平成は30年間と決まっていたが,この年数において日本の政治・経済は下り坂へ一途であっても「大いに意味あるもの」たらしめなければならないなんらかの国情でもあったのか?
※-1 問題意識-元号をめぐる験担ぎ的が大好きなこの国の暦「感」に関する議論-
平成という元号を背負ったこのヤマト国の「日本の年数」は,ほぼ30年間を期間(1989年1月8日から2019年4月30日まで)をもって,区切られることになった。関連していえば,この年数の全期間において基本,日本の政治・経済が下り坂一途で来た事実はさておき,それ相応に「大いに意味あるもの」たらしめなければならない宿命を抱えてもいるのが,この国の元号という問題であった。
付記)冒頭で「画像」の挙げた小塚かおるの著作は2023年10月発売。
「疑問:その1」 平成1年は 1989年であり,平成31年は 2019年であったが,平成1~31年と西暦 1989~2019年とは同じモノ(?)ではなく,なにか別物(時代の中身・実体)でありえたという日本特殊な格別の事情でもあったのか?
「疑問:その2」 平成1年を元年というのであれば,いったいなんのための「元」の「年」を意味していたのか? 年がら年中とはいわないもまでも元号を代えると,なにかお祭り騒ぎでも始まったかと思えるような世相を披瀝できるこの国は,まさにワンダーランド症候群に浸れるごときの摩訶不思議(怪奇現象?)を,またもや再起動させていた。
なお,本記述は2018年2月1日に一度公表されていた文章であるが,その間長いあいだ蔵入りしていた一文であった。本日,2024年2月19日に復活させることになったが,基本,例によって大いに辛口で語る「元号問題」の議論を以下におこなっていく。
※-2 不思議の国のアリス(私たち)が,いまどきに元号を「お上からいただき」,それもひどくありがたがる「このお国なり」の「きわめて特殊に突出した」つまり「世界に冠たる事情」
“アリス・イン・ワンダーランド症候群” (不思議の国のアリス症候群)と名づけられた病気が存在する。これは,自分の体の一部の大きさが変わっていくような錯覚を感じたり,物のサイズや距離感を正確に捉えられなくなる病気である。たとえば『不思議の国のアリス』は出産にも大きく関連していると分析される。
註記)アリスがラビットホールに落ちる場面は “受胎“,狭い場所で巨大化 する場面は “妊娠”,薬を飲む場面は “羊水”,そしてワンダーランドから逃げ出す場面が “出産” のメタファー(隠喩)だといわれている。
出所)「『不思議の国のアリス』についてあなたが知らない20の事実」『ciatr -物語と,出会おう。-』2017年12月28日更新,https://ciatr.jp/topics/163746
※-3「〈2017年大予測〉原 武史「天皇の平成流スタイルは維持されない」『AERA dot.』2017年1月14日 11:30,https://dot.asahi.com/aera/2017011100200.html
a) 2017年が幕を開けた。その前年の2016年は,トランプ氏の大統領選勝利に代表されるように,世界中で既成概念や秩序が「反転」した年だった。今年〔2017年〕はどうなるのか。天皇の生前退位について,放送大学教授の原 武史さんに話を聞いた。
(なお,以下は基本的に全文が原の発言であり,質疑応答形式の記事ではない)
--昨〔2016〕年8月8日の「おことば」で天皇が生前退位の意向を国民に向けて表明し,それを受けて政府が検討を始めました。皇室典範の改正ではなく,いまの天皇に限った特例法によって,2018(平成30)年までに代替わりするというシナリオはもうできていると思います。
補注)平成が2018年〔ただしこの翌年の2019年4月30日までの〕約30年で終わることは,すでに周知のごとくその後になってから,正式に決まっていた。
〔記事に戻る→〕 ただ,憲法2条には皇位は「皇室典範の定めるところにより」継承すると書かれていますし,生前退位を皇室典範の改正なしに進めることは問題があるとする憲法学者もいます。
