重文展の感想
国立近代美術館で開催されている、重文展に行ってきました。略語が好きなので重文展とできてうれしい。
私はかなりのミーハーだと自覚しています。高尚そうな、おしゃれな、歴史的な、そういうものの内実をさらさら分かっていないけれども文化的な人間、豊かな人間になりたくて、そういうものに興味があるんだとどこか自分をだまして展覧会に行くようなきらいがある。いつか本当に文化を解する人間になりたいものです。
ミーハーゆえに「重要文化財」という言葉に惹かれたものの、なかなか足を伸ばすことができずにいました。本日(4月30日)訪れるきっかけとなったのは、もうすぐ展示期間が終了する作品があるというお知らせでした。ツイッターは情報収集に欠かせないことを深く実感。その作品というのが「行く春」「弱法師」でした。この「行く春」という題が非常に魅力的で、まだ行かないでほしい!と私は春に対して切に思いました。そういうわけで来館を決めたのでした。
展示は、日本画→洋画→彫刻→工芸品の順で、制作年順に配置されていました。制作者や作品名だけでなく、一つ一つ説明書きがあり、背景についてちょっとずつ知識を得られておもしろかったです。あの場で読んだ文をすべて覚えて帰ってきたいものだ。印象に残った作品についてちょこちょこと書いてみます。
会場に入ってすぐ出迎えていただいたのは、狩野芳崖の「悲母観音像」。日本史の教科書に載っていたものを自分の肉眼で見ることができ、その大きさにまず驚きました。これを人の手が生み出したのかと思うと、なんだか信じられなかったです。特に、こどもを包む光の輪はどうやって描かれたのか全く想像つかなかったです。あとこどもの身体にくるくると巻き付いているように見えた線は何を表していたんだろ?
次に見た横山大観の「生々流転」にも疑問がぷつり。中盤よりあとで、海(もしくは川)に出る船に鳥居が乗せられているように見えました。この人々は何を行っていたのでしょうか?「船 鳥居」などでググりましたが、そんな探し方では見つけられませんでした。いったい何の場面だったんだ?ご存じの方、ぜひとも教えていただきたいです。
少し進み、屏風のゾーン!今回の特別展で得たのは、大きな屏風って、とってもすてきだということです。「弱法師」は金地に描かれた、ぽってりとしたたくさんの花があたたかくてかわいらしくて心が躍りました。「行く春」は前者と異なり、舞う花びらが春を示していました。こちらは自分がその場にいるような気持ちになることができます。とめどなく流れる川に風、散る花、進む季節を惜しく思いつつもその移りゆきがうつくしくてみとれてしまいます。四季ってどうしてこんなにもすばらしいのでしょうか!最近ずっと思っていることと見事に合致する美しさでした。私はこの2つの屏風絵に心を掴まれ、何度か戻っては見、戻っては見をしました。幸いなことにグッズ展開もされていましたが、やはり大きな屏風を目にしたその魅力が忘れられず、記憶だけを胸に去ることにしました。本当にとってもすてきだったので、屏風絵を今後もっと見てみたいなあと思います。
「室君」は女性たちの纏う一番上の着物がよく見たら透けている!オドロキでした。シースルー…!おしゃれです。
日本画の次は西洋画に移ります。「騎龍観音」に大喜びしました。西洋では宗教画が重要みたいだから、仏教ならこうかと描き出した作者の発想がすごく好きです。今のカードゲームの絵にもありそうななんとも強そうな画面は、誰の心にも爪痕を残すに違いありません。
彫刻を見ていて、写実主義はカメラの誕生で何か変わったりしたのだろうかと思いました。あるものそのままで伝えたいなら、カメラの方が確実になったのでしょうか?あるものをそのままで残したいというのはなんでだ。たしかに、たとえば自分の好きなものを自分に見えているようではなく、まったく美化せず、あくまでもそのままで残すことで純粋にそのものの素晴らしさを伝えられるとは思います。でもそんなことが可能なのか?自分の目で見ている以上、他の目にはなれないからどこまでが素なのかわからなさそう。カメラも本当にそのままを写せているのか?写実主義と言葉は使ったものの意味はさらさらなので調べてみようと思います。
工芸品でしげしげと眺めたのはずばり「褐釉蟹貼付台付鉢」。いつかどこかで見たことがありますが、2回目でもやはりおもしろく、生きているようで、かっこいい!また見たいです。
これまで生きてきた人々の作り出したこんなにびっくりするほど丁寧だったり迫力があったりするものを自分の目で見ると、このまま何もできずに死んでいくのは避けたいと焦燥とともに感じます。骨以外にも何か残して今世を終えられたらと模索中です。また何か見に行きたい。大きな屏風を見たい。
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