「古俗の祭天」を「明治の大典」にすり替えた明治期発祥の国家神道と皇室神道が抑圧してきた教派神道・民俗神道-過ちを繰りかえす日本会議の「国家神道」観(2)
※-1 前文-天皇の娘が伊勢神宮と神武天皇の陵基に参拝したという行為について-
本日,2024年3月29日にこの「本稿(2)」を補正し,改訂的に記述するにあたり,まず,ごく最新の皇室事情の一片に言及しておきたい。最近,現天皇徳仁の娘愛子が,つぎのような宗教(=皇室神道)的な行為を披露していた。
ひとつは,愛子が2024年3月26日,伊勢神宮に参拝したという出来事が報道されていた。
この伊勢神社はもともと,庶民のための神道神社として存在していた。ところが,現在においてはあたかも,皇室の立場から「庶民の総社」の位置を占めているかのように,日本の神社全体を代表させえた最高の神社であるかのように位置づけられている。
さらに,伊勢神宮には「祭主」といった,特別の宮司職みたいな地位が,とくに天皇の直系の子女(娘たち)が就くための神官職として,しかも彼女らのための指定席よろしく設けられている。明治以来の話題であったが。
そして今回,天皇家の特定人物:愛子が,いかにも意味ありげに「宗教的な行為」として,この伊勢神宮に参拝をおこなっていたのである。
もうひとつは,愛子が更に翌日の2024年3月27日,神武天皇陵に参拝したという報道もなされていた。こちらの天皇陵は完全に架空であって,あくまで想像上において,天皇家が祖先初代として認めたい神武天皇の陵基に,愛子が大学を卒業し,これから社会人になるという時期を区切りに,参拝に出向いたという記事であった。
以上のうち「架空・想像上の神武天皇」の陵基に参拝した愛子の衣装について,少し触れてみたい。
つぎの画像は,愛子の父母が,東日本大震災10周年追悼式のさい,まとっていた衣装に注目してほしいがために,かかげてみたものである。夫の徳仁天皇はモーニングに黒ネクタイ,妻の雅子皇后は前段に観た愛子の衣装とは若干,色あいが異なって映るが,やはり「灰色(グレー)のスリーピース」である。
参考にまでこういう指摘を聞いておこう。喪服に関する解説となる。
ちなみに,隣国の韓国における喪服事情に若干触れておきたい。
遺族の喪服は,生成りの麻製の韓国服に頭巾をかぶるのが伝統的な衣装となっている。これには儒教の考え方のなかに,両親の死は世話や誠意を十分に尽くせなかった子の罪という教えがあるからで, そのためなにも染まっていない服を着ることで,罪深さを示す意味があるという。
さて,以上のごとき「喪服史」の説明を受けてだが,「グレー(灰色)の準喪服」という衣服形態(喪服ファッション)が,皇室関係の人びとが祖先に当たるとされる人物の墓に参拝するとき着用されるという〈着こなし:ファッション〉は,それなりに礼儀面に関して,現代史的な意味をもちえ,また相応の意味も発揮しうるものと解釈してもよいかもしれない。
ここではさらに,こういう説明も聞いておく余地がある。たとえば,「略礼装(略礼服)」に関した説明は,その衣装の意味をつぎのように教えている。
以上「日本の衣服論」をわずかに探ってみたが,ともかく,架空・想像上の天皇,それも第1代の神武天皇への参拝,つまり皇室神道の祭神としてならば「最高峰の地位に着けていたこの初代天皇」の陵墓に,現在の天皇の娘が大学を卒業した,就職したといって,しかも,架空・想像上の天皇である人物の陵墓に参拝するという行為は,いったいどのような発想ないしは意向に依ったものなのか?