さらに,今回生前退位が実現すれば,それはどうとりつくろっても天皇の「おことば」がきっかけとなっており,「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない」とした憲法4条に抵触すると私は思います。天皇の政治的な行為を認めた前例を作れば,今後も憲法との齟齬(そご)がますます拡大していく可能性があります。
補注)原 武史が指摘することがら,すなわち「憲法4条に抵触する」「天皇の政治的な行為を認めた前例を作れば今後も憲法との齟齬(そご)がますます拡大していく可能性があ」る点は,実は,平成天皇自身がいままでも明確に意図して敢行し,開拓してきた方途そのものであった。だから,当然,必然のことがらである彼の行為として,大いに問題含みでありつづけてきた。
いいかえれば彼は,その方途が当面してきた憲法に関する発生せざるをえない問題は「百も承知したうえで」,つまり『皇室生き残り戦略』における一環として,今回(当事)において提示した問題:「生前退位」の行為も,まず自分自身のために,つぎになによりも一族(皇族全体)のためをも慎重に考慮しつつ,事前に入念に計慮しつつ戦術的に実行していた。
この種の「問題構造に関する明確な全体の構図」は,すなわち,天皇自身の〈生前退位〉問題については,いろいろと安倍晋三(当時の首相)からの嫌がらせ的なとりあつかいがあって,この要素について天皇は立腹しつつもこれをこらえながら,なんとか所期の希望を実現させえていた。
彼も妻も人間の生命のことゆえ,いずれ死期を迎える。その時期が到来に備えてはすでに,古代史の大王が死後に納められたような「大規模古墳」のごとき「偉容を備えた墓所」が計画されている。そのための設計図も用意されている。
この平成天皇:明仁夫婦に関する21世紀的に現実であった話題は,「現代のなかに登場する古代史的陵基の亡霊的な現象」を,ありのままに再現させつつ示唆していた。
〔原 武史,記事に戻る→〕 「おことば」のなかで天皇は,象徴天皇の務めにつき,積極的に定義づけを試みています。
「即位以来,私は国事行為をおこなうとともに,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましいあり方を,日々模索しつつ過ごして来ました」としたうえで,天皇自身が象徴天皇の務めの中核は国事行為ではなく,憲法に規定されていない私的行為の宮中祭祀や公的行為の行幸だといっている。
しかもそれが今後も「つねに途切れることなく,安定的に続いていく」ことを希望している。ですが,宮中祭祀(さいし)や行幸は明治以降に本格的に作られたり,大々的に復活したりしたもので,まるで歴史上ずっと続けられてきたように継承していかなければならないのはおかしい。
補注)ここで原 武史は「明治以来にそのほとんどが本式(=本格的)に創られてきた宮中祭祀」を,この21世紀以降にまで引きずっていきたいと念じている「天皇家の家長」:天皇明仁の意向を疑っていて,このように “きわめて強い疑念” を提示している。
「平成天皇の生前退位」の代替わり行為が,このまま進行していくとすれば,日本の天皇・天皇制は未来永劫に存続しつづけなければならない「今日に生きる古代史的(?)な政治機構」とでもいうべき地位(位置づけ)を,あらためて求められている事実が,以上のごとき原 武史の発言を介して間接的に語られていながらも,より鮮明に指摘されていた。
天皇明仁は『自家⇒皇族⇒皇室』のいっそうの繁栄,それも現状の日本国憲法第1条から第8条に規定されているけれども,実質ではその規定・定義から大きく逸脱し,異様なまでに肥大化・膨張している「天皇一族の〈弥栄(いやさか)〉」のための目的達成を,一貫して強く念願してきた。
それでも同時にまた,「国民に寄り添う」のだといった独自に決められていた「彼らの任務」が,あたかもごく自然に天皇・一家の仕事であるかのように演出され,実際にもそのようにめざしたかのように,非常に数多くの行動が展開されてきた。
しかも,昭和天皇「裕仁」の息子の立場としては,この父とは重なりながらも異なる時代を生きて,しかも,明確に理念が異なる行動様式を採らざるをえなかった平成天皇「明仁」は,
