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大日本帝国支配下の朝鮮における独立運動の系譜 「2・8独立宣言(東京)」から「3・1独立運動(ソウル)」へ

 ※-1 1919〔大正8〕年,旧大日本帝国支配下の被植民地朝鮮において「3・1・独立運動(ソウル)」が決起された。そして,その前哨に位置し先行する動きになっていたのが,日本において朝鮮人留学生たちが公表した「2・8独立宣言(東京)」であった

 a) 1919年中における『この2つの出来事:事件』,「3・1・独立運動(ソウル)」「2・8独立宣言(東京)」を主軸にして,本日のこの話題は展開される。

 本日は2025年2月7日である。いまから106年前に起きた事件がこの記述の話題となる。当時,大日本帝国の植民地となっていた朝鮮で起きた,1919年「3・1」非暴力主義独立運動の記憶は,韓国では大事で重要な「歴史の記念日」である。けれども,日本ではなるべく思いだしたくないその「日付」である。

 ところが,この「3・1独立運動」に対してわずか3週間しか先駆けていたに過ぎない時間差になっていたが,別の「歴史の事件」が,当時,日本に留学していた朝鮮人の学生たちが作成,公表したその「2・8独立宣言」によって宣告されていた。

 b) 現在,在日本韓国YMCAアジア青少年センターが,東京都千代田区神田猿楽町(かんださるがくちょう)2-5-5にある。この韓国系のYMCAは当時,東京朝鮮基督教青年会会館という名称をもっていた。この在日本韓国YMCAは,ソウルYMCAに続いて2番目の韓国(朝鮮)YMCAとして1906年,東京に誕生していた。

在日本韓国YMCAアジア青少年センター

 その4年後,1910年8月22日,旧大日本帝国が朝鮮を完全に植民地にし,「韓国併合ニ関スル条約」が調印された(公布は29日)。いわば朝鮮が(当時の正式名は大韓帝国であったから韓国という国名が使用されていた),名実ともに日本の植民地となった。そして,それからほぼ9年後の1919年3月1日,非暴力主義抵抗にもとづく独立運動が起こされた。

 その3月1日の3週間前,その東京朝鮮YMCA会館に集まった朝鮮人留学生たちが,日本の官憲たちが警戒の目を光らせるなか,その「2・8独立宣言」を用意・公表し,当時であるから文書を作成したうえで,ひそかにソウルに運んだのである。

 要は「2・8独立宣言」から「3・1独立運動」へと連続していた「歴史の事実」は,ここでとくに強調されておくべき出来事・事件であった,という位置づけをよく理解しておきたい。 

 補注)なお本記述は,初出 2019年3月1日,更新 2022年3月1日,再更新 2023年2月8日(本日)となっている。

 ここではさきに,『朝日新聞』2019年2月23日朝刊の「コラム〈いちからわかる〉朝鮮半島で起きた3・1独立運動って?」と題した解説記事のなかに,つぎのごとき “しごく簡約された解説表” があったので,これを紹介しておく。 

 本日のこの記述全体の読んでもらうにあたり,この「日韓関係史のおおまかな流れ」,主要な事件を連記したこの「表」は,簡潔な点で分かりやすく参考になる。

「西大門刑務省跡」という表記が出ているがこれは
旧日帝下「独立運動にかかわった人びと」を収監した刑務所として

日本が韓国(朝鮮)を植民地支配したいわば
「その悪」を象徴する施設として意味づけられた点を表現する

本記述の場合「日本と韓国(朝鮮)」史のはざまからという観点を踏まえると
つぎの「在日100年 年表」が参考になる

「解放前(1905~1929年)」を1905年~1929年と1930年~1945年とに時期区分し
これにつづけて「解放後(1945年~ )」の時期を設けて
大きく2つの時期に区分する


 c) さて,本日から4年ほど前になるが,『朝日新聞』2019年2月27日朝刊17面に「特集」の記事として組まれていたのが,「〈年表〉岐路 1919  東アジア 100年の影」であった。

 ここでは,その紙面全体をくわしくは紹介できないが,その「紙面の左側」に,当時に関係する東アジア地域の「年表部分」が記載され,そしてその「紙面の右側」には「国内ではデモクラシー 外には帝国主義」「日本」という大きな見出し文字がかかげられ,これに関連する主要な事件一覧が記載されていた,とだけ説明しておく。

 ところで「3・1運動」の記憶は「韓国では大事な『歴史の記念日』」である。しかし,「日本ではけっして思いだしたくない今日の『100年前の日付』,1919年『3月1日』」である。この点をめぐって残る「日韓間の歴史認識の隔絶」は,最近になっての両国関係を観ても,残念ながらまだまだ解消できるみこみがない。 

