「皇居の森深き宮中」と表現された天皇家の近現代史「創作物語」
※-1「皇居の森深き宮中」と表現された天皇家の近現代史は,まさに「明治謹製」として「創られた天皇制」にその本質(「古:いにしえ」の由来)があったゆえ,ずいぶん新鮮な作風にもとづく物語
2019年03月21日
◆-1 明治以来,天皇の本拠地は「東京」の皇居に移り,京都とは疎遠になった
◆-2 明治になってから近代的に再編成される方途で,天皇・天皇制は創造されてきた。それゆえ,われわれがふだん見聞きする天皇家関連の私的行事は「99%が19世紀後半以降の産物」
◆-3 古代史の遺物のような天皇陵(孝明天皇用)の復活的な建造も19世紀後半に創建された
◆-4 敗戦後になっても,天皇・天皇制は新しい伝統を創りあげてきた,昭和天皇はなかば不承不承と,そして平成天皇は意欲的・積極的にその構築に努力していた。現在の天皇徳仁が,そのあたりをどのように自分なりに考えているかは,いまのところ未知数
※-2 小島 毅『天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-』光文社,2018年5月は「明治謹製」であった天皇・天皇制を明確に説明
光文社がこの本を宣伝するために,つぎの 3)のような内容紹介をしていた。前後に順逆しているが,簡単に「章」単位の目次もその前, 2)に添えてある。著者の略歴をさきに 1)に紹介しておく。
1) 小島 毅(こじま・つよし,1962年生まれ)は,東京大学文学部卒業,東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了,東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は中国思想史。東アジアからみ小島毅画像た日本の歴史についての著作も数多くある。
著書は,※-2の見出しに出ている以外に,以下のものがある。
『近代日本の陽明学』講談社,2006年。
『足利義満 消された日本国王』光文社,2008年。
『「歴史」を動かす-東アジアのなかの日本史-』亜紀書房,2011年。 『朱子学と陽明学』筑摩書房,2013年。
『増補 靖国史観-日本思想を読みなおす-』筑摩書房,2014年。
『儒教の歴史』山川出版社,2017年。
『父が子に語る近現代史』筑摩書房,2019年。
『父が子に語る日本史』筑摩書房,Kindle版。
監修したシリーズに『東アジア海域に漕ぎだす 全六巻』東京大学出版会,2013~2014年がある。
2) 『天皇と儒教思想』2018年の目次
「目次」は,こうである。
はじめに 第1章 お田植えとご養蚕
第2章 山稜 第3章 祭祀
第4章 皇統 第5章 暦
第6章 元号 おわりに
3) 『天皇と儒教思想』「概要紹介」
8世紀の日本で,律令制定や歴史書編纂がおこなわれたのは,中国を模倣したからだ。中国でそうしていたのは儒教思想によるものだった。つまり,「日本」も「天皇」も,儒教を思想資源としていたといってよい。
その後も儒教は,日本の政治文化にいろいろと作用してきた。8世紀以来太平洋戦争の敗戦まで,天皇が君主として連綿と存続しているのは事実だが,その内実は変容してきた。
江戸時代末期から明治の初期,いわゆる幕末維新期には,天皇という存在の意味やそのありかたについて,従来とは異なる見解が提起され,それらが採用されて天皇制が変化している。そして,ここでも儒教が思想資源として大きく作用した。本書は,その諸相をとりあげていく。(内容紹介終わり)
さて,いきなりする話となる。極論していってのける。だからこそ,現在の天皇家に関する歴史は,その「伝統・格式・行事」のほとんどが「明治に入ってから」「創られ,ととのえられ,くわえられてきた」ともいえる。
とりわけ,1872〔明治5〕年に決めていたのだが,「神武天皇即位の年」(=西暦紀元前660年)を皇紀元年とした「当時に決めておいた事実」などは,いわせる人にいわせれば神話物語でしかありえず,それも相当に荒唐無稽なる「歴史に関する時間観念」だと断言される。
