映画『瞳をとじて』(2023)感想※ネタバレ含

ビクトル・エリセ監督の『瞳をとじて』を観たので、ネタバレを含む感想を書きます。
※一部監督の過去作である映画『ミツバチのささやき』のネタバレも含みます。

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3時間近い上映時間のせいもあるが、誰かの人生を追体験するような、それも1人ではなく複数の人の人生が時に重なり合い、また離れていくのに寄り添うような重厚な作品だった。

冒頭から、椅子に座った2人の会話の中で物語の背景やあらすじが明らかになるという演出が繰り返され、ほとんど小説の朗読を聞いている気持ちになる。

特に印象に残ったのは、齢を重ねた名監督の、自身の体感に基づいているだろうと思われる、歳を取るということ、そして人生の伴侶である映画に対しての思いだ。

作品を通して、主人公と、そして監督と共に過去を振り返ってきた私たち観客は、かつて同じ時間を過ごした共通の記憶があることが、今の2人の境遇の違いをより自明的に明らかにしてしまうということを、歳月を重ねるという圧倒的な説得力のもとで追体験する。

そのうえで、映画を観るという行為は、限りある人生の中で、いま、等しく流れる時を他者と確実に共有しているということだ。いつかは失われる記憶、すれ違ってしまう他者であるからこそ、同じスクリーンを見つめる今がこんなにも貴重なのである。

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※以下、映画『ミツバチのささやき』のネタバレも含みますので、未見の方はご注意ください。
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ビクトル・エリセと言えば、映画史に残る名作『ミツバチのささやき』の監督として記憶している人も多いだろう。自身と同名の少女アナ役を演じたアナ・トレント(撮影時5歳)が絶賛され、一躍有名になった映画でもある。

今作『瞳をとじて』では、失踪した俳優の娘役を57歳になったアナが演じる。役名はまたもやアナだ。

記憶を失い、高齢者施設の手伝いをしている父の元を訪れた彼女は、薄暗がりの中で、2度、「ソイ・アナ…私はアナ…」と呟く。一度は自分を忘れてしまった父に向けて、一度はまるで自分自身に言い聞かせるように。

『ミツバチのささやき』のラストシーンで、見えない怪物フランケンシュタインに向けて囁かれた同じセリフを、52年の時を経て、再び甦らせたことは、映画監督として歳を重ねてきたビクトル・エリセの、最大の自己肯定と受け取れる。

主人公である映画監督ミゲル、そして失踪した俳優であるフリオには共にエリセ自身が投影されている。最後、彼らとそしてアナとが、一緒に同じスクリーンを見つめる中で起こる、画面の「こちら側」と「あちら側」の邂逅は、今作の中で最も観客の心を揺さぶる。

劇中劇『別れのまなざし』のラストシーンで、スクリーンの中からミゲル、フリオ、アナにまっすぐな眼差しを向ける中国人の少女は、かつての『ミツバチのささやき』のアナであり、若かりし頃のフリオと同じく、通り過ぎてしまった過去、もう戻れない過去である。

そのスクリーンを劇中の映画館で見つめているミゲル、フリオ、アナは同時に、現実世界でこの映画を観ている私たち観客をまっすぐに見つめる。こうして、別々の存在であるはずの【あなた】が、時をも超えて【わたし】と一つになる。全てを見つめ、見つめ返しながら瞳は閉じられ、そしてスクリーンに幕が降りる。

昨年公開された宮崎駿の『君たちはどう生きるか』が、監督自身がこれまで作り上げてきた世界に絶対的な自信をもち、それを堂々と私物化した作品であるのと同じように、この映画は、ビクトル・エリセ自身の映画監督としての人生の讃歌であり、映画というものへの確かな信頼というメッセージが込められているように思えた。

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