 当時の帝国日本にとっては大事件,しかもたいそう嫌な歴史の記憶となっていたのが,この「韓国・朝鮮の独立運動」である。19世紀半ばから今日まで通観する展望のなかで,その歴史的な位置づけと意味は,どのようなものであったかをあらためて考えねばならない。

 d) さて,2022年の2月24日に突発していた「プーチンのロシア」によるウクライナ侵攻戦争が開始されたあとには,歴史の暦として当然,2022年の3月1日となった。

 当時は,その「ロシアのプーチン」が指揮した隣国への侵攻という戦争行為(プーチンは「特別軍事作戦」だといいかえていたが)が発生し,これが世界中で大ニュースになっていた。

 そのせいもあってか,日韓(日朝)関係史における「1919年3月1日」の記憶は,とりわけ日本側ではいまさら関心がもたれる話題ですらありえなかった。ましてや,日本において,韓国(朝鮮)の「3・1独立運動」に関連するニュースが,とりたてて語られるなりゆきなど,生じるわけすらなかった。

 さらに今年,2025年3月1日になったところで,それもとくに日本側でかつて自国が植民地にしていた隣国において発生した「3・1独立運動」に関して,どのような程度に関心が再起され話題になるかはまだ分からない。ここでは,多少は触れる記事があるかもしれないとだけ予想しておく。

 e) それはともかく,今日の話題は最初に,大日本帝国の植民地支配下にあった韓国(朝鮮)で1919年に「3・1独立運動」が起こされた出来事,さらにその前月,日本において「2月8日独立宣言」という文書を,日本に留学していた学生たちが作成し,これを秘密裏に自国にもちこみ,つまり本国側にその「決意」を伝達していたという事実を前提に置いたうえで,本記述全体の議論をどのように展開していくかを考えていることになる。 

 また,106年前のこの3月1日という日付をもって,韓半島(朝鮮半島)に生きていた人々の記憶に刻印された「旧日帝的な歴史の事実」は,現状のごとき日本の政治社会的な精神気分のなかでは,なかでも「嫌韓・反日」の立場にある者たちからは好まれるわけなどまったくない。この点は周知の事項とはいえ,事前に断わっておいたほうがよいものであった。

 補注)もっとも,例の韓流ブームというものが,21世紀になり隆盛になっていた。そのさい,ペエ・ヨンジュンという映画スター --漢字表記だと「裴 勇俊」になると,だいぶ以前であったが,台湾のメディアが報道していたが,現在における韓国の姓の表記だと「裵」と表記されるはず--にとくに代表されて以来,日本社会になかに生まれてきた固定層のファンが,厚い社会層となって形成されてきた。

補注)裴(裵)勇俊の話題

 とりわけ最近の若者層は,高齢者層に観念のなかに取りのこされている隣国蔑視観は皆無に近い。彼らは,ネトウヨ的な「反韓・嫌韓意識」とも無縁であり,ただこの隣国の芸能文化や伝統・歴史に興味を抱きり,好きになれるモノがあるから〈スキ〉といったふうな,ごく自然で正直な感覚で接している。

 f) ともかく「日本人のしりたくない朝鮮独立運動」としての「隣国における前世紀歴史の事実」は,韓国・朝鮮側の描く「3・1」であれ,これがまた日本側においては「1945年以前の植民地におけるひとつの騒擾事件」だったといわれようと,「敗戦後」もだいぶ時間が経過してからだったが,その全容に関連する知識・情報は,学術方面にかぎらず一般教養的な素材としても,自然に接しうるようになった。

 補注)もっとも日本国民自身は,15年戦争の過程全般に関していえば,その歴史のなかでどのような事実・出来事・事件があったかについて,より詳しい知識がえられるようになったのは,敗戦後になってからであって,戦争中は目隠しをされた状態にあった。

 しかし,それでも日本の教育における近現代史の教授法は,かなり嫌らしくそれも潜行的に「大日本帝国の記憶」を回避したがる傾向にあった。つまり,それなりに「なんらかの歴史に関連した〈罪の意識〉」が全然なかったとはいえない,と解釈できなくはない。  


 ※-2「岐路の1919  東アジア100年の影 日本  読み間違った新潮流」『朝日新聞』2019年2月27日朝刊17面「特集」の紹介

 100〔106〕年前,1919年の東アジアは歴史の岐路にあった。第1次世界大戦の戦勝国となった日本は,列強と肩を並べる「一等国」として,大陸進出を加速させようとしていた。

 だが,日本統治下の朝鮮では独立を求める声が全土に広がり,中国でも日本の利権要求に愛国運動が燃えあがる。日本はこの年,アジアのナショナリズムとの衝突の道をたどり始める。

 1)日本,読み間違った新潮流

 1919(大正8)年1月18日。欧州を主戦場に,4年間にわたって続いた第1次世界大戦が終結して2カ月余り。敗戦国ドイツの責任を追及し,戦後秩序を話しあう会議がパリで始まった。結ばれた条約は,調印式がおこなわれた宮殿の名にちなんでベルサイユ条約と呼ばれる。