西暦紀元前660年に始まったとされるその「皇紀」で数えると,今年〔2019年(2024年)〕はなんと2679年〔2684年〕目に当たる。もっとも,神武天皇にもお父さんとお母さんが “きっといた” はずだから,この2679年という年数はさらに長くなる可能性がある。当然の話だが……。
この点,すなわち「神武天皇にも父母はいたはずだ」という指摘は,以前,国会のなかで自民党議員の中山正暉(1932年生まれ)が,つぎのように発言・指摘していた。
後段になるがつぎの※-3に引用・紹介する,本日『朝日新聞』2019年3月21日朝刊36面「特集」の「平成の問題」という記事の題名は「皇居の森深き宮中祭祀」ということであって,まことに意味深長であった。
前段に引用した中山正暉の発言のなかには,伊藤博文が登場していた。この明治時代において大活躍した政治家が,実は,「近現代史としての天皇・天皇制(もとは古式の政治制度)」を復活(?)させ,新しく別様にも創るために大きな貢献をした人物であった。
以上の事実は,日本史の研究家であれば周知に属する知識であるが,天皇問題に関して世間,われわれの次元においては,必らずしも十分にはしられていない。とくに庶民のあいだでは,そこまでよくしられていない。というか積極的には教えられていなかった「知識」であった。なぜなら,話題があまりにも神話風でありすぎて,ふつうの理解力ある大人であれば,ただちに〈眉ツバ〉ものだという感想・疑問を抱くほかなかったからである。
「明治時代」において日本が帝国主義的な国家体制を構築していくために大いに利用しつくした「天皇・天皇制の仕組」に関した究明をおこなっている本書,小島 毅『天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-』2018年5月は,一般教養書として新書判の体裁をもって発行されていたが,「天皇家の再構築的な新創設」であった「明治謹製の天皇・天皇制」に関する専門的な研究をくわえた書物である。
小島の同書がわれわれに教えようとする「歴史の事実」は,いったいなんであったのか。ここでは,個々の内容をいちいち引用できないゆえ,小島が同書の冒頭で「天皇をめぐる諸制度は明治時代に改変された」と断わったうえで,こう指摘していた点のみ引用しておく。
天皇をめぐる諸制度の多くは,実は明治維新の前後に新たに創られたものである。本書はこれらのなかから,農耕と養蚕,陵墓(皇族の墓。みささぎ),宮中再試,皇統譜,一世一元をとりあげる。また,新しい制度だとすでに認識されている太陽暦の採用についてもあつかう(8頁)。
本当のところ,天皇・天皇制に関するくわしい中身などなにもしらない庶民の立場からすると,いきなりこのような知識をあらためて教えられたりすると,かなりびっくりさせられる。というか,より正直にいってみるに,ともかくまあそんなものだったのか,という程度で受けとってきたかもしれない。
というのは,冒頭でも触れてみたが,なにせ日本の天皇制度の歴史・伝統は,はるか昔の「いにしえ:古」から連綿と受けつがれてきた貴重な制度(慣習・手順?)であったし,これが有する「世界に冠たる」「万世一系」性も,日本国が唯一有する正当性・妥当性(八紘一宇性)であると説明されてきたからである。
もっとも,明治以来に徐々に蓄積させられてきた旧大日本帝国時代におけるそうした天皇・天皇制の形成史は,敗戦の憂き目に遭遇していた。天皇・天皇制をかついで「近代風に神国でありうる帝国日本を形成させてきた,すなわちその『明治謹製になる「1868~1945年(77年間)」の歴史』は,ひとまず幕を引かれていた。この事実を,ぶっちゃけいえば,根本から倒壊させられたのである
しかし,その不幸中に遭遇させられても幸いなことに,「天皇家」がマッカーサーの手によってお取り潰しになることはなく,むしろ戦後の日本を占領・統治したアメリカ側が,この日本とこの民たちを都合よく支配をしやすくするための装置として,そのまま天皇・天皇制を利用(活用それとも悪用)してきた。
