海野十三と桐生悠々,空襲を小説の題材にした者とその悲惨を予測した者,歴史に学ぶ「戦争の愚かさ」
※-1 まえがき
本記述は2015年2月14日に初めて公表してあったが,ブログサイトを変更するにしたがい,その後,2020年3月10日に書きあらためて公表しなおし,そして本日,2024年3月9日に3訂したかたちで,さらに公表しなおすことになった。
本記述の主題は,海野十三という「空襲を小説の題材にした者」と,桐生悠々という「その悲惨を予測した者」の2名の「戦争観」をとりあげ,歴史に学ぶべき「戦争の愚かさ」を,いまさらのようにその認識を深める必要性を議論するものである。
2022年2月24日のことであった。ロシアのウラジミール・プーチンは,ロシア大帝国的かつロシア正教的に,それも無条件に狂人風の大統領である立場から,ウクライナはロシアのものだという点は歴史的・民族的にはっきりしているという理屈をもちだし,ウクライナへの軍事侵攻を突如開始した。
しかし,プーチンの当初の思い(軍事計画?)とは異なり,いまだに「宇露戦争」はつづいている。ウクライナ側は黙って抵抗しなければ,そのまま犬畜生のようにロシアへの隷属を強いられるほかなかった「プーチンのロシア風の帝国主義観」に対して,けっして屈服などしようとはしていない。
米欧からの軍事支援を受けて,2022年2月24日に始まった「宇露戦争」は,まだその終結地点をみいだすことが困難な戦況にある。もちろん,ロシアだけが一方的に完全に悪いのではなく,ウクライナ側の国際政治的な基本姿勢の変質が,なんらかの影響を,以上のごときロシアとウクライナの戦争関係の発生に大きく与えていた。
とはいえ,いまとなっては「自身・自国の絶対的な正統性・優位性」を信じて疑わないプーチンの狂信的な信条がこれからも変わらないかぎり,あるいは,この強権政治家の物理的な寿命が尽きないかぎり,決着をみるところまで「宇露戦争」は突きすすむほかないのかと懸念される。
プーチンの戦争のやり方は,みずから口を極めてだが非難する「ドイツ・ナチ」とやり方と寸分も違わない。この点が,彼のいいぶんとして一大特徴になっていた。それゆえ,この男がいなくなったとしたら,宇露戦争の局面はただちに大転換する可能性がないではない。
ロシアの政治経済はその国民経済次元においては,第1次産品が豊富に生産される広大な国土を有しているものの,すでに軍事費が3割を超えるという戦時体制国家体制を採らざるえない現状に追いこまれてもいるからには,実態としては相当な苦境にはまっている。
以上,本日の記述に関した「事前の断わり」となる段落を書いてみたところで,本文の記述に入りたい。
※-2 海野十三と桐生悠々-日本空襲を描いた小説家と防空演習を「嗤った」ジャーナリスト-
本(旧)ブログにおいて2015年2月12日に書いた文章の題名は,
「『暗愚の首相』がいざなう『戦前体制的な暗黒世界』,戦後レジームよりも『戦前風の全体国家主義が大好きな安倍晋三』,日本を滅ぼす『過去の亡霊的首相』の徘徊」という題目を表現して記述していた。
そのなかではとくに,桐生悠々という戦前のジャーナリストに注目し,議論していた。そこではまず,この桐生悠々がどのような人物であり,しかも戦前⇒戦争の時代においていかなる発言をおこない,そして,彼なりの言論活動をしていたか記述するところから始めたい。
要点:1 桐生悠々「関東防空大演習を嗤ふ」1933年8月11日
要点:2 日本全土空襲の予告-小説と新聞から-
要点:3 「飛んで火に入る夏の虫」のような首相をかかえていたこの国への「戦前的」教訓