「自分たち家族」の全体のあり方に関する到達目標としては,「天皇家としての」「確実な存続と恒常的な発展」(ベイシック・サバイバル:basic survival とエターナル・エンラージメント:eternal enlargement)を狙ってきた。
昨今,その最終段階における「彼の企図の実践」が,まさに「生前退位」という結論をみちびき出させていた。ここに至って観ると,「天皇の地位や役目を規定する」憲法の姿は,理論面からみて実践上は「もういっさいなにも存在していない」かのようにも映る。
本ブログの旧ブログ内で2017年4月22日における記述であったが,表題を「半国家日本の敗戦後グランド・デザインの失敗,そのツケが天皇制問題『退位(譲位)問題』で悶着させられる国家体制,安倍晋三専制独裁的政権の闇」と付した一文があった。
そうした指摘(文句,セリフ)を受けたかたちでつぎに言及したいのは,2016年9月24日『朝日新聞』朝刊「〈時時刻刻〉生前退位論議,『安定』の6氏 有識者メンバー,政府系会議の常連ぞろい」が,こう解説していた点である。その一部分だけとなるが,関係の段落を引用する。
政府は〔2016年9月〕23日,天皇陛下の生前退位などを検討する有識者会議のメンバー6人を発表した。皇室問題に詳しい専門家は入れず,これまでさまざまな有識者会議などに起用した識者らを集めた。
宮内庁に官邸中枢から幹部を送りこむ人事も決定。首相官邸が主導し,スピード重視で生前退位の議論を進める狙いがありそうだ。
今回の有識者会議のスタイルは,小泉政権時代の2005年に「女系天皇」を認める報告書をとりまとめた首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」も参考にしたという。
当時座長を務めた東大元総長,吉川弘之氏の専門は機械工学。メンバーも皇室問題の専門家ではなく,経団連の奥田 碩元会長をはじめ古代史や憲法などの識者を中心に10人で構成。そのうえで神道学や日本法制史,皇室研究などの専門家8人にヒアリングを実施した。
安倍晋三首相に近い官邸関係者は「有識者会議は,官邸のコントロールで議論を進めるための仕掛けだ」といい切る。
【参考記事】-『時事通信』2016年10月27日から-
--以上の報道は,いうなれば「初めに結論ありき」の方向性が明示されていた。また「そのうえで」「ヒアリングを実施した」という「神道学や日本法制史,皇室研究などの専門家8人」は,右寄りに偏った人選でしかなく,すなわち当初より「その結論はみえみえ」であった。
そのヒアリングは3回実施され,計16人から聴取がなされた。その対象者氏名は,下掲(後段)の表中にその氏名が一覧されている。このなかには,とても天皇・天皇制問題の専門的研究者,つまりその学術的な意味での専門家=有識者とはいえない人物が,相当人数もぐりこまされていた。
ところでまた,『日本経済新聞』2016年11月15日朝刊に報道された関連記事の見出しは「生前退位,再び賛否割れる 専門家ヒアリング2回目」となっていた。 ごくふつうの観方でしかないけれども,それでも厳密にいえば,渡部昇一と櫻井よしこは,天皇・天皇制問題に限定していえば「専門家でも研究者でもなんでもなくて」,ただごりごりに極右的な足場からしか発信できない御仁であった。
この2人とも当時までにはすでに,きわめつけの単細胞,つまりネトウヨ的な筋肉脳でしか発言する識見力をもちあわせなかった。つまり,思考脳のありようとしては,劣化のはげしい症状をすでに以前から抱えていた人物たちであった。その道の専門家というには,あまりにもムリ筋の人物だというほかなかったのが,この2人であった。彼・彼女の肩越しに,間近にみえていた政治家が安倍晋三であったのだから,こちらの人間関係面ではムリなく整合性が感得しうる話題もあったのだが……。
つぎは,『日本経済新聞』と国会図書館の専門職員による「関連する問題点の整理:分類」を紹介しておきたい。
つぎの画像資料は,ヒアリングに応じた識者全員を一覧している。前段の国会図書館「調査資料」とは若干相違もある。
もとより,前段に氏名を紹介した「政府の有識者会議」の構成員そのものからして,極端な右翼人士(識者といえるか疑問があったくらいに右寄り過ぎる)が多く含まれていた。これでは,平成天皇が当初希望していた線に向かい,よりかなうような議論が期待されるわけもなかった。