 日英同盟を理由に1914年に参戦した日本は,中国山東省におけるドイツの権益を接収し,ドイツ領南洋諸島の一部を占領した。大戦を「天佑(てんゆう)」(元老の井上 馨)と考えた日本は,中国に21カ条の要求を突きつけ,大陸進出の足場を築いた。

日本本土の上に樺太(サハリン)・左に朝鮮・下に台湾

 欧米列強に追いつこうとしてきた日本にとって,会議は初のひのき舞台であった。だが,「一等国」となった日本は,肝心の会議ではほとんど発言できず,存在感が薄かった。ウィルソン米大統領が提案した国際連盟などさまざまな課題を議論する準備が欠落していたのだ。

 随員として会議に参加したのちの首相近衛文麿は,「日本人の眼界がいまなおはなはだ狭小にして,極東の一部に限られ」「平常の調査足らず,予備知識なきの結果」(『戦後欧米見聞録』)などときびしく振り返っている。

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 第1次世界大戦の結果,欧州諸国は多大な犠牲者を出した。恒久平和を可能にする組織を作ろうという国際世論が大きなうねりとなっていた。だが,遠くから欧州の戦争をみていた日本にとって,国際連盟は理想主義的な絵空事にみえたのだった。

 「日本は大戦からあまり多くのものを学んでいない。ドイツ権益を継承し,戦争はうまい汁がすえるという感じをもった。これが後に悪い影響を残した」(NHKドキュメント昭和取材班編「ベルサイユの日章旗」)と外交史家の細谷千博は分析する。

 そこには歴史のタイムラグがあった。第1次世界大戦後の国際社会は,民族自決の原則が高くかかげられ,不戦条約により戦争の違法化が試みられる。しかし日本はそういう新潮流を読み間違った。そのずれが,東アジアできしみを生んでいく。

 2)独立宣言,非暴力かかげ対抗  朝鮮

 1919年3月1日午後2時ごろのことだ。現在のソウルの中心部,パゴダ(現タプコル)公園に詰めかけた群衆のなかから,1人の学生が壇上に駆け上がり,独立宣言書の朗読を始めた。

【参考記述】-「タプコル公園」の観光案内-

 「われらはここに,わが朝鮮国が独立国であること,および朝鮮人が自由の民であることを宣言する」。8年半前に日本に併合されて以来,朝鮮の民衆は言論,出版,集会の自由を奪われ,憲兵の監視下,沈黙を強いられてきた。その民衆が叫びをあげた。

 「独立万歳(トンニプマンセー)!」 数十万人が街路を埋めた。

 夜8時,朝鮮からの来訪者が東京駅に降り立った。独立運動に共鳴する林 圭(イム・ギュ)。自分で日本語に訳した独立宣言書を携えていた。林は,めいが働く新宿の菓子店,中村屋を訪ねた。当主,相馬愛蔵の自宅離れに滞在を許された林は,宣言書約200通を謄写版印刷し,数日のうちに郵便で発送した。

2・8宣言書

 逮捕後の林に対する尋問調書によると,宛先は首相の原 敬(たかし)や尾崎行雄,犬養毅ら政治家約90人。吉野作造,安部磯雄ら学者約20人。主な新聞社,中央公論,太陽などの雑誌社,大学にも送られた。

 『朝日新聞』2019年2月26日朝刊17面の「〈特集〉3・1運動独立宣言文 宣言書」は,その内容について,こう説明している。

 「われわれが朝鮮独立をはかる」のは朝鮮人のためであると同時に,日本を「邪悪なる路(みち)」から救い出し,東洋を支える重責をまっとうさせるためだと述べていた。朝鮮だけでなく,道を誤った日本をも救う。そのために立ったのだと。宣言書はまた,アジアの行く末をみすえていた。

 朝鮮2千万の民を力で縛っても,東洋の平和を保障することはできない。4億の中国人民は日本が侵略してくることへの猜疑(さいぎ)を強め,やがて東洋全体が滅びるだろう。

 しかし,宣言書は公表されず,「威力の時代はすでに去って,道義の時代がきた」という朝鮮の呼びかけが日本社会に広がることはなかった。ただし,響き合う声が皆無だったのではない。朝鮮の美を日本に紹介した思想家,柳 宗悦(やなぎ・むねよし)はこう書いた。

 「軍国主義を早く放棄しよう。……自らの自由を尊重すると共に他人の自由をも尊重しよう。若(も)しも此(この)人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだらう。そうなるなら亡(ほろ)びるのは朝鮮ではなくして日本ではないか」(『朝鮮とその芸術』)。