この事実は21世紀の現段階になっても,そのまま「持続可能な米日間の従属体制」として堅固に維持されつづけている。在日米軍基地を利用するアメリカ軍(正確にはアメリカ太平洋軍)が,この日本の国土をいいようにつかまわしてきている敗戦後史は,いまもこの国のあり方を根本から方向づけている基本要因に関した記録そのものである。
戦後になって駐日アメリカ大使を務めたことのあるエドウィン・ライシャワーは,太平洋戦争が始まるやすぐに,アメリカがこの戦争に勝って日本を支配することになるが,そのときは天皇を “puppet” として使うようにすべきだと,政府に対して書簡(意見)を送付していた。結局,その期待どおりに「敗戦したあとの日本」は,なっていた。
註記)Edwin O. Reischauer, “Memorandun on Policy towards Japan,”
September 14, 1942 は,こう述べていた。第2次大戦の敗戦国ドイツとイタリアと比較しながら,日本と天皇に関してライシャワーは,こう提言していた。本文の段落ではとくに太字の箇所だけ観てもらえればよい。
在日米軍基地の存在そのものはすでに,沖縄県の普天間基地を辺野古地域に移転させる事業が開始されている状況もあって,あらためて世間の注目を集める問題になっていた。
日本は実質的には「アメリカには軍事的に服従させられている」国家体制に置かれているゆえ,国内に配置されている米軍基地の問題は,日本にとってみれば「敗戦という出来事」を忘れさせない「現実そのもの」を意味してきた。
敗戦後しばらくは,昭和天皇がアメリカ側に対して「自分の希望:米軍基地の存在意義を認める意思」を,個人的に伝えていた事実があった。このことは,日本国憲法の「第1条から第8条まで」と「第9条」の関連において吟味すべき「歴史の事実」の問題であった。
アメリカと日本との国際政治的な相互関係は,実質では『対米従属国:日本』という1点の認識に帰着する。敗戦後における昭和天皇が,いったいどのようにアメリカとの関係のなかで,それも裏舞台で個人的に言動していたか。あるいは息子の平成天皇が「国民の立場」に「寄り添う」皇室戦略行動をもって,その「治世(!)30年」を妻美智子とともに生きてきたか。
つぎの文面は「天皇メッセージ」と称されるメモ(アメリカ側が書きとめていた文章)である。
以上の問題は,われわれがあらためて冷静に分析しておくべき「昭和史・平成史・令和史」に通貫する論点を提供している。
補注)ここではついでに,つぎのような素朴な疑問が提示されていたので紹介しておく。
「昭和天皇は英国の陸軍元帥だったと官報の記事。日本国民を焼き殺したのは昭和天皇ですか?」『阿修羅 掲示版』2014年3月10日 09:03:47,http://www.asyura2.com/13/warb12/msg/506.html の投稿者「飯岡助五郎」は,こう記述していた。
※-3「〈平成とは あの時:18〉皇居の森深き宮中祭祀」編集局・喜園尚史稿『朝日新聞』2019年3月21日朝刊36面「特集」
なお,この特集記事「『平成とは あの時』シリーズはこれ〔18回連載〕で終わります」と,末尾に断わられていた。以下,この本文の紹介である。
--平成という時代が4月末に終わる。国民が目にしてきた天皇陛下は,被災地のお見舞いや慰霊の旅をする「象徴」としての姿だった。だが天皇には,皇居の森深く,日々,祭祀をつかさどるもうひとつの姿もある。
戦後,宮中祭祀は皇室の私的行事とされたが,秋の新嘗祭(にいなめさい)には三権の長が参列する。〔2019年〕11月,29年ぶりに営まれる大嘗祭でも,前回同様に公費が使われる。「みえない祭祀」に,戦後も断ち切れていない国とのつながりが透けてみえる。
イ) 政教分離,実態あいまい 公務員が代拝
平成に入って2年目の1990年11月22日夕,皇居・東御苑に造営された大嘗宮(だいじょうきゅう)で,大嘗宮の儀が始まった。