なかでもとりわけ,渡部昇一のように「天皇をギョク(玉)」ではなく,単なる「タマ(玉)」あつかいたがる目線でしか明仁を認識しようとしない,いわば偽物の「尊皇主義」者に固有である,しかも “二重・三重に時代錯誤” であったその政治観念たるや,
天皇・天皇制という「今日的な政治機構じたいの問題性」とも,その思考回路が混線状態になっていたまま,それでいても,現代日本における「政治社会の近代化」(現代化ではないそれ以前)を,真正面からでもおこないえていたるつもりだけはあったのだから,「この風景はもはや完全に奇観」を呈していた。
〔だいぶ間が空いたが,ここで再び,原 武史の記事:主張に戻る ↓ 〕
また,天皇の退位後は三重権力状態になる可能性があります。まだ退位後の名称は決定していませんが,仮に「上皇・皇太后」となり,新天皇・皇后がいて,秋篠宮が「皇太弟」となる。三者並び立つ状況です。平成流のスタイルを変えようとする新天皇・皇后に対し,「皇太弟」夫妻はむしろそのスタイルを踏襲しようとするかもしれません。
いまの天皇・皇后は行幸啓を続けることで国民1人ひとりとの直接的な関係を築こうとしましたが,代替わり後は適応障害で長年苦しんできた新皇后〔雅子〕の存在そのものが,ストレスを抱えて苦しんでいる人間にとっての心の支えになるような,別の象徴天皇制のあり方もありうると考えています。(以上の構成/編集部・深澤友紀)
註記)ここまでの※-3は,「【2017年大予測】原 武史『天皇の平成流スタイルは維持されない』」『AERA dot.』2017年1月14日 11:30,https://dot.asahi.com/aera/2017011100200.html を〈記述の基線〉に使い議論してきた。
※-4 以上,原 武史による「天皇明仁の生前退位問題」に関する議論は,発言の論旨としては控えめであるものの,根源につながる論点を明確に示唆している
はたして「日本の天皇問題」,つまり明治憲法(大日本国憲法)以来のものでもある「現行憲法内のその実在」を,21世紀の現段階においてもそのまま認めていて,はたしてそれでも「よいのか?」という根本的な疑問を投じてられている。そのように解釈した方途での議論も不可避である。
2017年度の『放送大学』「授業科目案内」(放送メディアはラジオ)に,原 武史(放送大学教授・主任講師)が担当する授業の概要が掲示されていた。それは「日本政治思想史」の案内になっていた。
「天皇制という日本独自のシステム」とは既述のように,あくまでも「明治に入ってから完全に維新」されつつ,「新しく創造されてきた」その天皇・天皇制を指示している。
換言するとそれは,一般的・常識的に理解されているように,なんとはなしにずいぶん大昔からあったかのように錯覚させられているものではなく,どこまでも「近代の天皇制に限られた〈歴史的な問題〉」にかかわる政治領域のみを意味していた。
19世紀後半から昭和初期,そして敗戦後にかけて,さらに21世紀に入ってもなお,徐々に「創られて」いき,じわじわ「新しくさせられて」きた「天皇制」に関するその近現代的な中身が問題になっていた。
※-5「新元号『生活に根ざすものに』首相が方針 発表形式は前回踏襲」『朝日新聞』2018年1月16日朝刊1面(左上配置記事)
欧州歴訪中の安倍晋三首相は〔2018年1月〕15日,ブルガリアの首都・ソフィアで記者団に対し,平成に代わる新しい元号について「広く国民に受け入れられ,日本人の生活のなかに深く根ざすものとしていきたい」と語った。来〔2019〕年5月1日に施行する新元号は今年中に発表する方向で,選考を本格化させる。(▼4面=発言の要旨〔→次項に引用する〕)
平成への改元のさいは,官房長官だった小渕恵三氏が新元号を発表しており,首相は「発表の形態を含め,平成の元号を定めた手順を踏まえていきたい」と形式を踏襲する考えを示した。発表時期については「白紙」とした。前回の改元では,政府が有識者8人でつくる「元号に関する懇談会」に3案を提示。その後,衆参両院の正副議長や閣僚の意見を聴いて,新元号を平成とする政令を閣議決定している。