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 独立運動は朝鮮全土に拡大した。民衆は非暴力の精神をかかげて日本軍警に立ち向かった。夜中に山上でのろしをあげて「独立万歳」を叫び,警官が来れば別の山に移った。これに対する日本軍警の弾圧は苛烈(かれつ)を極めた。「射撃時間約三分……即死シタルモノ五十一名」といった記述が軍の報告書にみえる(姜 徳相〈カン・ドクサン〉編『現代史資料 朝鮮2』)。

 弾圧の犠牲者は,5月末までの3カ月間に死者7509人,負傷者1万5961人に上った(朴 殷植:パク・ウンシク『朝鮮独立運動の血史』)。独立運動から26年後の1945年8月,朝鮮は日本の敗戦で解放の日を迎える。雑誌『歴史評論』が独立宣言書を掲載して日本の読者に伝えたのは,敗戦から3年後の1948年6月号だった。

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 3)「近代化の模範」怒りへ転化 中国

 晴天の北京の天安門前は,殺気立った3千人の学生で埋めつくされていた。「山東を返せ」「不平等条約を廃棄せよ」。集団はスローガンを叫びながら大通りを移動し,親日派とされる要人らの家を襲い,火を放った。1919年5月4日,後に「五・四運動」と呼ばれる抗日運動の始まりだった。

 学生らの怒りは,パリ講和会議に向けられていた。中国のドイツ権益の日本への継承が認められたと伝わると,抗日運動が全土に広まった。中国の知識人や学生にとって,先に近代化を進めていた日本は,模範だった。1912年に誕生した中華民国では日本留学経験者が要職を占め,日本に倣った国づくりを進めた。

 だが大戦前後の日本の振るまいは,その期待を裏切った。1915年,日本は21カ条で,ドイツが握っていた山東省の権益を引き渡すことなどを北京に要求。日本への称賛の念は,日本が「欧米列強とまったく同様に傲岸な振るまいをしていることをしると,大いに色あせた」(ラナ・ミッター『五四運動の残響』)。

 抗議運動を指導したのは,日本の事情に通じる留学生たちであり,そのなかには,後の首相となる周 恩来もいた。日本は当時,大正デモクラシーの時代だった。朝鮮で独立の声があがった3月1日には,普通選挙法制定を求めるデモが,東京で繰り広げられていた。しかし,国内でデモクラシーを求める世論は,国外では帝国主義を是認し,アジアのナショナリズムには無理解だった

 五・四運動について朝日新聞は「第一因は支那人が排外思想強烈の国民なる事」(5月9日)と断じ,学生らの怒りの本質に目を向けようとしなかった。それが当時のメディアの主流だった。そのなかで,日本の対外進出に警告を発した日本人もいた。

 政治学者の吉野作造は,五・四運動について「国民の自発的運動なることを見逃してはならない」と理解を示し,ジャーナリストの石橋湛山は,経済的合理性の観点から植民地を放棄すべきだとする「小日本主義」を唱えた。しかし,彼らの声は少数派であり,昭和になって軍部が台頭すると,かき消されていく。

 東アジアの亀裂は結局,全面戦争へと発展,1945年に帝国日本は崩壊した。歴史の長い影はいまも地域を覆っている。(引用終わり)

 以上のごとき「3・1朝鮮独立運動」に関する解説記事を読むと,とくに中国の「五・四運動」へのつながりを,「世界史・アジア史」全体を踏まえた眺望のなかで勉強しなおすことが必須であったことを教えられる。

 ある時からであったが,アジア「某国の首相」が「戦後レジームからの脱却」を唱えてからというもの,この日本というこの国家(政権中枢)は,日本の人びと(国民たち)を1世紀も前の時代に引き連れていきたいかのように,それも必死の形相(本気?  狂気!)をみせながら,この国の民主主義を破壊してきた。

 それも,「在日米軍基地の島々」になった日本の「国際関係的な米日軍事同盟関係のもとでの現実」の真っただなかで,そうしてきたのである。この事態は,悲劇的かつ喜劇的という意味でも, “諧謔のひとつすら通用しえない” ,不沈空母的に対米従属国家である「JAPAN」体制の完成を予想させてきた。

 傍論としての補注)ところで,2024年のこの2月を迎えた時点になって,この国:「日本」はどのような中身の国家になっていたか?
 
