
「トイレのないマンション日本列島としての原発立国体制」が当面してきた根本的錯誤,原子力エネルギー依存症の後始末につながらない議論の記録(後編)
【断わり】 「本稿(後編)」はつぎの前編を受けた記述である。できればこちらをさきに読んでもらえるのが好都合である。
※-1 泥沼同然でありつづけた東電福島第1原発事故現場の実情など
この※-1の題名(表題)の議論そのものに入るまえに,本日はつぎの『日本経済新聞』記事を介して,関連する論点の助けとなる補足をくわえて起きたい。その記事は,
「柏崎刈羽の再稼働,〔20〕25年度と遅延を併記 東電再建計画案」https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA15CLG0V10C25A1000000/ という見出しで,『日本経済新聞』(電子版の日付で)2025年1月22日 5:00 に掲載されていた。
新聞紙版だと1月23日朝刊において,つぎのように掲載される記事になっていた。この記事の中身は主に2つの関心事を含んでいた。
ひとつは東電の経営採算の問題として,当面はともかく「柏崎刈羽の再稼働」を実現したい同社の切なる願望である。
もうひとつは,経済産業省エネルギー庁のもくろみである「2040年度の電源構成目標」のうち,原子力(原発)比率を2割にまで増やしたいする,専断的な方針である。
実は,この比率は以前(つい最近までは),2030年度の目標とされていた比率であったが,10年延長させて表現しなおすように微調整(?)した。

上に紹介したこの記事にはひとつの図表が添えられていたが,電子版として公開されているこの記事の別版には,もうひとつの図表もそえられていたので,ここではその2つの図表を取り出して紹介しておく。まず上の記事紙面には出ていなかった表がこれである。

この東電柏崎刈羽の再稼働は実現していない
通常の企業経営であればこのような「稼働する必要」がある
資産が生かせていない状況は深刻な問題となるが
大手有力電力会社であることに変わりない東電は
日銭が確実に入る商売ができる会社ゆえ
このような経営状態でもなお存続可能である電力会社として
国家管理同様であっても実在できている
もうひとつの図表は「東電HDの業績推移」である。「純現金収支」という用語が使用されているところに注目したい。

a) まず「2022年度決算について」『東京電力ホールディングス』2023年4月28日,https://www.tepco.co.jp/press/release/2023/1665289_8713.html は,こう説明していた。
当社は、本日,2022年度(2022年4月1日~2023年3月31日)の連結業績についてとりまとめました。
連結の経常損益は,グループ全社を挙げた収支改善に努めたものの,燃料・卸電力市場価格の高騰などによる電気調達費用の増加などにより,前年度比3,276億円減益の2,853億円の損失となりました。
また,特別利益に原子力損害賠償・廃炉等支援機構からの資金交付金5,074億円,関係会社株式売却益1,233億円,固定資産売却益627億円を計上した一方,特別損失に原子力損害賠償費5,073億円,災害特別損失222億円を計上したことから,親会社株主に帰属する当期純損益は,1,236億円の損失となりました。
b) つぎに「2023年度決算」については,東電がやはり説明用に提供していた図表を,ここでは借りるかたちで理解しておきたい。

国家の援助があってもなお重い荷物である
その事故を契機に潰されても仕方なかった「日本を代表するような大会社」であったが
ゾンビのようにそれも国家支援があって生きのびている
c) さて,東電福島第1原発事故現場は,東電という公益的な民間会社,それも地域独占企業であった経営体制を根幹から破壊・破綻させた。いまもまだ,この会社が存続しえているのは,国家が最大限の支援を,それも国民の血税を投入して援助している最中だからである。
問題の核心には,原発による電源エネルギー(原子力)の占める比率を,最大時は3分の1近くまで拡大させ,確保してきたつもりである国家の指導そのものが元来,大きな過誤を犯していたという事実が控えていた。
現状においてすでに,東電福島第1原発事故現場の後始末だけでなく,他社(各電力会社)が保有している原発の廃炉工程でも,その具体的な諸作業を開始する段階になっているが(事実経過としての話),いままで,それらの「原発が稼いできたはずの収益」を,いかほどまで喰ってしまう顛末になるのか,まだくわしくは判明しえていない段階にある。
しかし結局のところ,割りの合わない発電方式が原発である事実は,いまさらのようにだが,「このさきの将来」においては徐々に,より明らかになる見通しというか展望しかもてないでいる。
ましてや東電福島第1原発事故現場の惨状は,原発事業に手を出した結果,そして原発が過酷な,つまり重大かつ深刻な大事故を発生させてしまったがために,もはやとりかえしのつかない〈地獄絵〉を,福島県浜通り地域に発生させてしまっていた。
d) つぎに,昨年の6月に書かれていたこの文章を読んでもらおう。東日本大震災・東京電力ホールディングスが『「3・11」は終わった』などいったら,お門違いの表現にしかなりえない事実を,いまさらのように教えられるはずである。
▼ 双葉町,ゴーストタウン12年からの復興 ▼
=『TAKARABE JOURNAL 本質を捉える視点』2024年6月11日,
https://www.takarabe-hrj.co.jp/journal/1385 =