日本国憲法は第1条から第8条まで天皇の存在に関した条項になっているが,問題とならざるをえないのは,この天皇家の人物が,「第一章 天皇」が〈天皇の地位と主権在民〉を定めていて,こう定義していた点である。
第一条 天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。
この文章を前提に置いて考えるとしたら,皇族としては愛子1人の行為にかぎらないが,今回のごとき「伊勢神宮参拝」と「神武天皇陵基参拝」という出来事が,一筋縄ではいかない論点を示唆することは必定であった。
しかも,自明に属していたとも断定されてよいほどにも,しごく「単純な疑問」ともなるが,いまさらの感がありながらも,ここであらためて,きちんと指摘されておく問題性があった。
だいたい,皇室・皇族・天皇家が「庶民のための伊勢神宮」を,我田引水的にだったが,いかにも皇室とは相当親密に古代史からの因縁があったかのように演出・創作してみた「虚説的な扮装ぶり」は,それでも,比較的分かりやすい工夫:カラクリとして透視できていることがらであった。
ところで,神武天皇「陵基の建造地」が,橿原神宮に隣接する現在地(奈良県橿原市)に定められたのは,幕末の1863〔文久3〕年であった。
けれども,実際には「歴史上存在したことすらない《人物の墓》がある」という摩訶不思議に属した話題であったからには,当然のこと,神話物語をめぐる創作話であったという前提(仮定)をしっかり踏まえておかないことには,その話題はまともに成立させえないし,そもそも最初から相手にはされえない性質のものでもあった。
天皇家・皇族の人びとの「祖先⇒過去の天皇たちの墓」に参拝するといっても,実在する彼らならばさておき,架空・想像上の彼(ここではとくに初代神武天皇)の陵基に参拝にいくといったたぐいの行為は,天皇の子女である愛子自身が,いかにも有意であるかのように演技してそこに出向いていたにしても,もとからして,きわめて不自然というか不可解であった。
以上の指摘はなにもむずかしい解釈ではない。とくにこみいった説明も必要としない。「問題点」としてはただ,おかしいという点そのものを,すなおにオカシイと提示してみたに過ぎない。
ところで,神武天皇の陵基は畝傍山の東南麓に位置し,1890〔明治23〕年神武天皇が造営し即位した場所とする「日本書紀」の記述を基に創建されており, 第1代神武天皇とその皇后を祭神にしたという。
けれでも,実在しなかった天皇を祀った陵基に,いかなる宗教的な意味がこめられているのかという点からして,異様なまで奇怪だと形容していいのである。そもそも,そのような決め方がこの世にありえたのかという疑問が,なによりも先行して浮上しうる。このていどの理解は,特別な努力なしでもえられる簡単な理屈でえられる。ごく当たりまえの道筋に沿って発言してみただけのことである。
天皇家関係の人びとならば多分,間違いなく,絶対に会いたくなかった人物として,住井すゑという被差別部落地域出身者の女性がいた。この住井すゑが書いた本,『二十一世紀へ託す-『橋のない皮』断想-』解放出版社,1992年は,こう述べていた。
本当はいなかった神話上の創り話のなかに登場させられた神武天皇の陵基(墓)の「場所」は,以上のごとき住井すゑが指摘・批判した事情・経緯のなかで用意されていたゆえ,21世紀のいまの時代になっても,天皇一族の末裔に当たる子女の1人が,この「先祖のお墓だと決められたいた場所」にまで出向いて参拝する姿は,これを客体的・即物的に観察できる側に立っている者からすると,疑問だらけだと応えるほかなくなる。
以上のごとき事実を差して挙げただけでも,天皇や天皇制に対するまっこうからの批判になる。日本国の憲法にも規定されている皇族たちの存在は,なにかと問題含みにならざるをえない存在である事実をもって,まさしく日本政治の中核に居座る重大な政治制度だと観察するしかありえない。
「本稿(2)」の題目は,『「古俗の祭天」を「明治の大典」にすり替えた明治期発祥の国家神道と皇室神道が抑圧してきた教派神道・民俗神道-過ちを繰りかえす日本会議の「国家神道」観』という文句で表現していた。ここで,議論している「問題のありか」を再確認したうえで,こちら本論的な記述にもどり,以下の論旨を展開していく。
