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静岡から上京した理由。東京に残った理由。

元々小学校低学年までは東京に住んでいた。両親の離婚をきっかけに紆余曲折を経て、最終的に母の出身地である静岡県に引っ越した。

そこから、改めて上京するきっかけになったのは父方の祖父のガンだった。。。19歳の時に就職したが、父から祖父の面倒を見て欲しいと言われた。

その時付き合っていた彼女と暮らしていた事、仕事の事、どうするかかなり悩んだ。
ただ、祖父の状態は介助無しでは生活ができない事。
特に昼間の時間帯は仕事などで介助できる人がいないということだった。

彼女と職場の上司に事情を説明し、一時的な上京のつもりで祖父の面倒を見る事に決めた。

祖父とは、5歳位の時に何度か会った記憶しかない。
その祖父の世話をするというのは初めは戸惑いもあったが、ある意味割り切れた。
しかし自分自身にも少し無理が出てきた。
そもそも、東京には友達もいない。束の間の休みに何処かに行こうにも、どこに行けばいいかわからない。
静岡に比べて人が多すぎて、真っ直ぐ歩くにも人混みの中を歩くのはストレスになった。

結局どこに行けばいいのかわからず、なぜか渋谷までハチ公を見に行った記憶がある。そしてモヤイ像も合わせて見た。
それだけでなく、まともに立つこともできない祖父のトイレや食事、車椅子での散歩など、慣れない事の連続の日々。

それに、平日は誰も来ない。
血は繋がっている祖父とはいえ、あまり記憶にない事と体調がすぐれない人との共同生活は精神的にも負担になっていった。ここは東京で、友達どころか知り合いもいない。寡黙な祖父とは殆ど会話をしなかった。もしくは、体調がすぐれない祖父はあまり会話ができないに近かったかもしれない。

そんな生活になって何週間たっただろう。もしくは数ヶ月。
ある時、祖父が戸棚の引き出しを開けて欲しいと言ってきた。

引き出しを開けると、色々な物が入っていたが、その中からハーモニカを取り出す様に言われた。
言われた通りハーモニカを取り出すと、祖父は弱々しい手でハーモニカを手渡してきた。

その時は気が付かなかったが、そのハーモニカは祖父からの形見だった。

それからまもなくして祖父は体調が悪化し、病院に入院した。
それまでは祖父が居た家の中に一人になった。一人はさみしかった。

そして、祖父が入院し一月程経った時に、この世を去った。

ハーモニカを吹ける様に練習したが、楽器も運動も苦手な自分はハーモニカを吹く事はできなかった。
できればハーモニカを吹く姿を祖父に見せたかった。
だけど、それも今は叶わない。

祖父は吹いていたのだろうか。
何をしているのか子供の自分には検討もつかないが、祖父は家にいない人だった。家にはいつも祖母だけだった。祖父はどういう生活をしていたのだろう。

祖母も居ないし、自分のルーツとなった祖父母がどういう生活だったか知らない。
何となく聞いてはいけない気がして、父にも聞いていない。

そんな疑問を抱きながら、告別式も無事終える事ができた。
そろそろ地元に帰ろう。そう思ったが、所持金はもうあまりない状態だった。
父に祖父の世話をしている間、生活費としてお金を使ってしまった事を告げ、いくらかのお金を貰い帰ろうと思った。

父からの回答はこうだった。

「お金がないなら働いて稼ぐしかないな。」

ふざけるな。地元に家をそのままにして、仕事も彼女もそのまま残して来ている。
そんなにいつまでものんびりしていられないと訴えた。

しかし、いくら言っても自分で稼げとしか言わず、話しは平行線になった。
仕方なく短期で近所の郵便局で配達のバイトをした。
今から20年程前は最低時給600円台の時代で、時給680円位だったと記憶している。一月働いて、そこから税金や年金やらなんやら払ったら手取りで15万円切る金額だった。