〔2024年〕2月に続き福島の被災地を訪ねてきた。福島第1原発やその周辺に広がる中間貯蔵施設など,やはり自分の目でみないと本当のところはわからない。
訪ねるほどに「復興」とはなんなのかを考えさせられる。原発事故後,最も避難解除が遅かった双葉町。伊澤町長の話には胸をうたれた。川内村や楢葉町は,人口が震災前の6割以上に戻り,まだまだ復興途上とはいえ,人の営みが垣間見られる。
しかし2年前〔2022年〕にようやく避難解除が始まった双葉町の事情はまるで違う。震災前7,140人だった町民のうち帰還した町民はわずか105人。11年5ヶ月もの間,ゴースタウンと化していた双葉町の復興は尋常ではない。
県外,町外に住む町民の意識調査によれば「帰らない」が6割と過半数。「帰りたい」と「わからない」が2割前後ずつ。
はたして双葉町が存続することにどれほどの意味があるのだろうか。また存続するためにはどんな方策かあるのか。双葉町の伊澤町長は「まったく新しい町を創る」といいきる。
先行して復興しつつある被災町村とは違うことをしなければ,双葉町に未来はないと考えている。
災害復興住宅ひとつとってもワンパターンの標準モデルではなく,国の規制を突破するアイデアで,景観や造りこみがまるで違うものに仕上がっている。双葉町は「土間」は住宅宅面積の規制対象ではないことに気づいた。災害復興住宅に6畳の土間を置き,吹き抜けにすることでゆったり感を確保したという。
だが問題は単純ではなく「新しい双葉町には断固反対」の県外町民も多いという。「神社や祭りなどの文化は残すが,企業誘致や移住の視点からは新しい魅力を作らなければ双葉町に未来はない」(伊澤町長)
福島原発事故の被災地は一様に語れない。複雑な要素が迷路のように入り組んでいる。
ネット上には,東日本大震災直後に発生した大津波の被害を受けた各地域が,その後どのように復旧・復興してきたかを,パノラマ写真で撮影した画像を紹介し,その進捗具合(結果)を示したものも散見される。
けれども,原発が溶融事故をこしたために〈放射性物質の暗雲⇒放射性雲(プルーム)〉に急襲された地域では,前段で触れたごとき現実史が10年単位でまだ展開中であって,その受けてきた損害は「経済計算」ではとてもではないが,表現に尽くせる実体ではありえなかった。
今後においては,その対策・解決・始末のために,いったいいくらの経費がかかっていくのか,誰にも明確な予測ができないでいる。《悪魔の火》を借りてわざわざ電気を生産するという「人類史上,最大・最悪の決定・選択をした顛末」は,東電福島第1原発事故現場をみれば,もののみごとに表現されたことになる。
e) たとえば「福島第1原発事故1号機廃炉日程図解」というつぎの図解があったが,ある新聞紙が作成したこの日程表だと,今年:2025年からデブリの取り出しが開始できるかのように作表されていたが,その作業が本格的に始まる予定が立っているのではない。

すでにその3回目の「見直し」を告白すべき時期である
だいたい「廃炉工程」が「30~40年」で終えると本気で宣言できる関係者がいたら
その人は「ウソを承知で発言」したか「本当の無識者」
結局,昨年:2024年内において,なんとか取り出せた「デブリの小さなひとかけら8グラム」でもって,これからの取り出し作業のために役だつと思われる事前研究をするといった報道はあったものの,総量で880トンもあるその「核燃料の残骸を主成分とするデブリ」を,いったいいつになったら,本格的に取り出すための作業を開始できるのか,これは誰にも明言できない至難の工事に関した予想である。
もちろん,旧ソ連〔現在のウクライナ〕に立地しているチェルノブイリ原子力発電所が,1986年4月に起こした原発事故現場は,石棺方式で封印しておくための工事を,それも2回目となる後始末作業としておこなっていた。今年はもう2025年であり,すでにその事故発生から40年近く経っている。
ところが,東電福島第1原発事故現場は,このさき30~40年で「事故と廃炉の双方」が片づけられるかのように語られていた。けれども,事実としてはまったく実現不可能な,事故処理と廃炉工程に関する日程が,しかもその予定だけが,先走り的に語られてきた。実際のところ,その日程は順延を反復させてきた。
f) つまり,事態は東電をはじめ,国家・政府・地域社会のすべてにとって絶望的な展望しか,そこにはありえないできた。にもかかわらず,東電福島第1原発事故現場の後始末は,なんとかいきそうだ,何十年さきには,その後始末の見通しがつきそうだとでもいいたげに,それでいて,まともな根拠も合理的な理由も提示できないまに,単なる希望的観測での先送り的な感想ばかりが復唱されつづけてきた。
※-2 トンデモな原子力工学者の,まったくにデタラメな原発擁護・推進論の紹介をする,『日本経済新聞』社の体制擁護論は「度が過ぎていて」,原子力ムラの御用新聞の立場を昂揚させてはいるが,ここまでいい加減な主張ができる原子力工学者の「破滅的なエネルギー観」はあまりに非学問的であった
以下に紹介するのは,東京大学教授岡本孝司が『日本経済新聞』の「経済教室」(2016年11月7日朝刊)に投稿していた一文であった。これをとりあげ批判することになるが,四半世紀前の原発推進派の主張であるならばともかく,いまではまったく妥当性のない立論を,性懲りもなく執拗に反復していた。
いうなれば,「原発中毒症状」も露わなその口調が,いってみれば皮膚の表層にまで浮腫したかのような表現となって語られていた。それもいまどきにあってまったくに「恥も外聞もなく」,このような謬論・誤説を展示していた。