宮内庁担当だった29年前,深夜の現場にいたが,暗闇に揺れる炎しかみえなかった。大嘗祭は公的性格があるとして公費が支出されたが,参列者からも儀式の中身をうかがいしることはできなかった。これが象徴天皇の即位儀式なのか。違和感だけが残った。
皇居の森に,入り母屋(もや)造りの建物が三つ並んでいる。宮中祭祀がおこなわれる賢所(かしこどころ),皇霊殿(こうれいでん),神殿で,宮中三殿と呼ばれる。その脇に新嘗祭(にいなめさい)がおこなわれる神嘉殿(しんかでん)がある。
元日早朝の四方拝(しほうはい)に始まり,年間約20の祭祀がある。宮中祭祀は皇室の伝統とされるが,新嘗祭などを除いて大半は明治以降に始まった。しかし戦後,新憲法の政教分離規定によって,宮中祭祀は皇室の私的行事となり,祭祀を具体的に定めていた皇室祭祀令も廃止された。宮内庁職員ら公務員は関与できない建前になった。
だが,実態はあいまいだ。大嘗祭当日,ある掌典補(しょうてんほ)は,夕刻から本番を迎える大嘗宮の儀でのお供えの準備に追われた。掌典補は,宮内庁に所属する公務員である。
戦後,宮中祭祀を担当する掌典職は,宮内庁の組織から外れ,掌典長,掌典,内掌典(ないしょうてん)などはいずれも天皇の私的使用人に変わった。ところが,掌典補は宮内庁に残り,祭祀の補助にもたずさわることになった。
宮中三殿にいる時は白衣白袴(はくいはっこ)姿,宮内庁庁舎に戻る時は背広に着替えるが,仕事の大半は祭祀関連だった。女性が務める内掌典が,宮中言葉で「まけ」と呼ばれる月経になると,祭祀にかかわれない。その時は手伝った。
すでに退職した元掌典補はいった。「日々の祭祀が,つつがなくおこなわれることだけを考えてきました。公務員だからこれはできないとか,意識したことはありません」。〔だが〕国家公務員が,直接的にかかわっているものもある。
「問題の毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)はモーニングで庭上からの参拝に9月1日から改正の由」。1975年8月16日,昭和天皇の侍従だった卜部亮吾の日記にこんな記述がある。国会で政教分離問題が議論になっていた時期だった。
従来,侍従による朝の代拝は浄衣(じょうえ)姿で殿内でおこなわれていた。しかし,服装や形式が変わっても公務員である侍従の代拝じたいは続いている。この代拝について,宮内庁は国会でこう答弁した。
「宮中三殿は,家の神棚みたいなもの」
「侍従という職務からみても憲法違反とまで考えてはいない」
補注)この答弁は詭弁である。この理屈にしたがえば,「日本という国家(家?)」の「神棚みたいなもの」という形容じたいが「政教分離の原則」に抵触している。
日本人・日本民族〔以外の在住外国人たちすべても含めて〕は,全員が神道教徒(より正確にいうと「国家神道」でも「皇室神道」の信者)ではない。また神棚を設置しているわけでもない。
仏教徒・キリスト教徒・イスラム教徒などが現実にいる事実を無視した話し方は,それこそ論外の弁法である。そもそも,神棚という神道的な宗教道具とは無縁で生きている日本人・日本民族がいないのではなく,いくらでもいる。
日本国とこの民の統合する象徴の地位にいる天皇(その家)の “神棚の話題” である。その話題を日本人・日本民族・日本に暮らす全員にあてはめうる性質の話題について,前段のように「憲法違反にならない」というのはきわめて恣意的であり,どこまでも勝手な解釈である。
〔記事に戻る→〕 そもそも憲法制定当時,政府は宮中祭祀をどう考えていたのだろう。宮内府(現宮内庁)法が施行される直前の1947年3月,吉田 茂首相が昭和天皇との面会に用意したとみられるメモが,国立国会図書館の憲政資料室に残されている。当時の入江俊郎・法制局長官の関係文書にあるもので,昭和天皇実録にも,同じ日に首相が天皇に報告に来た旨の記述がある。
「宮内府に関する奏上(そうじょう)」と題されたメモは,皇室には,憲法上認められた公的事項と私的事項があるとしたうえで,私的事項でも,象徴の地位の保持に影響が深い場合には,国がお世話することは当然だ,としている。ただ,それに続けてこうも書かれている。