なお,その首相とはあの安倍晋三のことであったが,いまの首相である岸田文雄も大差などない,「世襲3代目の政治屋」風に暗愚な為政者となって登場していた。いずれも,それなりに〈3流政治家〉である面目を躍如させていたし,またさせている。
※-3 桐生悠々「関東防空大演習を嗤ふ」『信濃毎日新聞』1933〔昭和8〕年8月11日
◆ 日本本土大空襲の「覚悟」◆
※-3の,この新聞記事「関東防空大演習を嗤ふ」1933〔昭和8〕年8月11日は,桐生悠々『畜生道の地球』中央公論社,1989年10月(桐生悠々『畜生道の地球』三啓社,1952年7月)に収録されてもいる論説であった。
本日〔ここでは2015年2月14日〕は,この桐生悠々が 1933〔昭和8〕年8月という時期に予告していた問題,すなわち「戦争になったばあいに日本本土が覚悟しなければならない空襲」「これへの備えのない日本の軍備」に関連させて,当時の軍部が大々的に実施した軍事演習を「正面切って批判し,嗤(わら)った一文」からとりあげる。
この論説「関東防空大演習を嗤ふ」は,およそこう批評していた。
もしも,敵機の空襲になったら木造家屋の多い東京は焦土化し,被害規模は関東大震災規模に及ぶ。空襲は何度も繰り返され,灯火管制は効果がなく無意味であって,かえってパニックを惹起させ有害でもある。12年後における各都市の惨状を正確に予言したうえで,こう断定していた。
「だから,敵機を関東の空に,帝都の空に迎へ撃つといふことは,我軍の敗北そのものである」「要するに,航空戦は」「空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破したのである。
この言説は陸軍の怒りを買い,長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が,『信濃毎日新聞』の不買運動を展開したため,悠々は同年9月に再び,信濃毎日の退社を強いられた。
註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/桐生悠々 参照。この論説の全文は,たとえばつぎで読むことができる。http://www.aozora.gr.jp/cards/000535/files /4621_15669.html で読むことができる。書籍ではたとえば,以下に掲載されている。 (なお,後者の住所は現在は削除されており,参照不可)
☆-1 井出孫六『抵抗の新聞人 桐生悠々』岩波書店,1980年。
☆-2 太田雅夫編集・解説『桐生悠々反軍論集』新泉社,1980年。
☆-3 『桐生悠々著作集』第6巻,学術出版会,2007年。
つぎに,戦前当時,陸軍から〈激しい怒り〉を買った桐生悠々の文章:「関東防空大演習を嗤ふ」から,もう少し引用しておく。
「私たちは,将来かかる実戦のあり得ないこと,従ってかかる架空的なる演習を行っても,実際には,さほど役立たないだろうことを想像するものである」
「将来若し敵機を,帝都の空に迎えて,撃つようなことがあったならば,それこそ人心阻喪の結果,我は或は,敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか」
「帝都の上空に於て,敵機を迎え撃つが如き,作戦計画は,最初からこれを予定するならば滑稽であり,やむを得ずして,これを行うならば,勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も,要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない」
※-4 太平洋戦争中の出来事-昭和17年4月18日米機襲来-