なんというか,その図々しい神経は,原子力ムラの居住者としては当然の要件だったといえても,客観的に突き放して観察してみるに,「原子力ムラの価値秩序の悪影響に完全にマヒした」状態でもって,しかもその自覚症状も皆無であるかのような精神状態だったのか,以下に引照するごとき完全に「論外でしかない破滅的な論旨」を堂々と披露していた。

当該記事より引用
東京大学の教員として,いまごろ〔2016年ごろ〕になってもまだ,この種の「悲劇的な原発認識」を大まじめに説明できたという様相は,コッケイを通りこして,みじめな御用的学者の姿だとしか受けとれなかった。
2011年の「3・11」以前より,日本における原発依存のエネルギー資源体制が,いかに大きく間違えていた路線であったかについては,高木仁三郎・広瀬 隆・小出裕章などが終始一貫,そして必死になって真摯に,原発による電力入手がいかに割りにあわず,また危険に満ちているか主張してきた。
「3・11」直後に発生した東電福島第1原発事故は,彼らによるその警告が現実のものになっていた。ところが,この東大の原子力ムラ専任の御用学者は,10年前であれば確かに,大きな顔をして提唱できかもしれな旧説を,いまごろ〔ここでは2016年時点〕にもなって,またもちだしていた。つまり,性懲りもなく繰り返していた。こういった批判的意識を前面にしっかり置いておき,以下の岡本孝司風の論述を読む必要がある。
◆「もんじゅ」廃炉へ(上)核燃料サイクルは堅持を
国産資源の確保に不可欠 ◆
= 岡本孝司・稿,『日本経済新聞』2016年11月7日朝刊「経済教室」=
補注)題字の段階だが,のっけから批判しておく。日本における使用済み核燃料サイクルは完全に失敗しており,その成功・成立のみこみはゼロに近いのである。
仮に,この核燃料サイクルの生産工程が成功するとしても,これを「国産燃料」というのは正しくない。もともと核燃料は99%以上国産ではない。
核燃料サイクルがうまく動き出すという期待も,いまのところ,100%近くないにもかかわらず,このような〈虚説〉を論じる工学者のお説であったからには,そのなにも信じることはできず,むろんなにも教えられることもない。
岡本孝司の寄稿については,ポイント3点が示されていた。これらもいちいち批判したうえ,本文の引用に進むことになる。
▼-1 将来世代のためにも資源の安定確保重要
▼-2 もんじゅ開発投資は日本の選択肢広げる
▼-3 日本はプルトニウムの平和利用で範示せ
▼-1についていう。これは空文句である。「将来世代のためにも資源の安定確保重要」は,再生可能エネルギーの開発・利用によってこそ,5年・10年単位の期間を経つつ,徐々に実現されている展望が確実に開けてきたではないか。
それを原発にのみ頼って実現させようといったたぐいの観点そのものからして,時代錯誤だったというか,意図的に他の選択肢を拒絶しようとする立場であった。まったきに虚偽の原発イデオロギーが喧伝されていた。
▼-2についていう。もんじゅの開発はもう無理と相場が決まった。それでもなお投資を続けろというのは,無駄金をドブに向かい投じつづけろというのと同じである。この原子力工学者は,経済学の知識はもちあわせていない,と受けとったほうがいい。
▼-3についていう。プルトニウムの平和利用という理解そのものが,まずもって反科学的であることは,常識次元の話題である。原発の応用が原発である。その反対ではなかった。
戦争のために使うのがもっともふさわしい原子力利用の方向性であったけれども,原発は苦肉の策としてアイゼンハワー大統領が提唱した。約言すれば,20世紀後半におけるエネルギー政策における最悪の愚策のそれが,電力生産のために原発で湯を焚き,この蒸気で発電用のタービンを回すという方法であった。
ではなぜ,アイゼンハワー大統領は,原発の普及を日本などにも勧めたのか,その歴史的な事情に思いをいたすべきであった。
--つぎに,岡本孝司の寄稿の本論を紹介・引用する。以上のような問題意識・批判精神をたずさえて,用心して読むべきである。なおここではその記事の現物も画像資料にして,さきに添えておく。

堅持せよとは「奇っ怪な見出し」のかかげ方であった
日本は資源のない国である。エネルギー自給率は5%でほとんどを輸入に頼っている。エネルギーを安定的に確保することは国の基盤だ。
補注)のっけから登場したこの暴論に反論する。自然・再生可能エネルギーの開発・利用が,現段階まででも徐々に盛行しつつある。各種各様のこの分野におけるエネルギーを総合的・有機的に活用することによって,エネルギーの安定供給が可能になっていく展望は,すでに明白な認識として理解されていた。
ところが,こちらのエネルギー問題に関する展望など,完全に無視した岡本孝司の迷論だけが提示されている。ともかく「エネルギーを安定的に確保することは」原発利用にしかないという,いまどき,猛烈に〈ハチャメチャな議論〉が,岡本の脳髄のなかに満ちていたことになる。
〔記事に戻る→〕 原子力利用の憲法にあたる原子力基本法第1条には,原子力利用は「将来におけるエネルギー資源を確保」するために進めると明記されている。資源小国の日本が,原子力という大きなエネルギー源を積極的に活用し,将来にわたり安定した国家を確立することをめざしている。
補注)こういう陳腐な台詞を,いまごろになっても復唱できる「バカらしさ」じたいに,そもそもこの原子力工学者は気づいていなかったわけか?
原子力基本法第1条は金科玉条なのか?
「資源小国の日本」という定義的な表現じたいが大間違いであった。自然・再生可能エネルギーの開発・利用の余地・未来は「資源有国である日本」の可能性「要因」を明確に教示していたのではなかったか?
