日本はなぜ原発を止められないか,原子力の平和利用という前にその軍事利用が本流であった宿命を考える
※-1 日本経済新聞社が原発大好きであらねばならない事情など
a) まず『日本経済新聞』のこの「社説」は,つぎのように主張した。
日本における電力需要をめぐってだが,「国内では2050年の需要は足元に比べて1~4割程度増えるとの試算がある」ゆえ,「安全が最優先にしつつ」原発を,大いに利用(稼働)させるべきだという主張は,
この「1~4割程度増えるとの試算」そのものが,そもそもいいかげんさ,雑駁さ湛えていたと同時に,再生可能エネルギーの「これからのさらなる利用・発展・普及」に直接,妨害要因とならざるをえない「原発の再稼働,そして新増設」まで決めていた,岸田文雄のエネルギー対策路線に照らして考えてみれば,
エネルギ-需給問題に備えて今後は最優先されるのは,原発ではなく再生可能エネルギーの各種生産方式であるといいながら,それでもあいもかわらず,その妨害要因(お邪魔虫的な存在)でしかありえなかった原発(電源としての原子力)をそこへ割りこませておくために,
わざわざいうまでもない文句,「安全を最優先に」といった断わりを入れながら,原発も大いに活用すべきだと強調したい『日本経済新聞社なりの提唱』は,
実は,原発に〈憑きもの〉であった問題,つまり,安全性そのものに関してならば非常な危険性,いいかえると,一度でも大事故など起こした段には,桁外れの放射性物質を地球規模の環境公害として惹起させる事実を承知のうえで,つまり,原子力ムラの意向を最大限に汲んだかたちの論調を社説にかかげたものである。
b)「〈社説〉AI時代を見据え電力消費の分散促せ」の紹介-こちらではまず,この社説を活字で引用する-
--人工知能(AI)の活用や経済のデジタル化により,電力需要が増えるとの見方が強まっている。国内では2050年の需要は足元に比べて1~4割程度増えるとの試算がある。
需要の増加は安定供給と脱炭素の両立を一段とむずかしくする。AI時代の到来をみすえ,電力を大量消費する拠点を,脱炭素電源である再生可能エネルギーが豊かな地域に分散させるべきだ。
補注)ここでは再生可能エネルギーに対して大いに期待をかけている論旨になっていた点に注意しておきたい。参考になる記事の一部分切り抜きも,ここで参照しておきたい。
〔記事に戻る→〕 生成AIの普及,データセンターや半導体工場の増加による電力需要の増大は世界的な課題になりつつある。米グーグルはデータセンターでの消費電力の増加に伴い,温暖化ガスの排出量が4年間で約5割増えたと発表した。
日本でも約20年ぶりに電力需要が増加に転じる見通しだ。東京電力パワーグリッドは,データセンターが集中する千葉県印西市周辺の送電線と変電所を増強した。
増える需要に対応するには,まず脱炭素電力の供給力の増強が重要だ。ひとつは太陽光や風力など再生エネの適地を掘り起こす。さらに安全を最優先にしつつ,原子力発電の再稼働を着実に進める必要がある。
補注)すでに前段で批判的に言及していた段落がここでも出てきた。基本となる問題点を指摘しておきたい。
原子力(原発)による発電は「脱炭素電力の供給力の増強」には,全然なっていない。逆理を真理の事実でありうるかのように説明したがる『日本経済新聞』の立場は,率直に批判しておくが,まずもって,欺瞞に満ちた非科学的・反学問的・逆人類生物的な虚偽の主張である。
〔記事に戻る ↓ 〕
c) 原発が脱炭素であるどころか,その逆も逆であって,トンデモなCO2 の排出源であった事実を,そのように平然と否定できる発言は「嘘から出たまこと」など期待できないどころか,「嘘でもって真実を真っ赤(黒?)に糊塗した虚言」であった。
【参考記事】-CO2 問題についての別論的な観点-
つぎに,見開きの複写にして公開するのは,半世紀近くも前に槌田 敦が指摘していた「エネルギー無駄づかい」を特技としたごとき原発の事実,しかも,自設備で消費する電力を賄えないという,まさしく「でくの坊的な発電装置・機械」であった「原発の不利性」,もしくは「技術経済的な非合理性」を説明したものである。