1944〔昭和19〕年11月から1945〔昭和〕20年8月まで,アメリカの重爆撃機B29による「日本全土各都市に対する絨毯爆撃」が「焦土作戦」としておこなわれた。
21世紀にもなったいまも,その「犠牲者・被災者になった生き証人」が,相当の高齢になってはいるものの〔1945年に10歳であった人は78歳(2015年→80歳,2020年→85歳,2024年→89歳)だから〕,その体験者として生きてきた事情があってこそ,これらの人びとのなかからは,その戦争によって強いられた体験が書物として著わされてきた。
桐生悠々は1933〔昭和8〕年夏の時点で,当時すでに統帥権を盾に横暴を極めていた日本の軍部を,真っ向から「嗤い飛ばすかたち」で批判する言論活動をしたのである。当時を思えば,生命の安全すら危うくされかねない執筆活動であった。
しかし,桐生悠々の体を張ったこうした主張は,その指摘からまる10年も経たなかった1942〔昭和17〕年4月18日,アメリカ軍が敢行した「ドゥリットル空襲」(B25爆撃機 16機で日本本土を横断的に爆撃した作戦)によって証明されることになった。
註記)加藤寛一郎『大空の覇者ドゥリットル-欧州・日本本土爆撃-上・下』講談社,2004年は,その事件を描いた書物の1冊。
このときすでに,1944〔昭和19〕年秋から始まることになった「B29による日本全国への空襲」が,いったいどのような事態をもたらすかを,具体的に教えていたことになる。
だが,太平洋戦争当初における圧勝に酔いしれていた日本帝国軍部側〔もちろん天皇裕仁も臣民たちも〕は,その意味を的確にとらえることができなかった。
当然のことだがおそらく,桐生悠々が1933〔昭和8〕年8月,つまりほぼ9年前に警告してくれた論説「関東防空大演習を嗤ふ」も想起できていなかったかもしれない。
※-5「空襲下の日本」『海野十三全集 3』三一書房,1988年6月(所収)
この 「空襲下の日本」『海野十三全集 3』三一書房,1988年6月に所収された「文献の意味」を考えてみたい。
※-3にとりあげた桐生悠々の文章「関東防空大演習を嗤ふ」は,『信濃毎日新聞』1933〔昭和8〕年8月11日に掲載された論説であった。ところで,同年の4月に小説(フィクション)としてではあるが,海野十三が「空爆下の日本」を公表していた。
その間に4カ月の時間が経過していたが,本ブログの筆者は,海野十三のこの小説を桐生悠々が「読んでいたのではなかったか」という〈推理〉をしてみた。
この海野十三「空爆下の日本」を最近読んだ人は,こう批評している。
まったくこの指摘のとおりであって,小説なのに「人間ドラマはあってなきが如し」というのであったから,いまから振り返って考えてみるに,かえって不気味な「空襲に対する予告とその覚悟」を急かしていた〈現実的な戦時小説〉になっていた。
坂田健一「惨烈の時代-本土初空襲-」http://www8.ocn.ne.jp/~nnn/C3_9.htm の関連する記述(前記したとおり,ここで執筆者と論題が指示された)
この坂田健一の記述は長いものなので,注目・紹介したい個所だけを引照する。以下,それでも引用〔 a) から f) まで〕は,各項目とも長めとなっている。
a)「不意打ち攻撃」 日本の内地が初めて空襲を受けたのは,1942〔昭和17〕年4月18日のことであった。前年末に始まった大東亜戦争の緒戦の戦果は華々しく,皇軍の征くところ破竹の勢いであった。同年2月にシンガポール陥落,3月はラングーン占領。太平洋に米艦隊なく,インド洋,ジャワ海の制海権は日本に帰した。