この工学者は結局,「エネルギー資源」=「核燃料:原発」という定義しか念頭に置いていない。というか,もっぱらそれしかみようとしていない。度の強い近視眼の持主だったどころか,平然と盲目同然の主張を開けっぴろげに語っていた。
〔記事に戻る→〕 現在の日本人にとってのエネルギーであるとともに,これから生まれてくる将来の日本人のために,現世代がどのようにエネルギーを確保するかを考えなければならない。50年後の日本人に向けて,いま生きている日本人がどのような戦略でエネルギーのバトンを渡していくかが重要だ。
補注)その「バトン」はすでに原発〔のバトン〕を捨ててよいくらい,自然・再生可能エネルギーの開発・利用に向かい,日本でも鋭意,邁進してきた。九州電力や四国電力の管区では,太陽光発電による電力が初夏になるとあまり,電力会社側から「出力制御」を求められるところまで来た。これは5~6年前から発生してきた出来事である。
岡本孝司が寄稿した日本経済新聞が毎日,朝刊と夕刊で報道する記事のなかにも,どれほど自然・再生可能エネルギーの開発・利用に関するものがあるか,数えたことはないのか?
〔記事に戻る→〕 このためには原子力だけでなく,再生可能エネルギー,深海に眠るメタンハイドレート,核融合など,長期的視野に立ってさまざまな可能性を追求していくことが必要だ。残念ながら,国産で安定的にエネルギーを供給し,二酸化炭素(CO2 )を出さず,経済的にも優れているオールマイティーなエネルギー源はない。
よってベストミックスを基本にさまざまなエネルギー源を活用するとともに,将来のエネルギー確保に向けて,戦略的に開発が進められている。このなかで,原発の使用済み核燃料からウランやプルトニウムをとり出して再利用する「核燃料サイクル」は50年後の未来に向けて,非常に有望なオプション(選択肢)のひとつだ。
補注)岡本孝司は,日本における「50年後の未来に」おける「非常に有望なオプション(選択肢)のひとつだ」として「核燃料サイクル」を,いまどきになってだが,なぜか再主張していた。
だが,半世紀もさきの話をするならば,そのときは原発なしの時代になりうるし,この方途は「オプション(選択肢)のひとつ」こそが,実は非常に有力で有望だと期待できる。そのときに至れば原発は完全に無用の長物の時代になる。
そういう方向性が実現する可能性が一番高い。にもかかわらず,エネルギー資源の利用方法においては,原発を中心に置きたい立場・方向を強く前面に押し出していた。
すなわち,エネルギー資源間の「ベストミックスを基本にさまざまなエネルギー源を活用する」というけれども,ひどくトンチンカンというかチンプンカンプンな語り口であった。
要は,単に「原発のベスト利用」(なんでもいいからともかく原子力を使えという発想の立場)を構えていただけである。端的にいえば,原発の大幅な再稼働のみならず新増設まで狙っている魂胆だけが,まるみえになっている。
この岡本孝司の発言からだいぶ時間が経ってだが,日本の首相になってからも「異次元的な世界に生きてきた世襲政治屋3世」の岸田文雄は,「原発の再稼働のみならずその新増設まで唱えた」。この発言に岡本の意見はぴったり合致する。原発の不利性・有害性(公害性)にいっさい目を向けない意見だという意味でも,なおさらそのように理解できる。
〔記事に戻る→〕 現在の日本の発電量は年間約1兆キロワット時である。発電単価を1キロワット時あたり15~20円と仮定すれば,総額15兆~20兆円の経済規模だ。
福島第1原子力発電所事故後に原発を止めているため,年間3兆円の天然ガスを余計に輸入している。これは全体の2割程度に当たることがわかる。電気代が10~20%上がっている背景にはこうした事情もある。
補注)この発電用の燃料費に関する理解は奇怪であり,論理に欠落がめだっていた。そしてずいぶん陳腐な議論でもあった。天然ガス(LNG)の燃料代の高価さをもっぱらとりあげて強調する議論の方法は,単独でこの数値だけをとりあげるのでは,経済論的見地から十分に判断をくわえたことにはならず,むしろ完全に誤導そのものになっていた。
たとえばここでは「3兆円」分もLNGを「余計に輸入」といっているが,原発が発電してきた電力はなくても済んでいる「電力の需給関係」の状況のなかにあって,そのように直接に結びつけたがる議論は,実は拙速の解釈である。ともかく原発を動かしたいそのためには,どのような屁理屈でももちだし,押しつけるという寸法になっていた。
ここではたとえば,つぎ(後段に挙げる)の諸統計資料を参照したい。2014年後半期には石油・LNGの価格(先物取引市場)は半分以下にまで低落した。
いってみれば,「年間3兆円」という金額そのものを単独で指摘・強調したつもりの表現は,当面する論点を体系性・論理性ある認識のなかを通した議論にはなっておらず,誇張だけを前面に出したものである。
つまり,前後関係が不明な背景事情のなかで,ただひとつだけ「3兆円」という数字単体が,ただコケオドシ的にちらつかせられていた。原子力工学者に経済統計学などは無用(無縁?)であったのか・・・。


原子力工学者の手には余るモノか?