世界各国には現在,450基近くほどある原発のどれか1基が,もしも再び深刻かつ重大な事故を起こしたぶんには,この地球上に存在する当該国や近隣諸国は大恐慌を来すハメになる。
チェルノブイリ原発事故のときは,とくにヨーロッパ諸国に対してまで広域に深刻な放射性物質汚染がもたらされた。このような事故の再来がまた起きないという絶対の保障はありえない,と認識するのが当然の立場である。
d) 日本の隣国に位置する韓国,北朝鮮(軍事用が中心だが),中国などのうち,たとえば韓国あるいは中国の原発1基が大事故を起こした場合を想定してみるがいいのである。
風向きによっては,隣国の原発事故からのトバッチリを受けて,日本側に大災害が襲来する。下手とすると特定の地方・一定の地域が大損害を受けてしまい,事後人間が暮らせないところが出てしまう可能性が否定できない。
2011年「3・11」の東日本大震災によって,東電福島第1原発事故が発生し,3基もの原子炉が溶融した大事件は,国家・政権や電力会社:東電側においては当時,なるべくあえて深刻ぶらないようにとりつくろい,つまりゴマカシながら対応をしていたものの,
東電福島第1原発事故現場では,その原子炉じたいが爆発しなかった4号機の場合でも,結果的にはこれがまれにみる僥倖であったが,東日本全体が人間の住めない地域になるような結果をもたらしかねなかった事態を,たまたま偶然にも回避できていた事実を忘れてはいけない。
事故が発生したさい4号機は運転停止中であった。だが,こちらの「使用済燃料プール」に移動させていた燃料棒が浸かっていた冷却水が,地震によって喪失するという重大な事態が発生していた。
ところが,偶然にも上層に別途たまたま溜めてあった大量の水が,地震の揺れの関係で運良くも間を空けずに,「そこ」に流入してくれた事実は,けっして忘れぬことができない幸運な出来事であった。
つぎに【参考文献の紹介:アマゾン通販】を借りて紹介する文献は,瀬尾 健が,その種の原発事故発生を想定し,全国の各地に散在する原発が事故を起こした場合,どのように,放射性物質の流出・拡散による被害が発生するかを予測(シミュレーション)したものである。
e) つぎに挙げる図表は,世界のエネルギー事情 世界中で利用されている原子力発電。一番多い国はどこ?」『エネ百科 きみと,未来と。』2024年6月18日,https://www.ene100.jp/column/1428 からの引用である。
ところで,「原発の大事故」は想定外だとみなせるし,ひとまずそれほど心配しないでよろしいと発言できる政治家や専門家は,現時点ではほとんどいなくなっているはずである。しかし,もしもそのたぐいの人がまだいるとしたら,その人はそもそも無知なる政治屋であるか,あるいは偽物の科学者である。
『日本経済新聞』の社説はまだ途中だったので,以下につづけて紹介していくが,この社説のごとき「ご託宣」を述べてみたところで,前段にしてきしてみた〈想定しておく必要のある大事故〉が,日本以外の近隣の国々で発生したときは,最悪の場合だとなれば日本も大きな被害を受ける。ただごとではない国家緊急事態の発生となる。
そういえば,東電福島第1原発事故が発生したさい発令された「原子力非常事態宣言」は,2011年「3・11」以来,いまだに発令中であって解除されていない。
それでいて『日本経済新聞』の立場のように「安全が最優先にし(され)つつ」などと,いちおうは断わっているつもりで「原発の再稼働」を進めろと,いつもせかしていたのが『日本経済新聞』社説の立場であった。
f) つぎにかかげる『日本経済新聞』2024年7月9日朝刊「7面オピニオン」は採算の取れない原発の利用は,この見出しのように「中ロ支配の原発システム」として解説されてもいた。
あえて極論する。原発事故の恐ろしさを「しってかしらぬか」は「しらぬ」が,『日本経済新聞』の基本的な立場は原発推進論の新聞社であった。ある意味「狂気の沙汰」も同然の意見・主張を,同紙は常時吐きつづけてきた。以前からいままでずっとそうであったのである。
同社の幹部たちや編集委員に訊ねたいが,さらにチェルノブイリ原発事故や東電福島第1原発事故「級」の原発「超大事故」が,絶対に起きないと請け負えると,自信をもっていえるのか?