そして、季節がかわり、いつの間にか初夏の暑さも収まり、既に秋も終わろうとしていた。
そうしているうちに、何ヶ月も帰って来ない自分に愛想をつかし、彼女から別れを告げられた。
荷物はとりあえずレンタルルームにしまってもらう事にした。
そして迷惑をかけた会社も退職を願い出た。

もう急いで地元に帰る理由も無くなってしまった。
それからは何も考えず郵便配達をする毎日だった。
一年半働いた時に、もっと給料の良いところで働きたいとお世話になった郵便局を辞める事にした。

まだ郵政公社にもなっていない頃の郵便局。一緒に働いてるのは良い人ばかりだった。最終日課の人達みんなで送別会を開いてくれ、新しい仕事がうまくいく様にと送り出してくれた。

中学生の頃から携帯電話に興味があり、いつかは携帯電話に携わる仕事をしたいと思っていた。
そんな自分が特に意識せず、時給メインで仕事を探していた。大手通信事業者のテクニカルコールセンターの契約社員の求人が目に止まった。こんなに大きな会社で雇ってくれるわけがないと迷ったが、ダメ元で応募した。

面接や試験や適性検査などをこなし、結果採用となった。
東京でなければこんな大きな会社で働けなかっただろうと、早く勤務開始日にならないかと楽しみにしていた。

研修やテストを経て、無事着台となった。初めてのコールセンターの仕事でお客様の対応が無事終わった後、とても緊張していた事を今でもハッキリ覚えている。

そんなコールセンターでの仕事も慣れてきて、1人で仕事ができる様になった時はとても誇らしい気持ちだった。

そんなこんなで、コールセンターでの仕事をこなしていったある日、目の前に座っているMさん(後に2歳年上だと知る)の眉毛が消えていたのでその事を伝えるために声をかけた。
その事がきっかけで休み時間話しをしたり、昼飯を食べに行ったりする仲になった。

そうして1人ではなくなり、そうしているうちに3歳年上の入社日が近いS君ともいつの間にか仲良くなっていた。
初めは1人だったのが2人になり、いつの間にか3人になった。3人でプライベートでも遊ぶ仲になっていた。

お互いの家に泊まったり、出かけたりした。
ある日しながわ水族館に行く約束をしたら、Mさんは寝坊し、その後の電話の後さらに二度寝をし、4時間遅刻してきた事は今でも話題に上がる。

会社で他の人とも話す様になり、一人また一人と、休憩時間に話す人が増えた。そして、仕事が終わった後にみんなで食事に行ったり、時には遠出して遊園地にいったり、旅行に行く仲になっていた。
東京に来た時には考えられない事だった。

そんな日がずっと続くと思ったけど、年齢を重ねるごとに一人、また一人と結婚し、子供を授かったり、地元に戻ることになった友達がいたり、次第にみんな揃って遊ぶ事が難しくなっていった。

そして、4時間遅刻した友人Mは結婚して、数年経過しても子供を授かる事は無かった。

後で知ったのだが、不妊治療でかなり苦労をしていたらしい。
だけどその後、元気な男の子を2人出産した。今では昔からは信じられない立派な母親になった。
結婚していない自分は、育児体験と称し、旦那さんの許可を貰い友人Mと2人の子供達とひと月に一回のペースで出かけている。

昔みたいにみんなで揃って会うこともほとんど無くなってしまった。だけど関係が切れた訳ではない。もう20年も付き合いのある友達だ。
昔は仕事が終わった後、休みの日、大笑いしながら歩いた、あの日々がずっと続く様な気がしてたけど、大人になるってこういう変化があるんだなぁと今は思う。
初めは東京になれず、知り合いもおらずこんな所は自分のいる場所では無いと思って居たけど、いつの間にか人生の半分を東京で過ごし、友達も今はいる。東京が自分の居場所なんだと今は思う。

友達の子供も、今は幼稚園生だったりで育児に追われて遊びに行くどころじゃないけど、子供が立派に大きくなったら、またみんなで飲みに行ったり遊びに行きたいと思う。
いつか友人の子供達も連れて。


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