つぎの『ガベージ・ニュース』の内容は
月ごとの価格変動を紹介している

これらの図表からはなにが読みとれるか? たしかに2011年からは天然ガスの輸入量は増加していた。しかし,以前からつづく数十年の傾向・動勢をよく観てみればすぐに判る点がある。「年間3兆円」という単発の金額指示に「脅し的な材料」に使える余地はなかった。
以前からとくにいちばん上に配置した「天然ガスの用途別使用量の推移」のなかに示されている各項目同士の比率は〔2014年には電力用:63.1%,都市ガス用:28.8%,その他 8.1%であるが〕,以前(何十年も前という意味)の比率に比べても,それほど大きな変化はしていない。
「3・11」の大事故があってもなくても,大概にはそうでありつづけてきたわけである。おまけに2014年中に原油価格(LNG価格も連動する)は大幅:半分以下にまで下落していた。
はたして「3兆円」の金額でもって,なにがいいたかったのか? 疑問だけが残る。要は,岡本孝司のいいぶんはもっぱらアジテーションにあった。「原発マンセー」の立場からなのかともかく,無条件に原発稼働を全面的に再開させたいがための,なりふりかまわぬ非論理的な主張が,大手を振って大道を練り歩いていた。
〔岡本孝司の寄稿に戻る→〕 各家庭に届く電気使用量通知をみてほしい。東京電力の場合,10月分には1キロワット時あたりマイナス4.95円の燃料費調整がかかっている。これは2~3年前に石油価格が大幅に下落したときの燃料費が還元されているものだ。また再生可能エネルギー発電促進賦課金も同2.25円載っている。
足元では石油価格が少しずつ上昇しているので,燃料費調整の還元額は減っていき,近い将来ゼロまたは賦課に転じる。一方,再生エネの賦課金は,現在建設中の太陽光発電所などを賄うために近い将来,2倍以上の同5円程度になることが分かっている。
補注)この原子力工学者は,自宅に届く電気料金請求書をこまかにみたことがないのか? 燃料費調整の下落・上昇をウンヌンしていた様子があったが,われわれ電力消費者側の立場や原発再稼働反対・原発廃絶に賛同する一般消費者は,過半が原発の利用に反対であった。なかでも,燃料費調整費が「マイナス」になっていた最近のその請求書さえ,本ブログ筆者の場合では手にとってみたことがある。
したがって,電力料金に上乗せさせられている燃料費調整費や再生エネの賦課金は,甘んじて受けいれている。それよりも,これからさき自然・再生可能エネルギーの開発・利用が盛んになり,原発が廃絶されることを願っている。そのために負担しなければならない諸経費は我慢してきた。
実際,わが家の電気料金(東電管内である:2016年11月での話)の請求書をみていると,「3・11」以来のしばらくのあいだは,電気料金体系・内容は各単価上昇により,徐々に相当に高くなっていた。だが,その後は逆にかなり低くなってもきている。これは,原油価格の動向に大きく影響されている趨勢を反映していた。
岡本孝司の発言においては「3兆円」ということばが,LNGの輸入という点にかけられてヤケに強調されていた。
けれども,経済情勢(原油・LNG価格の趨勢変動)とは無関係に,原子力工学者がひたすら煽るためであるかのように,しかもその数値:金額を突飛に単独で口に出しながら力説する「原発がないと困るよ」という警告は,当時においてさえ完全に「狼少年の遠吠え」同然であった。
この点はすでに,本ブログ筆者はあちこちの記述において,なんども指摘してきたコケオドシ的言辞であり,再度にわたり警告もし,批判もしてきた論点であった。
〔記事に戻る→〕 高速増殖炉原型炉「もんじゅ」を進める意味は,国産エネルギーを自主開発するという一言に尽きる。50年後の日本人に向けたタイムカプセルである。もんじゅが20年間で1兆円使っているといわれるが,1兆キロワット時の発電量で割り算し,さらに20年間で割り算すると1キロワット時あたり0.05円にすぎない。もんじゅ再稼働で5千億円かかるといわれるが,これも10年で割り算すれば,やはり同0.05円だ。
補注)この論法は「比較の方法」としてゴマカシがある。比較するもの同士,同じ土俵に乗せて共通させながら比較する材料にはふさわしくないもの同士を,強引に引っぱり出しては故意に比べている。それゆえ,いってみれば狐の体長と狸の体長を比較して,アレコレのたまうごとき言説。
なかんずく,日本に原発が導入され実際に電力生産のために利用されてから半世紀が経っているが,「3・11」といった世紀に記録されるべき東電福島第1原発事故は,その結末が大失敗であった事実を実証した。
原発コストが安価であるというのは,この東電福島第1原発事故現場の惨状とこれによって発生しつつある,またくわえてこれからも発生するはずの膨大な経費発生には,完全に目をつむった「根拠のみあたらない楽観論」であった。
日本が原発が(日本原子力発電の東海発電所は1966年に運転を開始していた),電気を生産しだしてから「3・11」の事故に出遭うまで半世紀近くが経過した。こちらの時間の経過は,タイムカプセルを通さない現実そのものの歴史であった。
いまだに核燃料サイクル事業を実現させる可能性など,その見通しすらつかないでいる〈もんじゅの話〉を,そのように「仮の想定」で語るのは,おとぎ話の域を出ない。またいえば,タイムカプセルの譬え話を当てて,できるような「現実における原発の問題」でもなかった。
--さてここでは,竹内敬二「『もんじゅ勧告』のすごい内容-原子力機構をコテンパンに。勧告は『答えのない問い』か?」(『WEBRONZA』2015年11月24日)が,つぎのように論じていたことを紹介しておく。