日経のように,「安全が最優先にしつつ」原発を大いに利用(稼働)させるべきだという主張については,つづいて記述するごとき「原発に関連した基本的な心配事」を提示したうえで,さらに疑問を突きつけてみたい。
もしも実際に,過去に旧ソ連と日本で実際に起きた原発大事故に「匹敵する事故」が,たとえば隣国韓国で起きてしまったとする。なかでも,日本の西部地域は風向きによって大きな被害が発生する可能性が大きい。(『日本経済新聞』社説からの引用,ここでひとまず中断)
g) 原発という発電装置・機械に関しては,このように隣国の原発事情まで配慮しなければならない時代になっている。原発事故が再発するかもしれない危険性は,一国単位ではなく地球規模・世界次元で対処しなければいけない。その憂慮すべき可能性の範囲拡大は,放射性物質に国境はないとして理解されるべきものであった。
「プーチンのロシア」がウクライナ侵略戦争をはじめてから,ウクライナのザポリージャ原子力発電所は,いまもなおロシア軍が占拠している。この施設を簡単に破壊したりしたら,チェルノブイリ原発事故の再来となるゆえ,あの▼チガイじみたウラジミールでさえ,さすがに手出しはできない。
そこでは国際法などあってなきがごとしであるが,ともかく,原発という発電装置・機械は,そのような厄介モノ,人間の悪者プーチンなどもはるかに超越した,非常に始末の悪い「電力生産のための大道具」であった。
〔ここで日経・社説に戻る⇒〕 電力需要の大きい都市と脱炭素電源に余裕がある地方を結ぶ連系線を整備するのも選択肢だ。ただ,これは災害などに備えて供給網の強靱化につながる一方,巨額投資にみあう経済性が乏しいとの試算もある。
ならば,データセンターや半導体工場といった大量に電力を必要とする施設そのものを,北海道や九州などの脱炭素電源の豊かな地域にもっと集めることを促してはどうか。
時間によって出力が変動する太陽光や風力は使い方を工夫したい。余った場合は,それを使って水素をつくり,工場の熱源に利用する。あるいは蓄電池に蓄えて,供給が不足するときに放出すれば,供給を平準化できる。
地方に関連産業を含めて新たな産業集積を築き,カーボンゼロエネルギーの地産地消の仕組みを整える。これは地域を振興し,脱炭素電源に限りがある都市の電力需要の軽減につながるはずだ。
北海道ではラピダスの半導体工場や,データセンターの建設計画が相次いでいる。国や自治体は企業誘致へ税や補助などの支援体制を整えることが大切だ。脱炭素を新たな地域の活力を生み出すきっかけにしていきたい。(「日経・社説」引用終わり)
以上,社説の最後(だいたい後半の)部分における主張は,原発の必要性を納得させうる論旨にはなっていなかった。言及されていたごとき「電力の生産と配給(発電⇒送電⇒配電)の過程」全般のなかで評定するとしたら,電気をえるための技術の方法としては,原発ほど似つかわしくないものはなかった。
技術経済的な観点から観た原発は,技術には危険性がみなぎり,経済においては安価だといいきれる根拠など,実際にはもともとありえなかった。現段階になったところでは,いかにもぎこちない電力生産のための装置・機械になっているという事実は,いまでは明白も明白になっていた。
なぜか?
