大東亜戦争時代の記憶を健忘症的に喪失するわけにはいかない「学問の歴史」
※-1「大東亜戦争の記憶」が太平洋戦争と呼称されたからといっていつの間にか昇華し消滅することはなかった「戦時期学問史」の回想
本ブログは前日(2025年1月13日と14日なるが)「社会科学の戦争責任」とでも捕捉したらよい話題をとりあげ議論してみた。主に「経済学や経営学の学問領域において」「戦争と平和」にまたがるほかない社会科学研究が究明すべきであった諸論点を,その具体的な研究者の作品を俎上に上げ,あれこれ批判に徹する論究を試みた。
本日のこの記述は,政治学の分野・領域における研究業績から,たまたま本ブログ筆者が読了できた作品をもちだし,以下の記述をおこなうことにしたい。
▲ 大塚 桂『大東亜戦争期の政治学』成文堂,2007年をめぐる前論的な言及 ▲
a) 冒頭「大東亜戦争」とは,旧日本帝国が昭和16〔1941〕年12月8日にはじめた「戦争の正式名称」である。この大東亜戦争という呼び方は,その日に真珠湾攻撃を決行した日本の当時内閣の命名になるものである。また,戦後になってからは,戦勝国側が太平洋戦争と呼ぶ名称を日本側も使うことにしていた。
真珠湾への奇襲攻撃を「大成功させ大戦果を挙げた」日本は,当時の東條英機内閣が1941年12月12日,アメリカ合衆国に対するその急襲作戦を実現させてから4日が経過した時点で,閣議決定したその呼称「大東亜戦争」を公式に発表した。
だが,1945年8月15日(9月2日)に迎えた日本敗戦を契機に,それもとくにアメリカ側の「日本占領政策」の一環とされた「戦争犯罪を刷りこむ政策」(war guilt program)によって,日本人たちがまるで「GHQに洗脳された」「すなおな敗戦国民」になりえたかのような世相が,それも一挙に強く形成されはじめた。
GHQ側は,「大東亜戦争」ではなく「太平洋戦争」という表現を,敗戦後の日本国民たちに向け,ただ強く押しつけるのではなく,巧妙に教えこんだのである。それに,そもそも大東亜戦争という呼称は,敗戦によってGHQ命令で使用が禁止されていた。
要は「太平洋戦争」というのは,どこまでも「アメリカ絶対中心(ファースト)」になるあの大戦争の呼び方であった。
b) 日本が中国との戦争は「泥沼の戦争」といわれるように,いつまでもズルズルと継続するほかない状態が続いていた。日本軍側は実質,「点と線の支配」しかできなかった展開をたどってきた。こちらの戦線に動員・配置された日本兵の総数は大人数であったにもかかわらず,大東亜戦争と呼ばない場合は,つぎのような戦争史の事実を故意に軽視させる。
ということなので,ここでは「日中戦争」『ジャパンナレッジ』 という解説から,つぎの段落を引用する。
c) さて,日本側の識者のなかからはたとえば,あのネトウヨ界の「戦闘美熟女」だ(精神科医:斎藤 環の命名)と表現された櫻井よしこが,『GHQ作成の情報処理書「眞相箱」の呪縛と解く』小学館,2002年を執筆し,つぎのように訴えた。
櫻井よしこのいいぶん,しかもその極度に一方的であった主張は,そうなると「大日本帝国」がかつての大東亜共栄圏の占領・支配地域において,前段のごと侵略戦争など全然していなかったかのように聞こえる言辞を弄していた。こうなると,もう完全に味噌クソのそのまた以前の,議論になりえない議論のたぐいと,なりはてていた。
1945年までの旧日帝は,占領・支配地域での統治・収奪を徹底的に実行するという,それも民主主義とは完全に無縁であった日本帝国主義の「悪の正義ぶり」を実践してきたが,これにはいっさい触れようとはしない1枚看板を前面にかかげて執拗にまくし立てていた,櫻井よしこの発言は醜悪そのものに映っていた。
d) ところで,大東亜戦争中,大東亜共栄圏に入れられていたはずのベトナムでは,戦争末期につぎのような悲惨な事態が発生させられていた。『しんぶん赤旗』2005年4月14日が「日本占領下,ベトナムで200万人が餓死」という解説記事を載せて,その事件を説明していた。
ここで,櫻井よしこの話に戻る。
e) 旧大日本帝国が「目くそ」だったとしたら,いまはこの日本に対して実質的に総督府を置いている現状の米帝国,「それも大きな鼻くそ」が1945年の夏(以降),敗戦させた当時の日本をそのようにたぶらかした事実を,櫻井よしこは,非常にきびしく糾弾する口調で語っていた。
しかしそうであるならば,アメリカに対して「戦勝国だからという理由でその残虐な行為が,正当化されることがあってはならないのだ」(櫻井,前掲書,371頁)という指摘そじたいに,なんら間違いはありえなかったのだから,
この批判の論法がさらには,「戦敗国になったという理由で,それまで旧日本軍が植民地や支配地域や戦地においてさんざん重ねてきた残虐な行為が,正当化されることがあってはならない」ことの議論から外されてはなるまい。
櫻井よしこが説くところは,くやしさのあまりにだったのか,そのような自身の側だけからの批判を,ただ一方的に相手側に投弾する方式での話法になっていた。