ここで話題は,現代日本の政治問題に戻るが,前段までの記述と齟齬あるなどと感じる必要は全然なかった点を,さきまわりして断わってもおくことにする。
なお日本会議とは,右派から極右にあたる日本の政治団体であり,日本最大の保守主義・ナショナリスト団体である,という点のみ,さきに触れておき,※-2以下の記述に入りたい。
※-2 菅野 完『日本会議の研究』扶桑社新書,2016年5月
最初として以下に引用する,この記事「出版差し止め要求に波紋…『日本会議の研究』著者が怖れていたこととは?」は,『週刊プレイボーイ』のウェブ版では,2016年5月16日11時00分(2016年6月3日 18時04分 更新)に掲載されていた(原文の引用は末尾註記から)ものである。
『日本会議の研究』の著者である菅野 完(たもつ)自身と,この本の出版に関する事情が解説されていた。
--安部内閣の閣僚の多くが,その関連組織(日本会議議連)に所属し,政策にも大きな影響を与えているとされる,保守系市民団体「日本会議」。この組織の実体に迫った一冊の本がいま,大きな注目を集めている。それが菅野 完氏の著書,『日本会議の研究』(扶桑社新書)だ。
発売前から重版が決定し,発売直後から品切れが続出。中古本市場では一時,定価の十数倍もの値段がつく一方で,出版元には「日本会議事務総長・椛島有三」の名義で,直(ただ)ちに出版の差し止めを求める申し入れ書が届くなど,当の日本会議もカンカンのご様子。まさに話題騒然だ。
渦中の菅野氏がこう語る。「こうして,この本(『日本会議の研究』)に大きな反響をいただくことは大変ありがたいことですが,実をいうと少し怖い気持もあります」と,菅野氏は現在の心境をこう話しはじめた。なにか身の危険を感じているのか?
「いえそうではなくて,私がこの本のもとになった扶桑社の情報サイト『ハーバー・ビジネス・オンライン』での連載『草の根保守の蠢動(しゅんどう)』を書き始めた当初は,『単なる陰謀論にすぎない』という見方をする人が多かったにもかかわらず,こんなに売れている」
「ですから,どういう人がどういう目的で,この本を読んでくださっているのかが,まだわからない。それが怖いというのが正直なところです」〔ということで〕,それとは逆に胸をなでおろす出来事もあったという。
「昨〔2015〕年2月から連載を始めて,週プレも含めていくつかの雑誌で日本会議に関する記事が組まれ,私と同じ問題意識をもつ人が増えていることは感じていました。しかし,その一方で新聞やTVはこの問題について沈黙を続けていた。私が参考にした資料や取材でえた情報の多くは,大手新聞の政治部記者ならしらないはずがないのに,なぜ彼らはこの問題に触れようとしないのか?」
補注)安倍晋三の思考方式が日本会議風であるという1点は,たしかな事実であった。この政治・事情を顧慮すれば,ここで菅野 完が指摘する奇妙な言論界の現象,「大手新聞の政治部記者ならしらないはずがないのに,なぜ彼らはこの問題に触れようとしないのか」という疑問は,簡単に氷解するはずである。いまは〔ひと昔当時からそうであったが〕,その程度の新聞記者たちが圧倒的な多数派である。
参考文献)マーティン・フックラー『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』双葉社,2016年。つぎはアマゾン通販の広告である。この記述を最初に書いたその後の2020年にも,ファクラーが公刊した本も出しておく。
〔記事に戻る→〕 「たったひとりで走りつづけるマラソンのように『もしかしたら自分は大きな勘違いをしているのでは?』という不安と,この1年ずっと闘いつづけてきたのです。その意味では,今〔2016〕年3月に朝日新聞が日本会議の特集記事を掲載して,『ああ,俺は間違ってなかったんだ』とホッとしました。日本会議からの『出版差し止め申し入れ』も,ある意味そうでしたが」
1年近く前,本誌が菅野氏への取材をもとに特集記事を掲載した当時は,まだ名前すら一般的にしられていなかった「日本会議」の存在。それがなぜいま,これほど注目を集めているのか?