原発に期待している別途の使用目的への含意,すなわち,潜在的な核保有国でありつづけたいこの日本国であるからこそ,原発の廃絶など絶対にしないという意思のみは,いまもなお強固にもちつづけている。そこに問題の深淵なる背景があった。また,核燃料サイクル事業も成功などできずに数十年も継続してきていながら,もちろん莫大な経費も投入していながら,いまだにその成果を出せないでいる。
※-2 『原爆は滅びゆく恐竜である 水戸 巌著作・講演集』緑風出版,2014年3月
水戸 巌の死後に公刊された本書は,題名どおりの電力生産方式である原発の不利性・無駄性・反文明性を,徹底的に批判し,論破していた。原発の無理難題性,権柄尽くの推進志向は,水戸によって完膚なきまで論破されていた。
だが,日本政府はけっして原発を捨てようとはしない。核保有国をめざしている基本方針は堅持されているゆえ,原発を捨てたら原爆も同じになるので,絶対に原発を止める気はない。
ここでは水戸 巌が書いていた「原爆恐竜論」の本に対する「Amazon」におけるブックレビューから参考になる文章をいくつか選択し,紹介してみたい。なお,太字にした個所は引用者である。
以下の引用ではレビューの本文のみ摘出して紹介する。引用元ははっきりしているので,これ以上,とくに断わらない。
★-1「市民とともに原発反対運動をしたパイオニアの1人の科学者」2024年3月6日
著者は東京大学原子核研究所の助教授であった1970年以前から,原発の危険性に気づき,市民とともに原発反対運動をした科学者である。しかし,残念ながら山で息子2人といっしょ緒に遭難し,53歳で亡くなった。
この書は,彼の著述・講演をまとめた書である。2014年に出されているが,最初に載せられているQ&A方式の文章は1977年に書かれている。
いまの日本の惨状を危惧して,誠心誠意なんとか原発推進を止めようとした見識の高さに驚愕する。チェルノブイリ原発の事故後,1986年6月10日『朝日新聞』の「声」に
「こんな危険を目の当たりに見ながら『引き返せない』ほど,人類はおろかなのだろうか」,「硬直した思考を捨て,国民一人ひとりの決意をもって「引き返す」ための現実的方法を探ってゆく,いまが最後のチャンスである。」
と投稿している。
しかし,政府や電力会社はまったく聞く耳をもたず,地震大国の日本を,今日のにっちもさっちもいかない状態にしてしまった。
タイトルは『原発は滅びゆく恐竜である』である。まさに現在,私も強くそういう事態に立ち至ってしまっていると思う。
「水戸 巌に捧ぐ」として武谷三男,高木仁三郎,小出裕章氏ほか5名の志を同じくした人たちが,惜別と共にこの著作集が出来たことを報告している。
★-2「講演等された時だ 昨日のように。」2015年1月29日
講演集ではあり,繰り返し同様な字句が出てきます。でもだんだん慣れてきます。随分年月が立った講演の数々他を含めて,私には大切な一冊となりました。中身は,原発のいまを教えてくれます。
我が地域は関電の原発立地に反対してきた町を近辺に抱えています。昭和35年~45年(1960~1970年)ころの立地を阻止した先輩たちにあらためて,感謝を抱かせる本となりました。
★-3「原発とは」
原発とはエネルギー崇拝の文明の終焉を飾る恐竜である。水戸 巌さんのフレーズを捩ったものです。
物質文明で間違いはないと思いますが,原発はエネルギー発生装置であり原発の築く文明を受ける言葉にふさわしいと思います。
また,いまの世界の問題は環境問題でありそれは人間の行為が自然を壊すほど大きくなってしまった点であり,物質文明の終焉に近づいているのは実感するところです。
恐竜はその巨大さから環境の変化に対応できなかった生物なので,原発を恐竜にたとえるのは良い比喩と感心しています。原発は巨大になりすぎたのが問題であると認識しています。
エネルギー崇拝は火を崇める人類の基本的な思想であり,その変更は容易ではないことが読みとれます。
恐竜とは人類のことか。恐竜との違いは環境を自分の手で変化させ絶滅する点です。立ち上がって手に火をもち,生物の王者となった猿の終焉です。