 政治はあいかわらず4流(以下?),経済はもはや発展途上どころか「衰退途上国」だとまで,自嘲気味に形容される程度に低迷している。昨年中には日経平均株価が4万円を超えると予測した金融問題の専門家たちは,その全員が外した。

 前世紀においてバブル経済が破綻していたが,当時においてその日経平均株価は,1989年末の「大納会」と呼ばれる年内最終取引日に,史上最高値の38,915円87銭(終値)を記録して以来,36年目になった現在まで,昨年中には40,000円を超える時期があったとはいえ,つまり「失われた10年」のくびきがいまだに重い負担となっている。

 先日,まだ65歳で惜しくも他界した経済学者森永卓郎は,いまの日本経済の状態ならば株価は30,000円水準で妥当だと喝破していたが,日経平均株価に関していうならば,安倍晋三の第2次政権の介在がもしなかったとすれば,ここまで低い水準にはならなかった可能性が大きかった。

 日本経済が2010年代以降,どうにもしようがないくらい沈滞の趨勢を歩まされてきたのは,ひとえにアベ君のおかげであったというのは,けっしておおげさな表現ではなかった。

 21世紀の日本経済の成長・発展にくさびを打ちこんで,わざわざ妨害・阻止してきた首相安倍晋三と日銀総裁黒田東彦の罪業は万死に値した。アベはすでに故人であるが,黒田は経済・金融問題のド素人みたいな感覚でもって日銀総裁の采配を強行(凶行ないしは狂高)し,この国の社会経済を完全にヘタレさせた。

 この2人はまさしく,かっこうのゾンビコンビとなって,自国を窒息死させかねない経済対策とその運営(下手くそな)を担当してきたのだから,まさに国賊的ダーティ初老ペアだったと呼ぶにふさわしい,それも大根役者以下の演技を,長年にわたり公演してきた。

 昨今のこの国,3食をまともに口にできない貧困層が増えつつあり,後期高齢者層でも貧困にあえいでいる人たちもいるし,さらには,中高年で働き盛りである年齢層に属する人たちのなかには,いまだに定職に就けていない一群も目立つといったなどなどの諸状況は,最近になるといよいよヨリ可視的な現象となってきた。

 その種の経済貧困・社会不安があちこちに滞留するような「昨今の日本国」である。アベノミクスだとかアベノポリティックスといった政策方針まがいの「ナントカミクス」のために,この国の政治経済はとりかえしにつかない「今」になりはてた。

 おまけに,2022年7月8日に安倍晋三が狙撃され死ぬと,統一教会と自民党の抜き差しならぬ腐れ縁が一挙に暴露され,その結果,この国の為政の中枢にまで浸潤していた退廃・堕落ぶりが,もはや救いがたいほどにまでなっていた事実まで明るみで出てしまった。

 海外に目を向けると,「ロシアのプーチン」によるウクライナへの侵略戦争開始以来,エネルギー価格が急速に高騰したために,この影響は日本でも諸物価にいちじるしい値上がりをもたらした。すでに,アベノミクスとアベノポリティックスのおかげで疲弊してきた庶民の日常生活は,いまでは,弱り目に祟り目状態である。

 3年前,2020年初頭から日本にも襲来した新型コロナウイルス感染症問題では,いつも後手後手という以上に,結局は焦点ボケの対策提唱のみに終始してきた。

 とりわけ,現在に至っては予防のためのワクチン接種によってだが,かえって因果関係がろくに判明できない状態のまま,死者が大量に出ていると指摘されている。ところがその真相を解明することも事後の救済をすることも,現在の岸田文雄政権は果たすつもりがない。

傍論としての補注

 以上の引用枠内の議論については,つぎの日経平均株価の推移をみてほしい。2024年中における動きについては4万円の大台(?)に乗るはずだと予測した(期待した?)専門家が,何人も『日本経済新聞』の当該コラムに登場してはその期待をもたせていた。

2024年中には間違いなく4万円を超えると期待されていたが未達成
同年におけるこの値動きはいわば期待外れ

そして本年:2025年こそはそうなるはずだと予測する専門家もいるがまだ分からない
結果責任なしに「当たるも八卦当たらぬも八卦」でする予測ならば素人でもご託宣は可能

経済学者森永卓郎が遺言のように語っていたが
3万円にまで落ちて妥当だという意見も開陳されていた

〔本論の記述に戻る→〕 いずれにせよ,アメリカにしても日本にしても,その国家主義の欲望のさきに待ちかまえている「歴史の造形」が,いかなる容貌になりそうかについては,自国史の過去1世紀をじっくり学んで真剣(真摯!)に検討しなければなるまい。

 というのも,確かに一方で「歴史から学ぶべきなのは,人びとが歴史から学ばないという事実」があるとはいえ,他方でまた「人間はなにひとつ歴史から学ばないという主張は,誰の目にも明らかな事実によって反駁されてもいる」からである(E・H・カー,参照)。


 ※-3 「『東方のともしび』」2・8独立宣言100周年〈上〉」『民団新聞』2019年1月30日,https://mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=0&page=1&number=25074&keyfield=title&keyfield1=body&key=東方のともしび

 この※-3でとりあげる記事は,「3・1独立運動」の前哨となった出来事が,実は当時,日本に留学にしていた朝鮮人学生たちによってになわれていたという「歴史の事実」を,あらためて教えている。