一方,首相は憲法改正について「(衆参の)憲法審査会で議論をいただきたい」と述べるにとどめた。国民投票の時期を含め,当面は与党に協議を主導させる構えだ。秋の自民党総裁選に向けて野田聖子総務相らが立候補に意欲を示していることについては「自民党には豊富な人材が雲霞(うんか)のごとく存在する。われこそはと手をあげていただければいい。閣内にあろうがなかろうが」と語った。(ソフィア=木村和規)(引用終わり)
さて天皇家は,私的行為でしかありえない “皇居内の宮中三殿「賢所・皇霊殿・神殿」における神道的な宗教行為” の「立場・思想・信念・信仰」を基本に踏まえて,「国民に寄り添う」皇室・皇族たちの基本姿勢を発露させてきた。
ところが,天皇一族の家長である平成天皇が日本国憲法内では「国・民を統合する象徴」だと規定されている。それゆえ,この点をすなおにそのまま受けとるとなれば,日本国においてはもともと,『政教分離の原則』など完全に阻害されていたと解釈するほかなくなる。
補注)なおここで,その「政教分離」とは,より正確には「祭政教分離」と表現したほうが好ましい論点であった,と断わっておきたい。
この指摘を否定できる者はいない。むしろ人によっては,以上の文句を批判としてではなく,事実として基本的には大賛成する人たちがいないわけではない。
つぎの※-6にとりあげる報道は,次代の「令和」の元号が付けられたの天皇位に就く予定である皇太子徳仁が,57歳の誕生日を迎えたときのものである。
※-6「〈皇太子さま57歳〉『国民に寄り添う』天皇像 継承のご決意にじませ」『産経ニュース』2017年2月23日 05:00 更新
皇太子さまは57歳の誕生日を前にした記者会見で,慎重に言葉を選びながらもみずからの「象徴天皇像」に触れ,「祈り」「国民につねに寄り添う」天皇を継承する決意をにじませられた。過去の天皇に思いをはせながら,国民とともに歩まれてきた天皇陛下に倣う姿勢を示されたかたちだ。
皇太子さまは象徴天皇のあり方に関する質問に対し,16世紀の第105代,後奈良天皇を例示された。昨〔2016〕年8月,後奈良天皇が疫病に苦しむ人びとを案じ,神社などに奉納するために書いた写経をみて,「徳を行き渡らせることができず,心を痛めている」との思いが添え書きされていることに気づかれたという。
補注)中世期に生きていた「天皇の事例」を現代に向けてもちだし比較させ,なにかの含意を汲みとろうとする〈問題意識〉が,現代の日本国憲法のなかに存在する「天皇・天皇家の人びとの立場・利害」にとって,いったいいかなる現実的な意義がありうるのか? 依然,疑問が残されたままである。
〔記事に戻る→〕 皇太子さまは,被災地訪問などで感じた「直接国民と接することの大切さ」について,「都を離れることがかなわなかった過去の天皇も(同じ考えを)強くおもちでいらっしゃった」と推測された。天皇陛下が過去に述べられた,国民と苦楽をともにし,国民の幸せを願うことの必要性にも言及された。
補注)たしかに平成天皇「明仁」は,昭和天皇「裕仁」に比べればはるかに「人びとの近く」にまで歩みでていた,つまり「国民に寄り添う」活動をしてきた。しかし,皇居に住まいをもち暮らしている彼らが,どのくらいまでわれわれの側に本当に近づけたといえば,それはどこまでも儀式的・行事的(象徴的?)な振る舞いでしかありえず,おのずと限界・制約があった。
〔記事に戻る→〕 そのうえで皇太子さまは,象徴天皇の活動として「国民を思い,国民のために祈る」ことを挙げ「国民につねに寄り添い,人びととともに喜び,ともに悲しむ,ということを続けていきたい」と結ばれた。これは,陛下が昨〔2016〕年8月のお言葉で「天皇の務め」として述べられた内容とほぼ重なる。象徴天皇の理想を,陛下をはじめとする歴代天皇にみいだされようとしていることがうかがえる。
註記)この記事の住所は,http://www.sankei.com/life/news/170223/lif1702230005-n1.html