「祭祀の事務は,皇室の私的事項であり,これは政教分離の日本国憲法の建前からも,宮内府で扱わぬことが穏当であると存じます」。同じ入江文書のなかにある「皇室関係の事務」というメモにも「祭祀の事務は純然たる私事で,これには宮内府の職員も,たとえ補助であっても関与せぬがよかろう」との記載がある。
皇室に詳しい瀬畑 源・長野県短期大准教授は「国として関与するのは,皇室にかかわる国家事務と規定しつつも,皇室の性質上明確に切り分けられないというあいまいな実態があった」としたうえで「それでも,当時は宮中祭祀については関与すべきではないと,少なくとも政府レベルでは考えていたことが読みとれる」と指摘する。
ロ) 新嘗祭に三権の長,国家との関係いまも
昨〔2018〕年11月23日夕から,平成最後の新嘗祭がおこなわれた。新嘗祭は,宮中祭祀のなかでもっとも重要とされる。その晩,首相官邸の公式ツイッターが安倍晋三首相の写真付きで更新された。
「凜(りん)とした空気のなか,宮中において厳かにおこなわれた新嘗祭神嘉殿の儀に参列いたしました。五穀豊穣に感謝の念を捧げ,そして,皇室の弥栄(いやさか)と国家の安寧をお祈りいたしました」
補注)ここで紹介されている安倍晋三のことばは「皇室⇒国家」だけであり,国民たちに関する直接の表現はない。
〔記事に戻る→〕 宮中祭祀は皇室の私的行事になったが,三権の長らの参列が恒例となっているその風景は,政府の公式行事を思わせる。
終戦から4カ月後の1945年12月15日,連合国軍総司令部(GHQ)による神道指令が出された。国家神道を解体し,宗教と国家を分離させる狙いだ。宮中祭祀はいったい,どうなるのか。政府関係者らの不安をよそに,そのまま残った。あくまでも天皇の私的信仰だというGHQの判断だった。
終戦〔敗戦〕当時の宮内次官だった大金益次郎氏は,のちに国会の憲法調査会に呼ばれて当時の思いをこう語っている。
「天皇のお祭りが,天皇個人の私的信仰かという点は深い疑問をもった」
「幸いにして個人の信仰は保障されている」
宮中祭祀が生き延びた安堵の一方で,私的信仰に落としこまれた憤りも強くにじんでいる。
天皇の行為は,(1) 国事行為,(2)象徴としての公的行為,(3)その他の行為,に3分類できるというのが政府見解だ。さらに (3) については,公的性格のある行為と純然たる私的行為に分かれるとしている。
補注)この天皇の行為「問題」については,すでになんどか紹介してきたが,園部逸夫が作製した関連の図解があるので,ここでも参照しておく。これは,園部逸夫『皇室制度を考える』(中央公論新社,2007年)が提示した関連の図解である。概念的にうまく整理:図示されている。
〔記事に戻る→〕 公費支出が政教分離に抵触すると指摘されている大嘗祭は,(3) のうちの「公的性格がある行為」としているが,宮中祭祀は,大相撲観戦などと同様に「純然たる私的行為」に区分し,内廷費を支出している。
しかし,皇室の伝統である宮中祭祀の重要性を指摘する声は根強い。とくに皇室への思いが強い保守層に目立つ。
朝日新聞が昨年実施した世論調査では,新天皇に一番期待する役割について,「宮中祭祀など伝統を守る」は「被災地訪問などで国民を励ます」「外国訪問,外国要人との面会」に続いて3番目に多かった。
退位をめぐる有識者会議では,こんな意見が出た。
「(天皇は)祭り主として存在することに最大の意義がある」
「宮中祭祀は久しく私的行為とされてきたが,国民統合の精神的基盤をなす公的行為のひとつと考えられる」
「もっとも重要なことは,祭祀を大切にしてくださるという御心(みこころ)の一点」
大嘗祭への公費支出,新嘗祭への三権の長参列……。祭祀と国は,なお結びついている。
ハ) 「公的行事化」強まる動き 島薗 進さん(上智大教授〈宗教学〉)
明治以降,欧米のキリスト教国家に対抗できる近代国家を構築するための土台として利用されたのが皇室祭祀だった。
そのため祭祀が大幅に創り出され,とくに神武天皇祭をはじめ万世一系を裏打ちするような先祖祭が目立った。国民生活に直接影響する祝日も,紀元節など皇室祭祀にかかわるものばかりで,国民の意識に国家神道を根づかせる狙いがあった。
