気持ちでこの映画を観終えた。

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