★-4「丁寧に原発の危険性を記述した優れた解説です。」2014年4月16日
現在もまったく古さを感じさせません。本当に重要なポイントが的確に記述されているのに驚きます。研究者としての姿勢を含め,多くのことを学ばせていただきました。ありがとうございました。
「武谷三男に申し訳ない」2016年8月16日
最後に武谷三男,高木仁三郎,中山千夏,槌田 敦らの追悼の言葉。あとがき後藤政志,「残念ながら,私は水戸 巌さんにお会いしたことがない」私もだ。
スリーマイル島原発事故で,「水位計が誤表示をして」と大事な点を〔後藤は〕指摘している。
特別寄稿水戸貴世子「理工系学生が教養で学ぶ原発の教科書」を書かねばと語っていたとのこと。水戸が生きていれば福島はなかったかもしれないが,水戸がいない以上,誰かが書かねば。目次と枠組みの開示を待つ。
★-5「原発と命。生きる屍になってはいけない。そう読む前から感じます。」2019年5月6日
(本文,割愛)
★-6「剱岳山開きの6月1日に」2014年5月31日
3・11のあとの5月,「芝浦工業大学全学闘 Blog」のページで講演録「原発はいらない」をみつけ何度も読んだ。
1979年6月芝浦工大キャンパスでの講演会,スリーマイル島原発事故の2か月半後で「人為的温室効果ガスによる気候変動」などしられていない時代のものだ。それが第1章「反原発入門」の2つ目に収録されて,合計15の講演・論文で本になったのは嬉しい。
いま2014年の読者は,原子力発電はダメと分かったうえで,発電用エネルギー源はなにと期待する。
「原発は滅びゆく恐竜である」の題名と併せて,この講演最後の「太陽エネルギーを利用していく方法しかないわけです。」で水戸 巌さんが自然エネルギー推進を予言していたと思うだろう。
だけども,4ページ前に「…石炭を全部強引に打ち切った。炭鉱労働者などはストライキをやって激しい闘いをやった。それを押しのけて石炭産業を全部スクラップ化して,石油に切り換えたわけです。石炭から石油に換わったのは,科学技術の問題ではなかったのです。」とある。
これは『スモール イズ ビューティフル』1973年のE・F・シューマッハー(1911~1977年)の発言に近い。いまおられたらCO2 温暖化論に参加せず,国内炭鉱の再生も必要という立場になったかもしれない。
原発を「海温め装置」(効率の悪い蒸気機関)といっていた水戸さんだが,炭素燃焼や蒸気機関が古くてダメだとはいっていない。
化石燃料よりもずっと希薄な自然エネルギーをかき集めて工業文明の規模を維持するとか経済成長するとは,「エネルギー蒐集装置,蓄積装置」の開発・製造・廃棄に低エントロピーの高温や電気エネルギーを大きく必要とすることを予測していたと,私は思う。
もしいまおられたら「地球温暖化」と「自然エネルギー」について小出裕章さんと近い見解をもちながら,反原発が勝つための水戸さんらしい運動をしているだろう。そして管理・監視社会の進行についても,強く批判しているだろう。
第3章4つ目終節〔が〕「原子力帝国」
この「原発はいらない」最後で水戸さんは,生活や産業を変えうる「政治のあり方,文化のあり方,そういったものを根本的に考えていく作業」が必要だといっている。
ところで水戸 巌さんは,共生さんと徹さんに母校の東京大学を薦めず関西の大学を薦めたと聞いた。
いま21世紀,巌さんの後輩となる東大出身の研究者が,たとえば『人々の資源論』明石書店や『異常気象と人類の選択』角川SSC新書という本で,それぞれ「政治のあり方,文化のあり方」へのヒントを提示している。
ならば,関西の大学で共生さん,徹さんと一緒に19890年代前半をすごした私たち。そのうちの私は,徹さんと同じ名の(故)広重 徹氏の仕事にも学びながら「政治のあり方,文化のあり方」を考えていきたい。
水戸 巌さんは「原発はいらない」の最後の20行で,石油や電力を浪費する文明がたった30年であったこと,第三世界の人びとがそうでないからなりたっている文明であることを忘れてはならないという。いまだからこそ「政治のあり方,文化のあり方」は世界の民衆としても考えたい。