 冒頭で言及しておいた事実であるが,「2・8独立宣言」が,その「3・1独立運動」に先行する運動として存在していた。

 なお,関連させては,当時における東アジア史の事件として,こういう動向が連続して生まれていた点を忘れてはならない。つまり,東アジア史の1919年においては,「日本での2・8」⇒「朝鮮での3・1」⇒「中国での5・4」という時系列的な関連性が,歴史内在的な要因として連鎖していた事実である。

 中国における「五・四運動(ごしうんどう)」が,1919年パリ講和会議のベルサイユ条約の結果に不満を抱き発生していた。

 それは,中華民国の北京から全国に広がった抗日,反帝国主義をかかげる学生運動,大衆運動であり,5月4日に発生したのでこの名で呼ばれている。五四愛国運動,5・4運動とも表記される。抗日・反帝国主義だけではなく反封建主義の側面もあったと説明される。

 1919年に,中国で起きた5・4運動の直前に始まっていたのが,朝鮮における「3・1独立運動」であった。この独立運動に対して,中国の人びとが大きな刺激を受けていた事実は,日本側の歴史学者が通常はあまり認めたがらない「歴史の事実」となっていた。

 ましてやそして,この「3・1独立運動」の前提のごとき出来事が,日本に留学していた朝鮮人学生たちが密かに制作し,母国にもちこんだ「2・8独立宣言(書)」であった。

 以下に『民団新聞』の記事「東方のともしび 2・8独立宣言100周年」を引用する。 

          ★ 3・1運動をリード ★

 東京に留学していた被植民地出身の若き学生たちが1919年2月8日,神田区西小川町(当時)の朝鮮基督教青年会(YMCA)会館で独立を宣言してから100周年を迎える。

 同宣言は3・1独立運動の「導火線」の役割を果たした。アジアの弱小民族の独立闘争にも大きな影響を及ぼし,インドの詩聖,タゴールが「大きな力になった」と韓国に感謝した1929年の献詩「東方の灯」ともいうべき運動だった。

 2月8日,東京には午前11時ごろから粉雪が降り出していた。やがて,30年ぶりの大雪に見舞われることになる。この日,東京朝鮮基督教青年会会館1階講堂(現在の在日本韓国YMCA)で午後2時から朝鮮留学生学友会の総会が開かれることになっていた。

 会場周辺では当局〔日本の警察〕が午前中から40~50人を繰り出し,厳戒体制をとっていた。当局にとって当時の学友会は留学生というよりも「潜在的犯罪容疑者」,その思想をマークし,行動を常時監視すべき存在だった。

 土曜日ということもあって午後いちばんから会場に詰めかけていた中心的な学生たちは,会場周囲の制服,私服の警官を目にして息をのんだ。胸のなかでは不安と決意が交差した。

 「きょうの計画は無事実行されるだろうか」「いや,是が非でもやりとげねばならない。独立宣言書,決議文だけはどんなことがあっても読み上げねば……」

 会場は定刻前から立すいの余地もないほどだった。当時の新聞報道などによれば,結集したのは400人ないしは600人ともいわれている。

 1910年から19年までの年平均留学生数は636人というから,東京にいる留学生の大半が一堂に会したといっても過言ではない。

 学友会会長の白 南奎が総会の開会を宣言。開会祈祷が終わると同時に前から2列目に座っていた崔 八鏞が席を立って「緊急動議!」と叫びながら壇上に駆け上がり,上ずった声で「朝鮮青年独立団を発足させよう」と呼びかける。

 すぐに声討が始まった。徐 椿,李 琮根,さらに女子学生の金瑪利亜も壇上で演説。「いまや独立の機は熟している。われわれは祖国と民族のために最後まで闘うぞ-」。演説というよりも叫びだった。場内は「オルソー」「オルソ-」(そうだ)の大合唱だった。

 間髪を入れず白 寛洙が独立宣言書を朗読した。白 寛洙の背後の壁には,いつのまにか絹布に墨黒々と書かれた独立宣言がさがっていた。

 「朝鮮独立青年団は,わが2000万民族を代表して,正義と自由の勝利を得た世界万邦の前に独立を期成せんことを宣言する」

 場内は波を打ったかのように静かだった。暗唱しているかのように朗々とした白 寛洙の声だけが会場の隅々まで響き渡った。留学生たちからは嗚咽がせきを切ったかのように流れ出た。

 たたみかけるように金 度演が決議文を読みあげた。「要求が失敗した時には,わが民族は日本に対し,永遠なる血戦を宣布する。これによって発生する惨禍はわが民族がその責を負うものではない」