そして安倍内閣が推進する憲法改正への動きを支える,この団体は一体どこから生まれたのか? その主要メンバーが学生運動時代から影響を受ける新興宗教団体とは。
月曜発売の『週刊プレイボーイ』22号(2016年5月16日発売)「これが憲法改正を陰で支配する『日本会議』の正体だ!!」よりでは,菅野氏へのインタビューを通じて,日本会議の正体と影響力の実態に迫っているので,是非ご覧いただきたい。
※-3「国家神道の成立とその背景」について,宮司 三輪隆裕「国家神道の成立とその背景」『青洲山王宮日吉神社』2013年1月26日が語るには
以下は,IARF世界大会が1996年に韓国円光大学で開催された折に,国家神道についての基調講演として発表したものです。その後,『中外日報』の巻頭に載せていただきました。
補注)『中外日報』http://www.chugainippoh.co.jp/ とは,日本の宗教・文化専門紙である。なお,以下の引用では若干,文書をよみやすくするために補正した。
--文中に,江戸時代の修験者数が17万人との記述があります。当時の修験者は,世俗の生活をしながら,ときに先達となって人びとを山岳に導いていました。この数字はその後,金峰山修験本宗の田中管長によってずいぶんとりあげていただき,話題となりました。
1) 国家神道の成立とその背景。
国家神道を語ることを神社関係の学者に望むことはむずかしい〔なぜなのか?〕
その原因の第1としては,国家神道の言葉そのものが占領軍による日本研究のなかから導かれたものだからといって,これを語ることを拒否する態度があります。
その原因の第2としては,国家神道の概念規定が不明確なため,神道の基本的な属性あるいは民族のエートスとしての天皇信仰の否定に踏みこむことを恐れる姿勢があります。もっとも,民族のエートスといえる〔ものが本当に国家神道にあるか〕どうかは,はなはだ疑問ですが。
私〔三輪隆裕〕は,学者ではないので,通常しられていない事実を積み重ねて新しい結論を導くようなことはできませんので,ごく常識的な歴史事実の積み重ねによって,全体の流れを説明するといった方法で,国家神道を語りたい。
最初に国家神道を規定します。明治政府の手によって作り出された,法制度的には宗教でないとみなされた「神道の制度と体系」を国家神道と呼びます。しかし,一般に国家神道と呼ばれるものは,しばしば,日本を戦争に駆り立てた狂信的な神国思想を準備したものとされます。ここでは,それに当たるものはなにかということにも注意をもちたいと思います。
明治時代は,日本の近代化をしゃにむに推進した時代でありました。したがって,前近代の特徴ともいうべき迷信的な世界観と慣習を打ちこわして,近代合理的な考え方を生活の基礎とすることを促すことが大事でした。
また,明治は,統一国家としての日本を作り上げることが格別必要とされた時代でした。したがって,国民に意識統一のためのシンボルを提供するとともに教育をおこなうことが,なによりも必要でした。
この要求を満たすための手段として作り出されたものの重要なひとつが,国家神道であります。
2)もう少し細かくみていきます。
江戸時代のなかごろから国学という学問が現われます。俗に3大人といわれる,賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤あるいは荷田春満を最初に入れて4大人というのでしょうか。
ともかくそういった人たちが,日本の古典である『古事記』や『日本書記』の研究によって,日本の固有の精神や生活,政治制度に至るまで研究し,復古思想を唱えたことが,封建制度の体制を変革する思想・イデオロギーを準備します。