原子力規制委員会(田中俊一委員長)が文部科学大臣に出した勧告が原子力界を揺るがせている。日本原子力研究開発機構(原子力機構)にはもんじゅの安全管理能力がないので,「運転するなら他の組織を探すこと(つくること)」を命じたのだ。
役所仕事として考えれば,組織の名前変更が頭に浮かぶが,それには「看板の掛け替えはダメだ」とクギをさしている。勧告の全文を読むと,その厳しい表現におどろく。政府内の仲間である役所同士の文書としてはちょっと見たことがない書きっぷりだ。
〔このあとはこまかく引用しないで,しばらく見出しだけみると,こういうふうな,その文句が挙げられていた〕
「止まっているもんじゅの安全管理さえできない」のだから,「これは答えのない問いだ」し,「ふつうなら廃炉」である。ところが「廃炉にならない意外な強さ」が残っている。
〔ここからは該当の段落のみを引用しておく→〕 もんじゅは崖っぷちに追い詰められているが,なかなか「廃炉」の声が出ない。これまでも,なんどか廃炉の危機に立ったが,乗り越えてきた。理由はふたつあるだろう。
そのひとつは,日本の原子力政策はなにがあっても変わりにくいということ。もんじゅだから変わらないのではなく,原発政策を大きく変えるビジョンや政治的パワー,そして変更を議論する制度(プロセス)もない。一般的にいわれる「日本の原子力政策はなにがあっても変わらない」という側面だ。
もうひとつは,もんじゅ特有の理由だ。「もんじゅ廃炉」の議論は原子力政策全体を揺るがせかねないから廃炉論議を避けるという側面だ。もんじゅを廃炉にすればつぎのような議論が予想される。
◆-1 もんじゅが消えればFBR(Fast Breeder Reactor:高速増殖炉)の開発が事実上なくなる。
◆-2 FBRがなくなると,FBRで使うプルトニウムを抽出する再処理工場の必要性がゆらぐ。
◆-3 核燃料サイクルの全体性がゆらぐ。
◆-4 原発の使用済み燃料が六ケ所再処理工場で再処理できないとなると,使用済み燃料が原発にたまって,原発停止の可能性が出る。原発そのものの規模縮小につながりかねないドミノ議論だ。とすれば,もんじゅ廃炉の話を避け,かたちだけでももんじゅを維持しようとする力が,日本の原子力界共通の利益としてでてくる。
補注中の補注)岡本孝司が必死になってもんじゅの稼働にこだわる事由が,以上にうまく説明されている。そのために岡本はごちゃごちゃした,素人にはとても判りにくい・目くらましのような,わざと展転とさせる議論を披露していた。一言でいえばお為ごかしでもある説法であった。
補注に戻る→)「ドミノ」はかつてドイツで起きた。ドイツは日本と同じように,国内にサイクル施設をすべて有するかたちでのサイクルを計画していた。しかし,反対運動などで1989年にバッカースドルフ再処理工場の建設を断念したことを契機に,サイクル計画ががらがらと崩れた。
1991年には「もんじゅの姉妹炉」といわれたFBR原型炉「SNR300」が運転直前に放棄された。1993年にはハナウ市で完成直前のMOX工場が裁判で止まった。1994年には原子力法が改正され,再処理をしなくてもよくなった。「全量再処理」路線が崩れた。ここでサイクルが全滅した。サイクルの環がひとつ切れるとつぎつぎにドミノが起きたということだ。それから20年でドイツは脱原発まで決めた。
補注中の補注)要するに,日本はドイツみたく思い切れないだけのことであった。その関係者の1人が原子力工学者岡本孝司であった。ただし,この人は経済学(国家経済学もしくは政治経済学)をまったく理解していない識者であった。
註記)以上で補注内に引用した文章は,http://webronza.asahi.com/science/articles/2015112000006.html から。
〔岡本孝司の寄稿に戻る→〕 再生エネの100分の1程度を,将来のもんじゅ開発に投資することで,50年後の日本人の未来オプションを確保しておくことは,そんなに異常なことだろうか。
前述したように核燃料サイクルを進めることで,将来のエネルギー資源を確保することが現在の日本の戦略だ。
「プルトニウム鉱山」としての高速増殖炉を中心とし,高レベル廃棄物を減量するとともに,純国産のエネルギー資源を確保する。CO2 もほとんど排出しないという大きなメリットがあり,温暖化対策の新たな国際的枠組「パリ協定」への貢献も期待される。
補注)ここではパリ協定まで話題に出てきた。この話題については,こういう意見を紹介をしておく。
「日本は,世界第5位のCO2 排出国であるが,先端技術で今日までCO2削減に努力しているものの,エネルギーを再生可能エネルギーよりも石炭,石油など化石エネルギーに重点を置いており,世界の趨勢が再生可能エネルギーに向いているなかで逆走している」
「そんななかで,今回の批准の遅れは日本に対する世界の目が厳しくなっている。世界唯一の被爆国でありながら核兵器禁止条約に反対し,パリ協定の批准が遅れている日本は,安倍晋三首相が唱える積極的平和主義とはほど遠い立場に立たされている」
註記)「パリ協定が発効,日本は批准が遅れ厳しい立場に」『正さん日記 世の中思いにつれて』2016年11月5日 10:20:09,https://blog.goo.ne.jp/syosan1936/e/2feebbfad913e7ca5c4e78abfaeb2946
〔岡本孝司の寄稿に戻る→〕 また経済産業省の試算によれば,現状での高レベル廃棄物を含む核燃料サイクルのコストは1キロワット時あたり 1.5円程度である(図参照)。

『日本経済新聞』2016年11月7日朝刊から