ここでは簡潔に付言しておく。皇太子(息子)が天皇(父)とほぼ同じに「国民を思い,国民のために祈る」かのようにして,「国民につねに寄り添い,人びととともに喜び,ともに悲しむ,ということを続けていきたい」といった点は,いうなれば「天皇家側の皇室生き残り戦略の継続性(宣言)」を強調していた事実を意味する。平成天皇が30年をかけて構築していた「皇族」の生活方針をつづけて,国民たち側に向けて広告・宣伝し,理解や納得を求めている。
原 武史が前述中で「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない」とした憲法4条に抵触すると私は思います」と批判した事由は,十二分に説得力があった。安倍晋三が一方で,憲法第9条を完全に骨抜き状態にしつつあるとしたら,天皇明仁は他方で,その前にある第1条から第8条までを完全にないがしろ(実質的に死文化)する「諸行為」を,いってみれば持続的に累積させるがごとき努力を怠らなかった,とでも指摘してよい。
※-7「安倍首相の発言(要旨)」『朝日新聞』2018年1月16日朝刊から「天皇退位に伴う改元」〔など,以下の2項目〕を参照する
すでに引用してみた記事の反復ともなるが,そのなかから問題点をとりだすために,関連する箇所だけをもう一度,つぎに出しておく。
◆-1「憲法改正」 (改正の是非を問う)国民投票は国会の議決した期日におこなうこととなっており,(衆参の)憲法審査会で議論をいただきたい。
◆-2「天皇退位に伴う改元」 新元号の発表などの手順は,発表の形態も含め,「平成」の元号を定めた手順を踏まえていきたい。平成のときは小渕(恵三)官房長官が発表されたことも踏まえていきたい。
発表の時期についてはまだ白紙だが,国民生活への影響も考慮しながら考えていきたい。新しい元号は,昭和がそうであったように,また平成がそうであったように,広く国民に受け入れられ,日本人の生活に深く根ざすものとしていきたい。(引用終わり)
問題点はどこにあったか?
平成天皇は「新しい元号は,昭和がそうであったように,また平成がそうであったように,広く国民に受け入れられ,日本人の生活に深く根ざすものとしていきたい」と断わっていた。
そうだとすれば,彼は当時からまえもって,それもわざわざ『天皇の元号』が国民側に受容されていく点を予定している。そうした「政治精神的な前提條件」が当然視されている。それも,しごく自然に口に出してもいた。
原 武史にいわせるまでもなく,天皇がそうした部類の発言をおこなうことじたい,本当のところでは「日本国憲法」が禁じている(いた?)」はずである。だが,現状においてその注意は,「弊履のごときあつかいが当然の前提になっている」かの様相である。
昭和天皇(裕仁)の「昭和の時代」,それもとくに敗戦をはさんでの前後の時期は,もうたいそうひどい世の中になっていた。
最初の約20年は戦前・戦中といわれ,旧大日本帝国は侵略するための戦争ばかりやっていた時期であった。
1931:昭和6年に「満洲事変」を始めると〈非常時〉が唱えられ,1937:昭和12年に日中戦争に入ると「戦時体制」に突入した。
その翌年,国家総動員法が4月1日に成立,5月5日に施行された。
さらに,その大戦争(大東亜・太平洋戦争)に敗戦した直後の日本は,荒廃した山河のなかで,人民(帝国臣民)たちがひどい飢餓に苦しむ時期になっていた。
けれどもその後,日本経済は朝鮮戦争(1950年6月25発生)のおかげで,起死回生・千載一遇の好機を与えられた。のちには,バブル経済が頂点に達して破綻する(1986年12月~1991年2月)ことになったとはいえ,ほぼ順調に高度経済成長路線を歩んできた。
この足かけで数えた「昭和の64年間」が,それでは天皇裕仁自身の問題にどのように関係してきたのかと問い,議論しはじめたらきりがなくなる。
この天皇裕仁は,戦争責任をいっさい負わさることもなく放免されていた。天皇の存在は「経済の問題」であるよりも「政治の問題」に主題(重心)があることは贅言を要しない。
ところが,昭和天皇は「昭和の戦争」において命を落とした帝国臣民 310万人(戦没者は240万人)やその遺族たちとも,その後において「つねに寄り添い,人びととともに喜び,ともに悲しむ」ことを,本当に「続けることができていた」などと公言できるのか?