「英蘭いまや影もなし」と歌われたのもこのころであった。惨敗したミッドウェー海戦はもう少しあとの6月のことであり,無敵海軍の隙を縫って米機が襲ってくるとは,夢にも思わなかった。偸安(とうあん)の夢をむさぼっていた日本人は,冷水を浴びせられるような不意打ちパンチを食らった。
襲来した米機は 16機のノースアメリカンB25双発爆撃機。米機動部隊の接近をしらなかったのではない。身を犠牲にした監視艇からの報告により,空襲は予期していた。ただ,来襲は翌日になるものと決めこんでいた。この判断が常識論から大きな誤りだったとはいえない。
空母艦載機の航続距離は長くない。明日,日本本土に接近してから艦載機を発進させるものとみていた。真珠湾で空母を討ちもらした。こんどは敵さんのほうから,のこのこやって来てくれる。「よき敵ござんなれ」と,陸海航空隊は腕を撫していた。
b)「油断した日本」 日本はまんまと一杯食わされた。まさか双発の爆撃機機が空母から発進するとは,想像外であった。空母への離着艦は高度の技量を要する。単発機でもそうなのに,双発機とは常識になかった。
発艦はなんとか出来ても,着艦は不可能である。まさか片道攻撃でもあるまい。米軍は帰途のB25の着陸地を中国内国府軍支配下の基地に決めていた。
低空で侵入した米軍機は防空網をすり抜け,いとも簡単に帝都の上空に達した。日本の防空戦闘機は高空で待ち伏せしていたため敵機に遭遇できなかった。レーダーもなく敵機のポジションに誘導する方法がなかった。それに本土防空の態勢は実にお粗末であった。
〔日本海軍の〕精鋭空母機動部隊はインド洋作戦から帰途にあった。急を聞いて追っかけても間に合わない。「零戦」はほとんどが南方戦線に出払っており,内地には旧式戦闘機しか残っていなかった。
米軍機は,東京・川崎・横須賀・名古屋・神戸・四日市・和歌山を襲った。大本営は「地上の被害軽微なり」と発表した。実際の被害は被災家屋二百数十戸,死者50人となっている。
3年後に蒙った東京大空襲に比べれば,たしかに被害は軽微といえよう。重要軍事施設が破壊されたのではない。だが,死んだ50人にとって「被害軽微」といえようか。命を失った者にとって「被害は重大」であった。
「我が方の損害軽微なり」はこれ以降も,大本営発表の常套用語となった。戦争末期には国民も信用しなくなった。また,来襲敵機のうち「9機を撃墜せり」と発表したが,実際はゼロであった。市民は火を噴いて落ちる敵機を誰もみていない。「撃墜したのは9機でなく空気だったのと違うか」とは庶民の影の声であった。
c)「アメリカの意図」 米軍も大きな損害を出した。出撃した16機の機体をすべて失った。日本に与えた物的損害は「軽微」である。損失にみあうだけの戦術的戦略的な戦果を挙げたといえようか。そもそも無茶な作戦だった。
成功の確率はかなり低かった。自殺攻撃とまではゆかないが,それに近いものであった。日本軍の油断と慢心に助けられ,いちおう成功とはいえ,運が悪ければ,日本が十分な警戒態勢をとっていれば 16機全滅。下手をすれば空母を失う可能性すらあった。
なぜ,米国はこんな無謀きわまる作戦を採用したか。「真珠湾」以来,米軍は連戦連敗であった。太平洋上旭日旗のなびかぬところなし。米国民の士気は沈滞していた。ルーズベルト大統領はこの事態を深く憂慮した。
いずれ反攻に出るがいつのことやら分からない。このままでは大統領の政治生命にもかかわる。なんとか日本に一矢報いたい。日本に一泡吹かし米国民の士気を高揚する作戦はないものか。
d)「日本の衝撃とその後」 軍上層部は衝撃を受けた。とくに海軍は面目を失った。太平洋の護りは海軍の責任である。「厳たり 太平洋の護り」とか「鉄壁の空の護り」などと聨合艦隊は国民の満腔の信頼をえていたが,それがもろくも崩れた。日本の防空網は穴だらけだったのが,国民にもさらけ出された。