プルトニウムを使うことで,コストが少し増えたとしても,経済的なメリットを大きく脅かすものではない。通常の原発を動かすことで大量に発生するプルトニウムを有効に活用し,さらに高速増殖炉で効率的にプルトニウムを生産することで,長期的な国産資源を確保する。
補注)このあたりからは,岡本孝司によるウンザリさせられる駄論がなおも続いている。この段落での話題はあくまで「仮定(想定)の作り話」であった。
前段の図解:説明を踏まえていっておく。「社会的費用」にくくってある上部の費用は「天井なし(青天井)」に描かれているが,まったくこのとおりであった。東電福島第1原発事故現場においては,この社会的費用の項目が歯止めもなく増大しつつ増殖してきたではないか。
しかし,この原発事故の後始末にかかる経費は,これからも際限なく発生してくる社会的費用である。けれども結局は,外部経済に「その経済・社会的な責任」を押しつけた関係で処理しようとしている。
これは経産省のもくろみでもあって,東電が地域独占企業として総括原価方式の利点を最大限に享受していながら,いざ世紀の大事故を起こしたあとの始末は,その大部分を国家(国民)に付けまわしである。これほど理不尽なやり方はない。
〔記事に戻る→〕 プルトニウムは原爆の原料になるため,取扱いには国際的な監査を含めた慎重な取り扱いが必要だ。日本は原爆をもたない国で,かつ原発の燃料として使うためにプルトニウムの処理が許されている唯一の国だ。世界の人口爆発やエネルギー需要の膨張を踏まえ,プルトニウムの平和利用を進めることで,世界のエネルギー資源確保にも貢献することが望まれている。
もんじゅはナトリウムを冷却材として利用するため,慎重にとりあつかう必要がある。世界をみるとフランスの「フェニックス」やロシアの「BN-800」など,ナトリウム冷却の高速増殖炉を安全に運転している実績がある。フランスはフェニックスでナトリウム漏洩など多数のトラブルを経験し,実力を高めている。
ナトリウムのとりあつかいに課題はあるが,原発の安全性にはメリットもある。みそ汁でみられるような自然対流という物理現象により自動的に冷える。もんじゅが福島第1原発のように全電源喪失になったとしても,空気冷却器のダンパ(弁)を手動で開ければ,あとは勝手に冷え,炉心損傷は起きない。安全性という意味ではある意味,軽水炉よりも,もんじゅの方が安全ともいえる。
補注)ここでの「みそ汁」のたとえは,最悪の事例・用法である。ナトリウムのとりあつかいじたいが,日本ではこれまでさんざん手こずってきた技術的な難点であったにもかかわらず,いかにもたいした問題ではないかのように記述していた。小手先でのゴマカシ的な話法がここでも使いまわされていた。
〔記事に戻る→〕 もんじゅを動かして確認する大きなテーマのひとつに,この自然循環が正しく予測できる点を確認することがある。もんじゅより大型の次世代炉の安全性を確保するには,もんじゅが重要な位置づけを占めている。原子炉の規模を少しずつ大きくする戦略をとっているのは,万一事故が起きたときにも安全が確保されることを,段階的に確認しながら前に進んでいくためだ。
補注)岡本孝司はここで「決定的な過ち」の発言をしている。原発関係施設においては「万一事故が起きたときにも安全が確保されること」ということじたいが,完全に保証されていなかった。そのかぎり,このような主張をすることじたい,完全に間違えていた。
「万一」とか「万々一」(1億分の1)という発言は,実は,冒頭に紹介したNHKの特番のなかでも,原発を日本に導入した政治家中曽根康弘が発言していた文句でもあった。
しかも,前段でのような岡本孝司の表現によれば,「万一事故が起きたときにも安全が確保されることを,段階的に確認しながら前に進んでいく」というが,いかにも「段階的に確認しながら前に」という表現からして,マヤカシそのものの修辞である。
事故と安全とは抱きあわせであってよく,一心同体:呉越同舟であるかのような説法であった。「3・11」を体験した日本国民にしてみれば,一読して即座に,噴飯モノの議論と感じるほかない。
もんじゅ見直しのきっかけとなった昨〔2015〕年11月の原子力規制委員会の勧告には事実誤認も多い。原子力安全にはほとんど影響しない細かなミスを指摘し,最終的には組織の問題にすり替えてしまった。もんじゅ運営主体の日本原子力研究開発機構(JAEA)は,新型転換炉「ふげん」を安全に25年運転した実績がある。積極的に改善を進めてほしい。
補注)この段落は,最初に段落で触れた「原子力規制委員会(田中俊一委員長)が文部科学大臣に出した勧告」に対して,ひどく反撥した文句である。
現実,高速増殖炉の問題は,いまの日本においてはすでに,無用・無駄な投資であった記録だけが残されている。再生エネのほうにエネルギー資源問題の関心が移行していけばいくほどさらに,原発(もんじゅという高速増殖炉)は不必要・無用になる。
田中俊一と岡本孝司のやりとりの実質は,ほとんど泥仕合の様相を呈していた。
〔記事に戻る→〕 残念ながら原子力規制庁には高速炉の専門家がほとんどいないため,原子力安全に対する本質的なコメントができず,新規制基準も中途半端なままだ。そこでJAEAはピアレビュー委員会をつくり,新規制基準の考え方を発展させて,もんじゅの安全性を確認した。さらに国内外の専門家によるレビューも実施し,国際基準に比べて十分な安全性が確保されていることをホームページで公開している。
補注)原発推進派側の過去からの履歴に照らせば,こういう意見・立場(エネルギー思想)が,世の中にすなおに受けとめてもらえるかどうかを,まずさきに問うべきであって,ひたすらこのように訴えても説得力はなかった。「3・11」に懲りている国民・市民・庶民を納得させうる議論ではなかった。