ここで彼らは,現状の日本が仏教や儒教といった外国の学問に侵されて,本来の日本精神を失っていると考えます。当時の神社は,ほとんどが仏教と習合し,シンクレチズム(syncretism)ですね,神社にお坊さんが入りこんで,実権を握ったり,神社には必らずといっていいほどお寺や仏像がくっついていました。
これは当時,権現といって,仏教のなにかの仏様が日本の神様となっていらっしゃるという思想が一般的であり,それぞれの神に相当する仏が境内にまつられたり,仏教の神名,いい方が妙ですが,インドの神様の呼び名で神社を呼んだりしていました。そして,お寺には,同様に神社が一角にまつられておりました。これをその寺の鎮守といっていました。
私の神社は,江戸時代,境内にお薬師様を斎っておりました。また,山王宮と称していました。山王とは,山王権現,つまり山の霊魂が神として出現したというほどの意味です。津島神社は天王,八坂神社は祇園と呼ばれていました。祭神の須佐之男命は,仏教でいう,祇園精舎の守り神の牛頭天王と考えられていたためです。
日本では,仏教が,聖徳太子によって正式に国の宗教として認められて以来,本来の伝統宗教である神道,そして仏教以前に大陸から入った儒教とともに,さらに儒教以前に大陸から入ったと考えられる中国の民間宗教としての道教,占いや呪い,そして仙人思想をもっている道教を合わせ,それらが,1千年以上の長い間に渡ってさまざまに習合してきたのです。
補注)筆者の住む〇〇市にも寺社がたくさんあるが,そのなかにはお寺のすぐ横に小さい神社がくっついているかたちで存在(共生)している寺院と神社もみかける。
〔記事に戻る→〕 江戸時代の民間の宗教的エートスはどんなものであったでしょうか? 私はよくイメージが湧かないのですが,少なくとも神主が主役でなかったのは事実でしょう。仏教はご承知のとおり,江戸幕府の手で戸籍管理を任され,檀家制度を整備しますので,大変強い力をもっていました。
しかし,民衆の宗教的な情念は,私は,山岳信仰・修験に強かったのではないかと思っています。呪術・占い・修行による超能力の獲得,霊界との交流,こういったことを内容とする修験は,明治政府にとって近代化を妨げる迷信の源と見做されたのではないでしょうか。
修験宗は明治になって政府の命令により廃止されますが,これは逆に,修験が民間信仰のなかでいかに勢力をもっていたかの証ではないかと思います。この当時,修験の先達は17万人いたといいます。現在神職が1万2千人,お坊さんの数も,神職の数と大差ないはずですので修験者の多さが理解できます。
3) 国学は,文献によって,学問を成立させましたので,現実妥当性の薄い結論を導きます。
当初,倒幕は,国学が提唱した,尊皇つまり天皇への敬愛と攘夷つまり異物の排除という二大思想に貫かれていましたが,結局,明治政府は,開国という近代化の道を選択しました。しかし,攘夷の思想はその後,臥薪嘗胆,あるいは和魂洋才となって,最後は,日本がアジアの盟主となって西洋文明と対決するという思想に結びついていきます。
一方の,尊皇については,藩ごとにわかれていた日本を統一国家とするために,天皇を国の中心に据え,その意味では,尊皇は達成されましたが,国学者の説いた王政復古は達成されず,王道政治ではなく,近代的な法治国家の国家元首としての天皇の名による官僚政治が始まりました。
しかし,思想としての王道論(皇道論)は,現在もなお神社界や右翼の思想に根強く存在しており,この王道政治と現実の法治との矛盾や意識のズレが,大東亜戦争に入っていく日本政府の無責任体制を作り上げたと考えられます。
補注)いまは亡き安倍晋三君が一時期,よく口にしていた「戦後レジームの否定・脱却」とはどうやら,明治期への回帰を願っていたものらしい。だが,21世紀の現段階になってもなお,アメリカ国への従属体制にどっぷりはまりこんでいるままの日本国が,それも「ペリー開国」当時の日本に向かい戻れるわけがなかった。実に愚かな発想であった。