やすやすと神州に敵機の侵入を許し,しかもたった1機も撃墜できなかった。「天皇陛下に申しわけない」。帝国陸海軍は,国民の軍隊でなく天皇の軍隊であった。したがって,軍人の思考は国民の安否でなく《皇室の安泰》が一番の比重を占めた。このうえは,宿敵米空母を探し出し,剿滅しなければならない。
ミッドウェー作戦が強行された。敵空母の剿滅(そうめつ)と勇ましいことばを使っているが,剿滅されたのはわがほうの空母であった。真珠湾以来の歴戦空母,赤城・加賀・蒼龍・飛龍の4隻を失った。
さらに「技入神に至る」とまでいわれていた熟練搭乗員を,一挙に失った。将棋にたとえれば飛車,角を同時に奪われたようなものである。高段者(米国)相手に大駒を失って勝てる道理がない。以後,日本海軍は攻勢の手段を失い防戦一方になる。
e)「防空演習を嗤(わら)う」 日本の防空演習・訓練は,いつから始まったのか。意外に古く昭和ヒトケタ時代からあったようである。「非常時」が叫ばれ日米関係の雲行きは怪しくなりつつあった。とはいえ,まだこの時代には対米戦を想定する人は少なかった。むしろ日本の脅威はソ連であった。陸軍の宿敵はソ連であり,日ソ開戦すれば浦塩からの空襲を警戒しなければならなかった。
満州事変,上海事変と大陸の戦火はつづいたが,支那空軍は問題にされなかった。来る日に備えて東京,大阪でも大規模な防空演習がおこなわれた。軍の指導のもとだから,国民は文句をいわず素直に従った。しかしこの演習が実戦に役立つか否か疑問を感じた人もあった。
1933〔昭和8〕年8月11日付『信濃毎日新聞』に,同社主筆「桐生悠々」(写真)は「関東防空大演習を嗤う」と題して痛烈な批判記事を書いた。
あの時代によくぞここまで勇気のある発言ができたものと感服する。空襲を受けたらその時点で日本は負け,と断じている。当然軍は怒った。軍刀の柄を鳴らして信濃毎日新聞社に押しかけてきた。桐生は節を曲げなかったが,軍の圧力に抗し切れず社を去った。
戦後,軍という絶対権力を批判した硬骨のジャーナリストとして桐生の評価は高い。新聞労連でも「戦争のためのペンは執らない」と桐生を指標としているが,昨今のマスコミ風潮は怪しくなった。軍に代わる圧力を国内外から受けるようになったのは残念である。
2014年夏からの朝日新聞に関係する「従軍慰安婦誤報問題」をきかっけに,2015年ころまでには,という意味で「昨今のマスコミ風潮は〔完全に〕怪しくなった」
「軍に代わる圧力」ではなくて,民主主義下の安倍政権から圧力を受けて簡単に萎んでいて,支配権力側に対してまともに対峙できていない。すでに,マスコミの基本的な役目をまともに果たせていない。
時代こそ違え,いま起きているごときに日本の言論界がみせている〈腰抜け状態〉の〈体たらく〉は,このままつづけばきっと,「大きな禍根を残した事実」を日本社会史に記録することになる。
いまからでも遅くはない。桐生悠々の著作をもう一度ひもとき,少しは味読してみるべきである。朝日新聞の記者はもちろん,なかでも政府御用紙に堕落している読売新聞・産経新聞両紙の記者たちに対しては,とくにそのように勧めておく。
f)「もう一つ防空演習を批判した新聞」があった。『東京日日』(現在の『毎日新聞』)と『大阪毎日』である。
1934〔昭和9〕年7月,近畿一円で空前の規模で防空演習がおこなわれた。翌日の見出しは「軍民一致我等の大空を護れ」と勇ましかったが,社説は冷静かつ科学的な批判となっている。
「わが国にいまただちに空襲をくわえることは至難だろう。ただわが都市の大部分は木造建築物で小空襲といえども大なる被害を蒙りやすい。防ぐ備えも必要だが,来たりえないよう進んで叩きつぶすことがより重要である。しかしながら空中の侵入に対しては空中において敵を撃滅するか,敵空軍の基地を掃滅するにごとくはない」