 この最後の句節には留学生たちの亡国の悲哀,愛国愛族の情,祖国独立・再建への気概がすべて叩きこまれていた。

 この後,参加者全員による示威行進で大日本帝国議会と日本政府への請願を計画していたが,警察の解散命令を受け,実現しなかった。宣言署名当時者を中心とする27人が靴を履かせてもらえず,裸足のまま雪の降る凍てつく夜道を西神田署に連行された。

 朝鮮近現代史を専門に研究している姜 徳相さん(在日韓人歴史資料館初代館長)は著書で「3・1宣言とは文脈の構成において相似性をもちながらも,2・8宣言のほうが独立宣言としての思想性や説得性ははるかに高いものがある。単なる学生運動の宣言ではなく,3・1運動を誘発し,リードした宣言である」と高く評価している。(引用終わり)

「東方のともしび 2・8独立宣言100周年」
 

 1919年,大日本帝国の植民地下「朝鮮」で「3・1独立運動」が発生してから早1世紀以上が経過してきた。ところで,21世紀のこのごろは,北朝鮮という存在はさておいても(別格的〔?〕に特別なお国柄なので……),韓国に関してはたとえば,つぎのような記事が徐々に目立ってきている。

 小黒一正〔法政〕教授の「半歩先を読む経済教室」「韓国,すでに日本を一人当たり購買力平価GDPで追い抜き… 数年内に名目でも逆転か」『Business Journal』2021.12.14 05:50,https://biz-journal.jp/2021/12/post_268287.html

 補注)この Business journal の記事からは3年ほど時間が経っているので,関連する事情を更新された最新の内容で補足,紹介しておく。

2020年あたりからはみにくいがともかく
この図表上に記入されている国々のなかでは
日本だけが異様に沈滞気味
 

 明治以来「米欧に追いつけ・追い越せの基本理念:目標」を据えて近代化路線を邁進してきた日本であった。だが,バブル経済が破綻して以来,すでに30年以上の歳月が経過してきたなかで,なんといっても『日本,一番!』, “ジャパン・アズ・ナンバー1” の面影は “いまいずこ” という態になりはてている。

 韓国(朝鮮)を植民地にしていた時代がなつかしいと郷愁する世代は,もうこの世には,おそらく99.999%,存在していない。

 しかしながら,1世紀も以前の(正確には78年前までの)「旧・日帝政治思想の残滓」がどうしても払拭できず,いまだに隣国に対する蔑視観(「偏見と差別」の根強い負の歴史感情)ならば,いまだに精算できていないらしい「日本人としてのごく一部の人びと」がいないわけではない。

 ネトユヨ的なヘイト発言は,そのごく一部の人間がSNSを介して集中的に発信する事実だとはいえ,隣国の事情など基本からしてろくにしらない者たちに限って,時代の流れのなかで変化していく潮流そのものすら正視したくない(し,もとよりできないでいる)。

 盛者必衰はこの世のつねであり,いいかえれば,歴史の必然ともいえる事象の変遷を意味する。「われわれが歴史から学ぶことは,人間はけっして歴史から学ばないということであった」という前述の文言を,この期に及んででないと,実感できないようでは,なんとも情けない。

 最近の話題でいえば,2022年2月24日,ウクライナに侵攻したロシアの大統領ウラジーミル・プーチンの「隣国侵略正当化・史観」に満載されている傲慢かつ専横の態度をみせつけられてだが,この現代風に専制・権威主義的であるロシア帝国風になおかつKGB出身になるこの独裁者は,「自分がもっとも帝政ロシア史にも通暁している人間だ」といったふうに,完璧に錯覚した自己欺瞞の誤認識を保持している。

 やはり「われわれが歴史から学ぶことは,人間はけっして歴史から学ばないことだ」という格言の真理性が,ロシアの独裁者プーチンの演技:隣国侵攻劇によってまたもや,われわれの目前でまる3年が近づくいまの時期になっても,まだ演じられている。

 2023年の「この2月8日」〔初めにこの文章を書いた日付〕になってもプーチンはウクライナへの侵略を止めないどころか,ウクライナ側の抵抗の激しさに苦しんだ彼がこんどは,ロシアの被害者意識だけを強調しだすだから,呆れる。

 今日は2025年2月7日になっている。プーチンは自国経済が実質的に溶融現象を起こしており,侵出しているウクライナ領土における戦場では,ごく最近の情報ではバイクや電動自転車に乗り突撃してくる歩兵どころか,最近はロバにまたがっている兵士まで出てきたのというだから,

 この「宇露戦争」が本当に終わったあとのロシア経済は,現状のごとき戦時体制の強制によって,今年中には完全に失血状態になるではないかと,このロシア経済を研究する経済学者などは,すでにいまから予測している。ソ連邦崩壊の時期に似た事態が発生するのではないかという指摘までなされている。

 日本という国の指導者たちの場合も,かつての帝国日本の時代,海外に植民地や支配地域を保有し,運営していたこの国の営為そのものが,結果的にことごとくが失敗した事実を,「自国の歴史に記載された負の資産」として認識しようとしない。