在日米軍基地をただちにすべて撤去できなければ,安倍晋三君のいう「戦後レジームからの脱却」は,これから何十年が経ってもとうてい不可能事である。いまから,戦前の時代にこの国を戻せるわけはもともとないにもかかわらず,その空想を,口先だけといえ大声で「本気で唱えられた」度胸だけは買えるが……。
沖縄県にある米軍基地,とくに普天間基地を名護市の辺野古地区へ(海岸地区の梅埋め立て工事もおこなっている)移転させる問題は,計画の立案からはじまって現在は工事中である。
この工事に関連する手続やその進捗状態をめぐっては,以前の段階ではその工期は約9年3か月かかるとされたけれども,その移設完了までには,代替施設の認証作業などの手続きを経て12年程度を要するみこみだと説明されてもいた。
しかし,10年単位の工事日程で区切って,辺野古地区にその新しい米軍用の基地が,本当に竣工できるかどうか疑問が大きい。そんなこんな状況が続いていくうちに,安倍晋三が唱えた「戦後レジームからの脱却」が雲散霧消させられていたどころか,最初から筋の悪い妄想的な政治標語に過ぎなかった事実であっただけはより明快になっていた。
〔記事に戻る→〕 ここで,神社を管理する組織の変遷を考えてみます。当初,神武天皇創業の昔に帰るとして考えられた王政復古は,具体的に,明治元〔1868〕年,世俗政治を司る太政官と並び,神祇官を設置することから始まりました。
しかし,明治4〔1871〕年には神祇省に格下げされ,明治5年には教部省となり,明治10〔1877〕年には,内務省社寺局となり,明治33〔1900〕年,社寺局を神社局と宗務局に分離し,宗務局はのちに文部省に移管されます。
すなわち,どんどん組織が,世俗政治の組織に比べ,縮小し,下位におかれるとともに,神社は,宗教と分離され,内務省の管理下におかれていくことが判ります。
明治政府は当初,神祇政策として,祭政一致・神仏分離・大教宣布を大きな国策としましたが,それらの国策を進言した神道の活動家達は,明治3〔1870〕年には政府中枢と対立し,しだいに追放されたり,地方へ追いやられたりします。[王政復古の大号令]を起草した玉松 操や矢野玄道,角田忠行などがその例です。
祭政一致は文字どおり,神祇官と太政官を対等のものとする考え方ですが,近代国家に妥当するはずがありません。神仏分離はすでに幕末,神儒習合神道と復古神道の流行により,薩摩・水戸・岡山の諸藩では排仏がおこなわれ,明治元年,神仏分離令が発せられるとともに,神社より仏教色を廃する排仏棄釈の運動が起こりました。
宮中の祭祀も仏式から神道に変わりました。しかし,当然,仏教側から反発が起こり,とくに,長州の討幕派へ資金援助をした真宗西本願寺からの反対に考慮し,わずか数カ月後に太政官は排仏を犯罪と見做す告示を致します。また,別当職の還俗も認められました。
大教宣布は,三条の教憲
1 敬神愛国の旨を体すべきこと,
2 天理人道を明にすべきこと,
3 皇上を奉戴し朝旨を遵守すべきこと
にもとづき,天皇が国の中心であり,日本は神の国であることを判りやすく国民に教育する運動ですが,これは,当初,国学者や儒者,神主によりおこなわれ,のちに仏教界の希望により僧侶をも動員しておこなわれようとしますが,遠からず無理であることが判明します。
その後,このような国民教育は,学制の制定とともに,教育勅語と小学校初等教育のなかでおこなわれるようになります(明治2年は1869年)。
明治2年 宣教使の職制を定める。明治3年大教宣布の詔勅。
明治5年 教部省設置と三条教憲設定,仏教参加。
明治8年 神道事務局設置,明治9年黒住教,神道修成派の独立。
明治15年 神官教導職分離,神官の葬儀関与を停止。