とはいっても,前段の話は日本人・民族のみに限った戦争犠牲者の〈数値の計上〉であって,旧大日本帝国が植民地や属国などにしておき,支配・統治していた国々・地域の旧帝国臣民は除外している。
いいかえれば,敗戦時までの多民族国家体制であった旧日帝は,敗戦を契機に一挙に,それも擬似的にしか過ぎなかったのであるが,再び「単一純粋民族の国家体制(虚構の観念)に戻れた」つもりになっていた。
そして,国内に残っていた約60万人の朝鮮人と約5万人の台湾(中国)人は,日常生活では眼前においていっしょに生活している人びとであっても,完全に無視し,抹殺するための政策を採っていた。
池上 努『法的地位200の質問』京文社,1965年は,法務省入国管理局参事官だったこの人物が,とくに在日韓国・朝鮮人のことを指してであったが「煮て食おうと焼いて食おうと自由」だが本心から思って書いていた。
日本人が,この地球上のどこかに,もしかしたらまだいるかもしれない人食い人種ではあるまいに,たとえ話であったにしてもずいぶん残酷な発言をしていたものである。
21世紀になっても日本の出入国在留管理庁は,いまだに「煮てか焼いてか」は判らぬが,不法残留だといって収容していた外国人を平然と死に至らしめる事件を起こした事実は,つい最近起こした事件としても,本当に記録していた。
【参考記事】-BBCの報道から-
話をもとに戻す。あらためて考えたみたい。はたして「天皇の務め」とはなんぞや,まさかきれいごとだけに終始するものではあるまい。
あの戦争中,皇族の男たちは軍人になっていたが,戦場で戦闘行為のために命を落とした者はいない。沖縄戦では全県民の4分の1,20万人が犠牲になっていた。昭和天皇は戦後,自分が生存中には沖縄県にいけなかった。代わりにその息子が何回もいっている。
それでもって,彼らがよく唱えてきたように,同県の日本「国民(たち)につねに寄り添い,人びととともに喜び,ともに悲しむ」ことができていたかといえば,このような政治意識が実際に発揚される場面の「問題評価」については,相手側の気持まで深く踏みこんで尋ねてみなければ,その真意は汲みとれないし,なにも分かりえない。
いまの沖縄県は「米軍基地にとりかこまれた島」であるかのようにも映っている。この現状に対して,天皇や皇太子たちが「つねに寄り添い,人びととともに喜び,ともに悲しむ」と述べることは,いったいどのような政治的な行為として意味を発揮しうるのか?