★-7「市民とともに歩んだ科学者」2014年4月9日
1970年代から80年代にかけて,東海原発に反対する市民運動の理論的支柱になった科学者の著作・講演集。
その活動の間に,スリーマイル島,チェルノブイリの事故を経験した。原発のECCSの有効性,事故の確率評価,再処理工場の放射能汚染など,福島以後も変わらない事実を明晰に述べている。
そして,原子力発電の社会的有効性は50年で終わるであろう,という予見も,今日の再生エネルギーへの社会的転換を見通していたかのようである。原発普及期からすでに今日の問題を指摘していて,かついま読んでも時代を感じさせない鋭い知性とやさしさの産物である。
末尾で,中山千夏さんが「民主的な人格者」と評していることに共感を覚えた。
★-8「なぜ原発がダメか,草分けが語る その透徹した反原発理論のエッセンス」2014年3月17日
日本の反原発運動の理論的,倫理的 支柱でありながら,これまで,本を書くことがなかった水戸 巌。このなかには スリーマイル,チエルノブイリなど事故発生の節目に頼まれて書き記したものを始め,学生向けの講演録も含まれている。
闘いの手を休めることなく,闘いの真っただなかで書かれているので,押し殺した怒り,悲しみ,そしてもう間に合わないのではないかという焦りとなって,行間からにじみ出てくる。
再びフクシマを起こしたら,この国は間違いなく絶望的壊滅状態になることだろう。いまなお原発を手放さず,未来を脅かすものに対して,私たちは,まっすぐに向き合わなければならない。
こんな時期に水戸 巌の登場は,なんと心強いことか。そして,かつての彼の「働き」をしる電力業界にとってはどんなに忌々しいことか。水戸 巌の本が数千数万と売れた時,推進側は震撼するはずだ。日本中の図書館にも,購入注文を出そう。(以上でアマゾンのブックレビュー紹介終わり)
最後の★-8がとくに「原発のダメさかげん」に言及していた。ダメなモノはだめであるのだが,なぜかそのダメよ,だめだというものが大好きである人間たち,政治家,財界人たちが大勢いた。
とくにチェルノブイリ原発事故と東電福島第1原発事故が起きたあとになっても,まだ懲りずにというか,もしかしたらなにも分からかったのかとでもいいわけするのか,原発広告にいつまでも出演していた石坂浩二みたいなタレントも,少なからず
いた。
そうなると芸能人はそれこそ「サル以下」だということになった。映画『悪の惑星』では,人間が猿の下に位置づけられていたが,21世紀にもなっている現在でも,なお猿以下のしぐさに固執する原発教(狂)信者がいる。
補注)『猿の惑星』(さるのわくせい,Planet of the Apes)は,人間と知的な猿が支配権をめぐって衝突する世界を描いた,映画,書籍,テレビシリーズ,コミックなどで構成されるアメリカのSFメディア・フランチャイズ。
原作はフランスの作家ピエール・ブールが1963年に発表した小説『猿の惑星(La Planète des singes)』〔の一部解説〕
1968年に映画化された『猿の惑星』は,批評家や商業者の間で大ヒットし,一連の続編やタイアップ,派生作品が生まれた。アーサー・P・ジェイコブスは,apjac プロダクションを通じて『猿の惑星』の第1作から第5作までを20世紀フォックスの配給で製作したが,1973年にジェイコブスが亡くなってからは,フォックスがフランチャイズを管理している。(後略)
いまの人間たちは,原発問題に関しては本当に猿以下。映画『猿の惑星』の作品としての意図には,「人間の知性は固定されて備わっているものではなく,知性がなくなれば動物と変わりがない」というメッセージが込められていると,ウィキペディアの解説は書いていた。示唆するところ確かにあり,である。
「猿まね」ということばを人間にあてはめると,なんといえばよいことになるのか。
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