〔記事に戻る→〕 50年後の将来に向けて,高速炉以外の選択肢はないのだろうか。再生エネはそのひとつだが,残念ながら風任せ,太陽任せであり,安定的なエネルギー源にはなりえない。そこでコストが非常に高い蓄電池などのかたちで平準化を図る案もあり,開発を進めている。海水に溶けているウランを回収するアイデアもあるが,濃度が薄すぎるため,きわめて大量の海水を膜に通す必要があり,システムとして成立するかどうかは疑問だ。
補注)ここでの再エネに対する認識は,相当に偏見と独断に満ちていた。専門家のことだから,ここでは岡本孝司向けに適切であった文献から,つぎのこういう段落を引用しておく。30年も以前の文献における指摘(岡本への真っ向からの反論)である。
岡本のいいぶん〔「再生エネはその一つだが,残念ながら風任せ,太陽任せであり,安定的なエネルギー源にはなりえない」〕という一方的な決めつけは,いうなれば,アジ演説にしかなりえなかった。だが,これもまた,東大教授のお説である。東大工学系の教員には同じような頭脳内構造を有する人間たちが大勢住んでいるらしい。

再生可能エネルギーの流れの変動性について考えることに慣れていない人びとは,気まぐれな天候が再生可能エネルギー利用の信頼性を低下させるので,完全なバックアップが必要となり,既存エネルギーの容量を小さくすることはできないという考えてしまう。
ところが,詳細な分析によると,再生可能エネルギーの変動は,エネルギー源ごとに異なり,その攪乱は従来型エネルギー型システムに対する攪乱(技術的故障,石油禁輸,ストライキ)よりも小さくかつ予測可能であることが分かっている。致命的で解決不能な貯蔵の問題を生じるのは,既存のシステムのほうなのである。
註記)エイモリー・B・ロビンス&L・ハンター・ロビンス,室田泰弘・槌屋治紀訳『ブリトル・パワー-現代社会の脆弱性とエネルギー』時事通信社,昭和62年,305頁・下段。
〔岡本孝司の寄稿に戻る→〕 日本にはエネルギー資源がないことを大前提とすべきであり,さまざまなオプションへの投資を考える必要がある。今日は停電しないから,10年後も停電しないとは誰もいえないのである。
--結論の部分における岡本のこの見解も,実は大間違いである。「日本にはエネルギー資源がない」とは,なにを根拠にここまでいいきれたつもりか? 空想でものをいうのは止めるべきである。
「さまざまなオプションへの投資を考える必要がある」のは,まさしく再生可能エネルギーの開発・利用に関しても,まさしく今日的によく妥当していえる〈目前の話題〉ではなかったか?
あえて,きわめて率直にいわせてもらう。「バカいっているのではありません!」と叱責を受けるべきであるのが,岡本孝司が「原子力工学者,原子力ムラの構成員としての立場」から,以上のように放った,それも「未来の問題次元に対しては意図的に目を閉じた」,しかも「短見によって目から鱗がいつまでもとれないでいる」ような主張であった。
※-3 オマケの付言的な引用
いんようするのは,「御用学者の立場と発言」『あーとランダム 現代美術を中心に活動している原田文明の公式サイトとブログ』2011年4月13日 04.13, https://bummei-harada.jugem.jp/?eid=1299 である。岡本孝司のことに触れて,こうもいっていた。
御用学者という人がいる。あれはいけない,ふざけた話がもっとあるぞ!
なんと東電から大学院に6億円の寄付。これを常識とする世界がある。
福島第1原発の事故が起きてからやたらとテレビに出てくるので,もう完全に名前も覚えてしまった東大大学院の関村教授。たいていは現状を追認して「心配ありません」というだけなのだが,これには理由があるらしい。
けっこう,出演料もあるンだろうな~
東大の「寄付講座・寄付研究部門設置調」という資料から,東電が出資している寄付講座(企業からの寄付で研究活動を行う研究室のようなもの)を抜粋すると,他社との共同のものもあるが東電の寄付金の額を全部足すと,6億100万円に上る。ほとんどが大学院工学系研究科の講座ということらしい。
だから,東電からもらったカネで研究している学者が,東電に不利 なことをいえるわけがない,ということらしいのだ。
寄付講座は当然,寄付者の意図をくんだ研究内容が多くなる。東電に限らず,大学の理系部門には電力会社による寄付講座がゴマンとある。研究費がなければ,やりたいこともできないし,原子力関係はとくにカネがかかる。
だから,電力会社に研究資金を出してもらえる原発推進派でないと偉くなれないのが現実らしい。第1,原発がなくなれば,自分たちの食いぶちがなくなってしまうのだから,必死で安全性をアピールする,ということになるらしい。
まさに産学一体で,原発事業を推し進めてきたことになる。
東電のカネで研究してきた東大教授は,自分の意をくんだ院生を助手にして後を継がせたり,息のかかった学生を東電や,東芝・日立などのプラントメーカーに送り込んできたという。
一方,東大の岡本孝司教授も,「大丈夫です」しかいわないけれど,彼は原子力安全委員会の班目春樹委員長が東大工学部教授だった時の教え子というから驚く。みのもんたの『朝ズバッ!』に出ている東大特任教授の諸葛宗男氏も,東電の寄付講座のおかげで,東芝の技術顧問から東大教授に転身したといわれている人だから,批判なんてできるワケがない。
ちょっとふざけていないか,この話。
同時代に生きていて,情けない気持ちと,申しわけない思いをどうすることもできないでいる自分がいる。(引用終わり)
---------【アマゾン通販:参考文献】------------