その国家神道は,戦後のGHQによる神道指令で,神社と国家の分離という点では歯止めがかかった。しかし,天皇の祭祀は棚上げ,容認され,それに公的地位を与えようとする政治勢力が影響力を強めてきた。戦後の皇室祭祀は天皇の私的信仰のはずだが,個人的な信仰ではなくその地位についてくるものだ。
国家主義的な立場からこれを公的行事にする動きが繰り返し生じてきた。神聖な天皇が皇室祭祀をすることで「美しい国柄」が護持されるという主張だ。しかし,天皇の祈りは,あくまでも2016年のお言葉にあったように,国民への深い信頼と敬愛をもって人として祈るということ,それこそが象徴天皇にふさわしい。(談)
4) 私と平成 編集局(皇室担当)・喜園尚史(よしぞの・ひさし)(59歳)
「やはり真実に生きるということができる社会を,みんなでつくっていきたいものだとあらためて思いました」。
天皇陛下は2013年10月,皇后さまとともに初めて熊本県水俣市を訪問した。水俣病の患者らとの懇談で,こう語りかけた。38歳まで病気の認定申請をためらってきたという男性の思いを聞いてのことだった。
「今後の日本が,自分が正しくあることができる社会になっていく,そうなればと思っています。みながその方に向かって進んでいけることを願っています」
象徴を生きる,というのは,どういうことなのだろう。
「ぼくは天皇になるだろう」 天皇陛下は高校1年の時,家庭教師のバイニング夫人が将来の希望を書かせたところ,こう記した。「やはり私人として過ごす時にも,自分たちの立場を完全に離れることはできません」(2001年の誕生日会見)。その発言には,絶えず地位に伴う制約がつきまとう。
「天皇は憲法に従って務めをはたす立場にあるので,憲法に関する論議については言を慎みたい」。「(即位の礼,大嘗祭の政教分離について)この問題につきましては,内閣が慎重にいろいろな角度から,検討をおこなっていると思います」(1989年8月,即位後初めての会見)。
その発言が,大きく踏み出された。
2016年8月,退位の意向をにじませた思いを,国民に語った。「私が個人として,これまで考えてきたことを話したいと思います」。驚いた。天皇が「個人として」と断って発言するとは。「現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」「天皇は国政に関する権能を有しません」。政府との調整をうかがわせる言葉が続いた。
それでも,最初に聞いた時は一線を越えたのでは,と思った。憲法学者から疑義も出た。ただ,こうも感じた。天皇も1人の人間だ。加齢に伴う身体の衰えを感じるなかで,今後の不安を表明した。それも許されないのだろうか。
天皇という運命。退位という選択。それは「自分が正しくあることができる社会」に向けて,象徴としてのぎりぎりの決断にも思えた。憲法は,生身の人間に象徴という地位を与えた。天皇の発言はどこまで許されるのか。政教分離は守られているのか。問うべき課題は,そのまま次代に先送りされる。(特集記事・引用終わり)
ところで,昨年(2018年)12月23日平成天皇の誕生日に,猪瀬直樹(作家・元東京都知事)がつぎの発言をしていた。
昭和天皇は,大日本帝国大元帥の立場をもって「大東亜・太平洋戦争」に敗北した。その屈辱は,敗戦後も天皇の地位を保持しながらも味わってきた。 “敗戦の将は兵を語らず” とはいうものの,そのまま日本国憲法のなかで象徴天皇の地位に横滑りできた彼の生涯は,けっして後味のよいものではなかった。とはいえ,彼自身は,戦争責任の問題を完全に棚上げすることができていた。
なかでも,以下の話は有名である。
1975年10月31日,訪米から帰国したさいにおこなわれた日本記者クラブ主催の記者会見で,記者からの質問に対して昭和天皇は,つぎのように返答していた。1975年10月31日