神宮教,出雲大社教,扶桑教,実行教,神道大成教,
神習教が独立。
明治17年 神仏教導職の廃止。神道大教,御嵩教,金光教,天理教 をくわえ,神道十三派という。
明治2〔1869〕年には社寺領の上知命令が出され,神社を国家の宗祀として神宮以下神社の世襲を廃し,神社の社格制度を定めます。また明治3〔1870〕年,氏子仮改め制度の新設がおこなわれ,氏子守り札が明治4〔1871〕年より実施されます。明治6〔1873〕年には廃止され,近代的な戸籍制度が成立します。
仏教の大教宣布参加に功績のあった真宗僧侶の島地黙雷は渡欧し,各地の宗教事情を視察し,明治6年に帰国ののち,政教分離・信教自由の論を立てます。このとき島地は,建白書のなかで「神道は皇室の治教,惟神の道であって,宗教ではない」とします。
この説は,明治の開明派の政府要人の考えと相通ずるものであり,結局,明治政府は神道を宗教より独立させ,国家の宗祀として内務省の管轄下にて制度化することは,先に述べたとおりです。
明治10〔1877〕年前後の佐賀の乱・神風連の乱を経て,西南の役にいたるあいだに熱烈な復古主義者は排され,明治12〔1879〕年には「府県社以下祀官祀掌の等級を廃し,身分取扱は一寺住職同様たるべし」との太政官通達が出されます。
すなわち,官国幣社と府県社以下はここで,確実に分離されていくのです。明治17〔1884〕年には神官の宗教的行為が禁止されます。しかし,府県社以下の神官の葬儀関与などは黙認されていきます。
4)ここで,神道事務局神殿に奉斎する祭神の論争について触れておきます。
明治12〔1879〕年,神道事務局の神殿に幽世の主祭神出雲の大国主神を合祀するかどうかで神道界に大論争が起こりました。当時は,神官が神道を国の宗教として認めさせようとしていたことが,それで解ります。この後,神道のセクト的分裂を避け,神道を非宗教として祭政一致の国是を守ろうとする考えの神道家も出てきます。丸山作楽がその例です。
明治15〔1882〕年に教導職から分離された神官は,宗教活動を禁じられます。さらに,明治19〔1886〕年の神社改正案では,神宮と靖国神社を除く官国幣社への資金援助を,10年をもって打ち切るとされます。
これは,神社を非宗教とする一方,政教分離の合理思想にもとづいて神社と国家をしだいに分離していこうとする考えを示します。これは,明治天皇によって15年に延長され,さらに神官の運動によって,のちに資金援助が少額とはいえ,続けられることになります。
明治23〔1890〕年の帝国憲法制定とその後の教育勅語の発布は,明治の近代国家のひとつの完成をみることになりますが,神社の問題は,引きつづきこの国の喉に引っかかった骨のようなモノでした。
神官達は国家の宗祀とされた神社が,社寺局として寺院と同じ扱いを受けるのは間違いであり,明治の始めに戻り,神祇官を再興させるべく,広範な運動を明治20年代に起こします。
明治33〔1990〕年,神社局を作ることにより,この問題はいちおうの決着をみます。しかし,熱田神宮の宮司が,県の課長にふんぞりかえられるほど神官の権威はありませんでした。政府はひたすら「神社の非宗教化」と「神官の公務員化」と「神社の形骸化」を促進します。
明治39〔1906〕年内務省は悪名高い神社合祀令を出します。当時19万余あった神社は,明治42〔1909〕年までに4万3千の神社が合祀によってなくなります。この後も合祀が続き,最終的には昭和13年で11万社です。たとえば三重県では714社となります。
しかし,愛知県は3521社,新潟県は5366社,こういった県は合祀が住民の反対でうまく進まなかった県です。和歌山は473社,南方熊楠が反対したわけが解ります。なお,現在,宗教法人格をもつ神社は8万2千,内2千は単立〔の神社〕です。