論調は桐生悠々と共通している。きわめて当然の疑問点であったが,これが軍の逆鱗に触れた。陸軍省報道部から筆者が呼び出され脅された。発行停止をちらつかされては泣き寝入りするしかない。2日後の社説は全面訂正となった。抵抗することなく「軍刀」に屈服した。軍は面子をつぶされたと思ったのであろう。毎日の論陣は腰が砕けた。
ところで,戦争中に迎撃・撃墜できたB29は3%くらいであった。昭和16年,防空思想高揚のため「空襲なんぞ恐るべき」という歌が生まれた。
空襲なんぞ恐るべき 護る大空 鉄の陣
老いも若きも今ぞ起つ 栄えある国土防衛の
誉れを我等担いたり 来たらば来たれ 敵機いざ
註記)以上,http://www8.ocn.ne.jp/~nnn/C3_9.htm より抜粋・引用。
補註)この f) については,以下も参照されたい。→「近畿防空演習」社説訂正事件,http://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/22.pdf この住所も現在は削除されている。
※-6「空襲下の日本」-戦前のSF作家海野十三が書いた「小説」-
前段の記述は,坂田健一「惨烈の時代-本土初空襲-」2009年7月14日 http://www8.ocn.ne.jp/~nnn/C3_9.htm を紹介していた。そこで,さらに以下につづく記述は「徳島県出身のSF作家海野十三は戦前,科学冒険小説の大家であった」という話題に移っていたので,こちらからも紹介する。
--この「海野の持論」は「日本も科学をなおざりにしてはならない」という「思想であった」 「海野の小説には仮装敵国の恐るべき科学兵器が必ず登場する。精神力だけではこれらの兵器にかなわない」と強調していた。
1)「防空小説・爆撃下の帝都」昭和7年
この海野が,1932〔昭和7〕年に「防空小説・爆撃下の帝都」,翌〔1933:昭和8〕年には「空襲下の日本」を発表した。「架空小説であるが,実に臨場感に富んでおり空襲を受ける凄惨な東京の姿が生々しく描かれている」と評された。
1945〔昭和20〕年における,つまりその「12年後の実際の空襲をみてきたかのようにリアルである。こんなものを当時発表できたのが不思議だが,東京警備司令部参謀長島省三少将の推奨の辞があるくらいだから,軍としても防空思想啓蒙のため有意義であると判断したようだ」
「海野はいったん空襲を受ければ東京市民が周章狼狽,パニックに陥るのを予見していたと思われる。『軍民一致の防空』がいかに絵空事であるかつとに見抜いていた」 「『爆撃下の帝都」は雑誌に連載されたときに『空襲葬送曲』が題名であった。
その副題に『国難来る! 日本はどうなるか』とあった」ではないか。
「物語は東京下町の庶民の家庭に始まる。ゴム工場で働く息子が残業続きで帰宅が遅い。なんの仕事で忙しいのか。瓦斯マスクを作っていたのである。息子は父の誕生祝にマスクを1個差し出すが,父親は東京に敵機なぞ侵入するはずがないという」
「臨時ニュースが流れ日米戦が始まったのを告げた」 「空襲警報が鳴った」ときの「サラリーマンの会話」は,こうであった。
「敵機が爆弾を落としてみろ。震災当時のような混乱に陥ること請け合いだよ。流言はいまでも盛んだ。流言を止めるには戦闘の内容を詳しく軍部が発表して,市民に戦況を理解させておかにゃいかん」
「このサラリーマンの会話文をいま読むと,10年後の大本営発表に対する痛烈な批判に思える。東京はついに空襲を受けた。爆弾が投げ落とされるたびに火柱が立ってやがておびただしい真っ白な煙となって空中に奔騰している」