現在,在日米軍基地に実質的に統括・支配される「従属国家の日本」については,敗戦後における政治過程のなかでアメリカ側に対して「そのような自国の状態になってもいい(しかたがない)」と希望を伝えたことのある昭和天皇であった。昭和20年代史からの「日本の政治と経済」は,基本的にはアメリカ好みの国家を形成していく方途となっていた。
平成天皇は,昭和天皇が自分の父親として「敗戦後の昭和時代」をどのように生き抜いてきたか,一番よくしっている立場にいた。だから平成天皇は,沖縄県をはじめとして日本だけでなく,国外の地にまで「慰霊の旅」に出かけていった。
この「父と子」の歴史的な組みあわせによって描かれてもきた「現代日本史の展開模様」は,日本の政治史のなかで有する意味にしたがい展望しなおすとしたら,その解釈を分岐させる論点の介在を回避できない。いずれにせよ,そうした事実じたいが,「天皇家」の歴史に生じていた経歴:記録として明述されていた。
最近(当時),安倍晋三が自分を第3者からはみえないように隠しながら,平成天皇をいい気になって物陰からいじめていたという情報も流れていた。この事実は,安倍が明仁よりもさきに「幽明境を異にする」人物となった点とかかわりなく,今後においても,その人間的に絞まりがなく,かつ底意地も非常に悪質であった点として,よりきびしく追及されてよい不埒な行為の記録である。
そこで,最後につぎの※-4のごとき議論も聞いておきたい。ごく粗っぽく断わっておくが,歴史のなかに発生していた「安倍晋三⇔天皇明仁」間の「乱流的な政治関係」も意識しつつ,聞いておきたい批評である。
敗戦から74年(2024年ならば79年近く)が経った21世紀の現在でもなお,その「敗戦」問題にまで遡れるはずの,因果連続の「肝心な系列の問題」が,以下の論述のなかには表現されている。
※-4「安倍政権が3億円の寄付をした米シンクタンクの正体! アーミテージレポートで日本属国化を進めるジャパンハンドラー」『リテラ』2019.03.17 12:06,https://lite-ra.com/2019/03/post-4610.html
なお,この記事からは「ネット画面で全3頁」のうちから1頁目のみ引用している。
--トランプ大統領におねだりされて戦闘機やミサイルなどを爆買いし,普天間返還の見通しも立たぬまま辺野古新基地建設を強行,そしてトランプのノーベル平和賞推挙……。
“対米隷属” が甚だしい安倍首相だが,ここにきて,さらなるえげつない “アメリカへの貢物” が判明した。あのジャパンハンドラーたちの巣窟である米シンクタンク「戦略国際問題研究所」(CSIS)に,日本政府が巨額の寄付金をつぎこんでいたというのだ。
〔2019年3月〕14日付の『しんぶん赤旗』によれば,第2次安倍政権の2013年度からの6年間で,日本政府がCSISへ寄付した金額はなんと2億9900万円にのぼるという。
共産党の宮本徹衆院議員の追及によって外務省が明らかにしたもので,外務省は「国際情勢に関する情報の収集および分析」「海外事情についての国内広報その他啓発のための措置および日本事情についての海外広報」などを寄付の理由にあげている。
だがいうまもなく,寄付の原資は税金だ。国民の血税を米国の一民間シンクタンクに勝手に寄付するなんてことが許されるのか。しかも,問題は寄付した相手の正体だ。
「戦略国際問題研究所」(CSIS)は前述したようにワシントンに本部を置く民間シンクタンクだが,アメリカの政財界の意向を受けて,日本をコントロールする “任務” を帯びた知日派「ジャパンハンドラー」の巣窟といわれているのだ。
補注1)すでに氏名の出ていたエドウィン・ライシャワーも広い意味では,戦前からもともとジャパンハンドラーズに似る人物として存在したといえなくはない。
補注2)つぎの新聞全面広告は,2017年9月30日の『朝日新聞』朝刊に出稿されたもので,東京国際大学を舞台にこの広告画面の真ん中に出ている人物は,ジョセフ・ナイである。
また,この広告で左側には高村正彦が写っているが,自民党所属だったこの「政治屋」は,日本国憲法は集団的自衛権を認容していたなどといってのけ,弁護士資格をもつ国会議員としてならば,なおさらのこと途方もない詭弁を弄していた。なお現在は議員バッチを息子に世襲している。