官僚は神道を国家の礼典と解し,神社を歴史的な偉人の記念堂のようなものと解し,神官の思想的な表明を禁止し,政教分離の近代国家を作ることに熱心でした。しかし,祭政一致になる明治の建国思想より演繹される国体観念は,公教育や教育勅語の渙発によって全国民的な常識となった。
だが,それは結果として,社会の経済的な窮乏と腐敗により,在野の狂信的な神道思想を胚胎させることとなります。多くの昭和初期のテロ事件の実行者が “こうした神国思想,皇道思想の持主” でありました。
5)以上みてきたように,戦前の日本の国家神道と一般に呼ばれるものは,単に神社の制度や組織の問題ではなく,国家そのものに成立当初から存在していた観念が,とくに公教育を通じて国民に徹底され,作り上げられたエートスであったといえましょう。
大日本帝国は近代合理主義の制度と組織をもちながら,神勅による皇位を絶対のものとする天皇を中心に立てたことにより,けっして民主国家になることはできず,唯我独尊的な神国思想に走り,西洋流の植民地主義と日本流の同化支配によって,アジアの国々をあるいは併合し,あるいは間接支配しながらアジア諸民族のリーダーとなり,たまたま同盟国となったドイツとイタリアを除く西洋列強に戦いを挑む道を選択したのです。
その時代は和魂洋才といいながら,日本に伝統的な,多様性を尊び,異質なものを柔軟に受け入れるよさを忘れ,発想も西洋的な絶対的な考えに走り,ついには激突してしまったのではないでしょうか。
神道の立場からみれば,本来宗教で有るべきものが,なりゆきで宗教でないことになり,神社や神道の本来有している生き生きとした生命力が損なわれ,政治的に利用された,不遇な時代であったといえましょう。しかし,一般に当時の神官のガリガリの復古主義,あるいはことなかれ主義にはみるべきものはありません。宗教者として他に進むべき道があったように思います。
しかしなお,現在の神社界の指導者のなかには,戦前の国家管理時代への郷愁がみえるのは残念でなりません。
【以上 1996,4,26(韓国におけるIARE世界大会の講演原稿)】
註記)http://hiyoshikami.jp/hiyoshiblog/?p=66
--あの安倍晋三の第2次政権における国家宗教思想的な背景には,ここまで話題にしてきた日本会議が控えていた。このことは明々白々の事実であった。民主主義とは無縁の「政治感覚」しかもちあわせない自民党議員(〔旧〕民進党に同類はいくらでもいるが)たちに,はたして,この国のまつりごと(政)にたずさわる資格があったのか?
盛んに「戦後レジームからの脱却」を力説してきた安倍晋三君ではあった。けれども,賊軍神社になり下がった靖国神社(明治期に確立した国営神社であったが,いま一宗教法人)に参拝することの「歴史的に堕落・腐敗した意味」を,彼に理解しろといってもとうてい無理であった。
この日本国の元首相は,明治以来の「歴史(日本史)にあれこれとたくさん無知なまま」に,しかも21世紀における現実の政治にたずさわっていながら「戦後レジームからの脱却」だけを,念仏のように唱えていた。
「世襲3代目の政治屋」であった彼の姿そのものにおいてこそ,実際によく反映されてきた「この国の不幸・不運」(「アベノポリティックス」+「アベノミクス」=「アホノミクス」)は,末恐ろしくなるほどに程度が悪かった。
『それら』には,政治の理解(知識・情報)に関して最初から,そもそもの問題があった。それだけでなく,政治の理念(哲学・信条)においてとなるや,そもそも低水準(どだい品性・品格が基本から欠落していたこと)であった事実にも呼応したかたちをとって,彼の為政は低品質と粗雑さをきわだたせるほかなくなっていた。
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