「関東大震災で経験した火焔の幕が,みるみるうちに四方へ広がってゆく。真っ黒な大群衆が東京を逃げ出してゆく。老人や女子供は押し倒され,その上を何千という人間が踏み越えていった。瞬く間に新宿の大通りには千四百~五百の死骸が転がった」
2)「空襲下の日本」昭和8年〔4月〕
こちらも東京郊外,若きサラリーマン夫婦の家庭から始まる。
「本当に東京は空襲されるの」
「来るに決まっているから覚悟をしときなさい」
「爆弾はよほどたくさん積んでくるの」
「もっとも恐るべきは焼夷弾だ。3千度の高熱を発し水をかけて消そうとしても水まで分解作用を起こして燃えてしまう」
「東京のような木造家屋の上からバラ撒かれたら大震災のように荒廃させるのは雑作もないことだ」
海野は「東京が灰になる」のと「焼夷弾の性能を熟知していた」。現実の歴史(戦史)もそのとおりになった。戦慄の日は近づき,帝都は襲われた。
被災地をみてきた少年団員の会話。
「直径が10mから20mもの大穴がポカポカあいているんだぜ。浅草の8階もある万屋呉服店のビルに墜ちたのが1トン爆弾だよ」
「地下室まで抜けちまって4階から上は影も形もなくなり,その下の方は飴のように曲がってしまって骨ばかりなんだ」
1トン爆弾の脅威は戦中さんざん聞きしっている。昭和8年にもその威力はすでにしられていた。
核兵器の出現していないこの時代,恐怖は毒瓦斯だった。毒瓦斯は第1次大戦中,ドイツ軍が初めて使われ,その残酷さに世界は戦慄した。残虐兵器とみなされ国際法で禁止された。しかし,追い詰められたらどこの国も使用する可能性はある。
太平洋戦争中,硫黄島攻略戦で膨大な死傷者を出した米軍で,毒瓦斯使用が検討された。しかし,日本の報復を恐れたのと,後世,国際法違反の汚名を着るのを嫌って,実戦では使用されなかった。
この「空襲下の日本」昭和8年4月もパニック小説である。空襲を受けた市民の恐怖と混乱が余すところなく伝わってくる。海野は自分自身,空襲体験はないはずである。しかし,12年も前から的確に予見していたものだと感心する。空襲の恐怖は市民なす術もないことである。
とにかく逃げるしかない。どこへ逃げればいいか,分からない。もっとも,この小説の結末も日本の勝利で終わっている。ただ,海野らしからぬ皇国思想や大和魂が出てくるのが気になる。彼はつねに科学思想に重点を置いていた。当時の時勢からして,これ以上書くと「軍ににらまれる」から,やむをえなかったといえよう。
3)「空襲の惨禍」
実際の歴史では「桐生悠々,海野十三の予見」よりもはるかにひどい惨禍を蒙った。焼失民家230万戸,原爆死を含める非戦闘員の死者40万に上る。この2人の警告・予見は生かされなかった。
海野の小説では,東京は灰になったが陸海軍の奮闘により,なんとか敵を撃退できた。ところが現実は「銀色の魔鳥」と呼ばれたB29に『日本の空は蹂躙された』。
それにしても,日本の防空訓練はあまりにもマンガチックにみえる。火叩き・砂袋・防火用水がどれほど役に立ったというのか。江戸時代の火消しとかわらない装備であった。「逃げ惑う市民の恐怖と混乱は,海野の架空小説そのものであった」が・・・。
註記)以上,http://www8.ocn.ne.jp/~nnn/C3_9.htm 参照。
※-7 日本本土空襲記録
以上の記述を受けて再度,こう指摘してみたい。
桐生悠々は,海野十三「防空小説・爆撃下の帝都」昭和7年,「空襲下の日本」昭和8年〔4月〕を読んでいたのではないか? そして,そのうえで,確信を抱いて「関東防空大演習を嗤ふ」昭和8年8月11日を『信濃毎日新聞』に執筆したのではないか?