 それでいてまだ,東アジアの盟主になれる可能性があるなどと,甚だしい勘違いを犯している。とりわけ,2010年代に登場した自民党政権の首相たちには,残念なことにろくでもない「世襲3代目の政治屋」が多かった。

 戦前において日本が韓国:朝鮮(旧大韓帝国)を植民化していくまでの政治・外交の過程のなかでは,伊藤博文がいうことを聴かない韓国側の閣僚に向かい,面前で「こいつは殺してしまえ!」とまでいってのけた。

 だが,このような政治の中身に実際に相当する暗殺行為は,「プーチンのロシア」においても,いくらかはかたちを変えてだが,いまもけっして珍しい出来事ではなく,現代史の舞台における実話としてさらに形成・蓄積されつづけている。もっとも,プーチンのやり方はより陰険でかつさらに暗鬱である。

 かといって,日本の政治のなかでも不審な死は数多く発生してきた。それらはむろん,政治・経済的な利害が絡んだ事件の関係で生じてきた。安倍晋三の関連でみれば,森友学園事件問題にかかわって公文書改竄問題に巻きこまれたすえ,自死を余儀なくされた近畿財務局職員赤木俊夫の事例は,この事件の核心に居座っていた人物たちにとってみれば,これ以上ない好都合:後始末を結果させていた。

 現役の政治家でも国家内の特殊法人と特別会計の闇を追及しだしたら,テロの受けてたちまち命をうばわれた者がいた。くわしくはたとえば,つぎの記事を参照されたい。

 またたとえば,赤木俊夫のごとき事例は,氷山の一角を示唆する一件でしかありえない。政治家や経済人のからんだ背任・汚職事件の分野では,「自殺を装われた殺人事件」がいくつも発生していたと観察されている。

 その観察は,その筋の専門家であれば当然の見方となる。安倍晋三自身が銃殺された事件に関しても,その死因については不審な出来事がいくつも残されたままである。

 安倍晋三はいまはもう居ないということで,例の森友学園問題をめぐり,故・赤木俊夫の妻が提訴した裁判においては,裁判所がようやく,つぎのような高裁判決を出せる経緯が生まれていた。

 現状は,「悪いやつほどよく眠る」といわれるとおりであって,正直者がバカをみさせられるばかり,かつまた,割を食うだけの「汚濁にまみれただけの日本国の政治・社会」になりはてている。しかもこの社会の特徴が,このごろはさらに露骨かつより深刻になりつつある。

 その意味では,安倍晋三という「世襲政治屋3世」が首相在任中,日本政治を根幹から完全にまで腐らせてきた役割は,この人が死んでいったところで許せる,などといえるほど甘いものではなかった。公人として,国家の最高指導者として彼が遺した負の業績ほど,政治の問題としてならば「罪の重いモノ」はなかった。

 ところが,安倍晋三のごとき首相が登場してしまったがために,この日本はヘロヘロのクタクタの状態にまで溶融してしまった。にもかかわらず,この「世襲政治屋3世」が2010年代の為政を通して記録してきた「トンデモな業績」を,きびしく棚卸したうえで清算しておく努力を,本気でする気など露ほどもない「安倍晋三・残党」連中が組織するような「自民党とこの政権」が,これからも続くかぎり,この日本はとうていまともな国づくりにはもう取り組めない。

 それでも,そうした自民党の周辺に薄汚くただよいつづける時代の風潮をいまだになんとも思わない人間が増殖しつづけている。そしてまた,自分自身があれこれの事件に平然と加担していても,この事実についてすら,なんとも思わないで済まされる世相が広く浸透している。

 そうした様相が真面目に反省される様子すらうかがえない日本の政治社会であっても,かまわないのだとなれば,この日本の政治社会はいよいよ軌道修正をしにくくなりつつある。

 安倍晋三による第2次政権の時期「7年と8カ月」〔とその後のいままで〕にあっては,以上のように把握されるべき「日本の政治社会に特有の負的特性」ならば,さらにいっそう悪化してきただけでなく,しかもそのうちに含まれる毒素もその強度(危険度)をより増してきた。

 現状のままだとこの国の未来は,ますますドンヨリしたままの状態で,いよいよどん底にはまりこむ虞れがある。今後においては残念ながら,国勢の全般そのものからして地盤沈下を不可避だとみなす展望しか抱けない。

 ということで,この記述の出発に立ちもどって考えるに,かつての隣国における「2・8独立宣言」「3・1独立運動」に相当する日本・日本人側からの革新的な政治の努力が,それも意識的に展開されないことには,21世紀のいまごろになっているおり,このままますます黄昏ゆくようなこの社会の停頓・衰退を打破する努力は,ますます困難になっていく。

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