東京国際大学(以前の国際商科大学)は,ジャパンハンドラーズを日本に頻繁に呼び,こういう行事を開催することで,自学の名声を高める努力しているらしい。だが,正直いってなんらその効果はなし。学生の納入する学費などを無駄づかいするなと,大学側に抗議する保護者が出てこないのか,不思議。
東京国際大学は,1951年創立され,1965年に大学を設置した。東京都新宿区高田馬場4丁目4番23号に本部を置く日本の私立大学であるが,主な校舎(キャンパス)の所在地は,埼玉県川越市的場北1丁目13番1号。
ちなみに,この東京国際大学の入試難易度は,2023年11月現在で「2024年度入試を予想した」偏差値は,BF~35.0 ということであって,偏差値的には惨憺たる状況。また,学部の総定員は7260名のところ充足率は92%,大学院も設置されておりその充足率は59%。
東京国際大学はあらゆる意味ですでに,不要・無用の大学になっていると評価せざるをえない。
2023年度における大学の偏差値ランキングでは全767大学中551位,私立589大学中374位。都心にまだ近い位置に立地している大学なので,まだこの程度の順位に着けているものの,大学としての実質的な存在価値はなかなかみいだしにくい。
〔記事に戻る→〕 実際,このシンクタンクが,日本の政治家や官僚を「客員研究員」や「ゲスト」として大量に招き入れ, “親米保守” “米国の利害代弁者” にとりこんでいるのは有名な話。
さらに,CSISの日本政府への影響力を象徴するのが,同研究所が定期的に発表するリチャード・リー・アーミテージ米元国務副長官とジョセフ・ナイ元米国防次官補による「アーミテージ・ナイレポート」だ。同報告書には日本の安全保障政策や諜報政策などのプロトプランが含まれており,日本政府はその提言のことごとくを実現してきた。
たとえば,2012年の第3次アーミテージ・ナイレポートでは,〈平時から戦争まで,米軍と自衛隊が全面協力するための法制化を行うべきだ〉 〈集団的自衛権の禁止は日米同盟の障害だ〉などとして,集団的自衛権の行使容認や自衛隊の活動を飛躍的に拡大させる安保法制策定が “指示” されていた。
また 〈日米間の機密情報を保護するため,防衛省の法的能力を向上させるべき〉 〈日本の防衛技術の輸出が米国の防衛産業にとって脅威となる時代ではなくなった〉などとされている部分は,読んでのとおり,安倍政権下での特定秘密保護法の成立や武器輸出三原則の見直しにつながっている。
第3次報告書では,ほかにも〈原子力発電の慎重な再開が正しく責任ある第一歩だ〉 〈女性の職場進出が増大すれば,日本のGDPはいちじるしく成長する〉などとあり,第2次安倍政権は原発再稼働政策や「女性活躍推進法」によってこうした “対日要求” を叶えてきた。
そんなところから,CSISとアーミテージ・ナイリポートが日本の政策をすべて決めているなどという陰謀論めいた見方さえ,ささやかれるようになった。(引用終わり)
「因果」ということばを使ってみたが,安倍晋三のいじめを受けていた平成天皇でさえ,とくに対米従属関係といった日本の政治における基本問題には,元来いっさい口出しすることなどできていない。この点は,父親である昭和天皇の生き様を息子の立場から観てきた平成天皇の考え方としては,絶対に自身が守るべき「天皇家にとっては越えてはいけない一線」として認識されていた。
平成天皇が日本国憲法を守ると数回にもわたり告白してきた事情の裏には,父の代から骨身に染みて自覚させられてきた「戦争責任問題」へのこだわりがある。
しかし,安倍晋三が米日安全保障関連法案を成立・施行(2016年3月下旬)させてからというもの,第9条の裏張りがあってこそ,その存在意義がみいだせていた第1条から第8条のなかには,なんらかに顕著な異常現象が発生したままである。
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