普天間基地の移転問題で名護市の辺野古地区でその代替基地を建設するための埋め立て工事が進行中であるが,沖縄県民は戦争中の遺骨が混ざっている土砂をその埋め立てに使うな,といって反対をするほど「太平洋戦争・末期」において多大な犠牲を払わされた。
※-8「明治維新『決別しないといけない』 野田総務相,政府は150年記念施策推進」『朝日新聞』2018年1月16日朝刊4面
野田聖子総務相は〔1月〕15日,金沢市での講演で,明治維新から今〔2018〕年で150年となることに触れ,「明治維新をなぞってもつぎの日本は描けない。私たちはここで決別しないといけない」と述べた。近代化が進んだ明治時代に学ぼうと150年の記念施策を推進する政府の姿勢を疑問視した格好だ。
野田氏は,現在の高齢化率は明治維新のころを大幅に上回っており,社会の姿がまったく違うと指摘。「あのときは良かったということで,明治維新をもう一度というわけにはいかない」と語った。
また,「明治は一握りの強い人が国を支える」社会だったとする一方で,「人が抱えている不自由をとり除くことが,これからの日本にとってきわめて重要。弱者をなくしていく時代をつくっていかなければいけない」と強調した。
今秋の自民党総裁選については,「出るといっているので,それ以外の答えはない」とし,立候補する考えをあらためて表明した。(引用終わり)
野田聖子は,安倍晋三流の「戦後レジームからの脱却」を完全に否定している。安倍がしばしば夢遊病者のように口にしてきた『戦前回帰への妄想的な観念』(「戦後レジームからの脱却」)は,昔々の,日露戦争後あたりまでの「坂の上の雲」物語的に幻覚した時代錯誤(アナクロニズム)から発生していた。
しかも,いまの21世紀における沖縄県の「在日米軍基地的な軍事的環境」(敗戦の結果:昭和天皇も希望していた光景)そのものなどは,完璧といっていいくらいに放置したままでいながら,あの「昔はよかった」などと完全に倒錯(逆立ち)した政治思想を打ち出せたつもりでいた。
政治家がとり組む問題はあえて分かりやすくいってしまえば,企業経営者や家政管理者と同じであって,未来に向かい生きていくことに目標を立てるほかない。それなのに,戦前体制がよかったとか,それが美しい国・ふつうの国の模範や標準になるかのように勘違いしたうえで,しかも強度に狂信できている。これでは,もうなにも付ける薬もないくらいに始末が悪い。
「戦前体制に戻るのだ」といっているけれども,在日米軍基地はいったいいつになったら撤退させられうるのか? 「戦前の光景」にはそのような外国軍の基地は皆無であったのではないか? 安倍晋三はこの種の疑問に答えていなかったし,またそもそも,答えられるような思考回路じたいをもちあわせていなかった。
いまでもなお,沖縄県では戦前に回帰できるような見通しは,さっぱりもてないでいる。アメリカという「日本の宗主国」には,国家運営・自国管理の要諦・急所を握られている。つまり,実際には完全な対米従属国家体制が構築されている現状にある。神奈川県の橫田基地は,実態として日本総督府ではないのか?
そうした米日国際関係現実史のなかで,それでもなお「戦前回帰=戦後レジームからの脱却」ができるなどと想像しつづけることができていた,その元首相が抱きつづけたその想像力は,単なるけだるい白日夢であった。多分いまだに夢のなかでオジイチャンに会えたさいに「指示された岸家の政治理想」が,いつまでも忘れられなかったのかもしれない。
もっとも,安倍晋三の死後となってもい,統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と自民党を中心とした腐れ縁は,まだに追加的に暴露されている。晋三は単に祖父と同じに,「文 鮮明風の統一教会的な悪い薬」にひどく毒されていただけであったのか。
その意味でも,明治維新150周年を記念して祝ったという発想じたいが,「時代感覚の貧困的な倒錯」だけでなく,その重度の麻痺までも意味したことを示唆する。
統一教会とのただならぬ岸 信介⇒安倍晋太郎⇒安倍晋三の近しい間柄「史」は,日本政治史の展開のなかで蓄積されてきた汚染史そのものをも意味していた。
「明治を祝いたい時代精神」とは,まさしく『病膏肓に入った』安倍晋三のような自民党「極右政治家の精神的な持病」なのかもしれない。
野田聖子のいうとおりであって,いまから150年前の1868年前後する時期におけるいろいろな「政治・経済の出来事」は,たしか一度「大失敗」していた結末に逢着させれていたはずである。それをもう一度繰り返したいとでも思っていなければ,明治維新150周年を記念するなどと気安く発想できるわけがない。
どだい,正気の発言ではなかったか?
来年の2015年は敗戦70の年になるが,明治維新150年を祝っても,こちらの敗戦という記憶は「意識しないでいたい」というのは「虫がよすぎる時代観念」である。その維新あっての1945年の8月15日であった「歴史の事実関係」は,認める・認めないにという姿勢にかかわらず,歴然とした因果を有する。
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