ところで,ここでは本日の記述をおこなった《理由》に触れておきたい。
--『海野十三全集』三一書房,1988~1991年において,「解題」の執筆を分担していた長山靖生の別の著作,『偽史冒険世界-カルト本の百年-』筑摩書房,1996年に出てくる〈記述の個所〉で,
「たとえば海野十三の『空爆下の帝都』(昭和7年)の場合・・・」と書いてある〈その個所〉(136頁5行目)について,調べたところ,
昭和7年に海野十三が執筆したのは「防空小説・爆撃下の帝都」であって,「空襲下の日本」昭和8年ではない,という食い違いに気づいた。
以上が「本日の記述をおこなうきっかけ」であった。そしてまた「海野十三と桐生悠々との間」にも「なんらかの関連性がありそうだ」(?)という問題意識に想到したしだいである。
補記)なお海野十三「空襲下の日本」は,昭和8年4月の『日ノ出』附録「国難来る! 日本はどうなるか」に発表。この特集には軍事作家並びに評論家として山中峯太郎,平田晋策と海野十三の3人が参加しており,発表当時は元東京湾要塞司令官 二子石宮太郎陸軍中将との合作となっていた。
おそらく軍事的な知識や材料は二子石陸軍中将が提供したものとみられ,空襲に関する一種の啓蒙小説であった。
海野十三の起用は前年発表した「空襲葬送曲」の知識と力量が買われたためであろう。イラストの帝都防空配置図等も発表当時のもので,この他に防空隊の組織一覧表や帝国航空配隊図も付けられていた。単行本としては,昭和11年9月に春陽堂から出た「流線間諜」に収められている。
註記)『海野十三全集 第3巻 深夜の市長』三一書房,1988年,瀬名堯彦「解題〔第3巻「深夜の市長」〕」310頁下段-311頁上段。
橋本哲男編『海野十三敗戦日記』中央公論新社,2005年という本もある。中公文庫 BIBLIO 20世紀に収録されていたが,インターネット上でも読める(2024年3月9日現在でも閲覧可能)。
この『海野十三敗戦日記』には,昭和20年3月4日から5月14日までの空襲記録が記載されている(これ以降も空襲は8月14日までとことん継続され,当時の帝国臣民を苦しめつづけたが……)。
この記録からつぎの「空襲された日付」一覧しておく。
☆ 南方基地からの敵大型機来襲記録 ☆
=昭和20年3月以降 少数機来襲を含まず=
(月日・時刻 機数 目的地)
3月4日朝 150 東京
5日未明 10 東京
夜 7 関西
10日未明 130 東京
12日未明 130 名古屋
13日夜 90 大阪
17日未明 60 神戸
19日未明 百数十 名古屋
25日未明 130 名古屋
27日朝 150 九州北部
夜 60~70 同
30日夜 20 名古屋,伊勢湾
31日未明 30 瀬戸内海,北九州
朝 170 九州
4月2日未明 50 東京西北
4日未明 50 関東北部,京浜
同 10 静岡
同 30 京浜市街地
12日朝 相当数の数編隊 関東地区
13日夜 170 東京市街
15日夜 200 京浜西南部
17日昼 70~80 鹿屋,太刀洗
18日朝 80 鹿児島,宮崎,熊
同 20 太刀洗
21日朝 180 主力九州南部,一部九州北部
22日朝 100 宮崎,鹿児島
24日朝 120 主力立川,一部清水,静岡
26日朝 60 宮崎,大分
同 30 山口,福岡
同 40 宮崎
27日朝 150 鹿児島,宮崎
28日朝 130 同
29日朝 100 同
30日朝 60 大分,宮崎,鹿児島
5月3日夜 10数機 阪神
4日朝 30数機 四国,近畿
同 10数機 関門地区
同 50 大分,長崎
5日朝 30 大分,福岡 同 112 四国,中国
昼 38 鹿児島
夜 20数機 瀬戸内海
7日朝 60 大分,鹿児島
8日朝 29 目標:四国,九州
10日朝 30 松山,御前崎
同 350 大分,山口,広島
11日朝 60 阪神
同 25 北九州
昼 16目標 鹿児島,宮崎,四国西南部
14日朝 400 名古屋
つぎは,1945年8月14・15日にかけてまでも徹底的に,アメリカ軍が日本全土に対して空襲を継続していたその記録である。
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https://amzn.to/43dSXZY ⇒ 畜生道の地球 (中公文庫 き 16-1) 桐生 悠々 | 1989/10/1
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