ところがとても残念なことは,その言説のすべてがブーメラン化する現象を生じさせていた事実を,ここでは強調しておかねばなるまい。しかしそうはいっても,よしこ自身は「自分の側の目くそ」の存在については,その目くそじたいが邪魔になってでもいたらしく,どうしても自身の立場のほうは客体視できていなかった。
f) 結局,ジョン・G・ロバーツ&グレン・デイビス,森山尚美訳『軍隊なき占領-戦後日本を操った謎の男-』講談社,2003年(初版は新潮社,1996年)とも形容された「敗戦後日本の実相に関した一断面」は,
櫻井よしこが地団駄踏んだかのようにして,いらだちながら批難した「敗戦後における占領軍の日本人に対する洗脳工作(ウォー・ギルト・プログラム)」であったとしても,
ジョン・ダワー,三浦陽一・高杉忠明訳『敗北を抱きしめて』(上・下巻,岩波書店,2001年)と題したこの本に,その姿としてに映ったような敗戦国日本の人民たちの精神構造を醸成していくのには事実として,相当に役立っていた。
たとえば,さらに文献を挙げていえば,賀茂道子『ウォー・ギルト・プログラム-GHQ情報教育政策の実像-』法政大学出版局,2018年が解明したごとき成果を生んだ〈占領政策の実践〉という事実そのものを,櫻井よしこは歯ぎしりをするかのような形相で真っ向から攻撃していたわけである。
g) このよしこの批判そのものがとりあげていた「敗戦後日本の側面哀史」は,事実に関する解明にかかわる現代史の実相でもあっただけに,その指摘・批判そのものかぎっては,傾聴に値する問題提起がないわけではなかった。
しかし,その問題提起が明確になればなるほど,その批判の口調がきわまればきわまるほど,それでは「旧大日本帝国は侵略戦争で支配地域にした国々や地域」で,いったいどのような「占領・統治政策」を樹立・実行していたのかについても,同時にまた,彼女がなにかを書いて究明し,日本側の立場からなんらかの分析や批判を,つまり比較政治的に解明・研究をしてきたかといえば,こちらはさっぱりでナッシングであった。
h) 以上の事実をもって判断するとしたら,彼女のいいぶんはだいぶ割引してからでないと,そう簡単にはそのまま「はい,そうですね,お説もっともでした」という具合にはいかない。彼女の書く文書はあまりにも偏向していたがゆえに,付和雷同的に和してくれる味方(ファン)以外からは,ハナから反発を買うだけでなく,その主張をすなおに聞いてもらえる条件を備えていなかった。
櫻井よしこの種の論法というよりはその口調(語り口)は,戦争中の愛国婦人会や大日本国防婦人会の「会長の座に就いている女史」を彷彿させることはできても,それ以上の含意は汲みとりにくかった。
以上,本日(2025年1月13日)の記述全体に対して前論となる記述を,あらためて書き下ろしてみた。つぎに,本論の段落に入ることにしたい。
※-2 大塚 桂(駒澤大学法学部教授)著『大東亜戦争期の政治学』成文堂,2007年11月を読んだ所感
大塚 桂の本書は要するに,「戦後政治学界は,対東南アジアへの謝罪の意識からスタートしたのではなく,西欧の自由主義ならびに民主主義への敗北感からスタートした。ここに問題の一端がある」という著作であった。
「東亜主義がいまもってあやまつことのない原理であるとの認識を有するのであれば,昭和前期にあって展開した大東亜共栄圏理論の反省,ならびに総括をきっちりとしておくべきだ」といっていた(同書,344頁)。
昭和20〔1945〕年8月15日の日本敗戦は(正確にいえば戦争が正式に終わったのは,9月に入ってからの日付「その2日」になるのだが),当時まで学問の世界で展開されてきた理論とその思想を,全面的に否定する契機を提供した。
しかしながら,日本のあらゆる学界において戦争中に高揚されていた「戦争協力の理論展開」が,21世紀のいままで十全に反省され,批判され,みなおされた,といえるような「その後の経過」にはなっていなかった。
1) 戦時体制期における日本の政治学
日本の政治学界の場合,ようやく2007年にもなってだが,この大塚 桂の執筆になる『大東亜戦争期の政治学』という著作が,日本の政治学の戦責問題を本格的に問う業績として公表された。いわば「戦争政治学」とも称すべき「戦時体制期の政治学」を,大塚はこう総括していた(332-339頁)。
▲-1「日本主義政治学の成立」
a) 時期的には,昭和16〔1941〕年から展開していく。
b) 言論統制・思想統制と無関係ではない。
c) 大正デモクラシー時代の思潮(自由主義,民主主義,社会主義思想)が後退し,それに代わって日本主義が台頭してきた。
▲-2「日本主義的政治学の理論構造」
a) 対内的契機 - イ) 国学思想ならびに水戸学説流の主張,
ロ) 政府見解のアポロギー的性質,
ハ) 日本民族の優位を主張,
ニ) 翼賛体制の確立に呼応,
ホ) 強力な内閣の成立を具体的に提唱,
ヘ) ナチス国家思想の影響を色濃く受ける。
b) 対外的契機 - イ) 反英米帝国主義の傾向,
ロ) 大東亜主義の確立を標榜。
大塚は,以上の総括な認識を受けて,こうも批評した。
「戦争時期には,政治学は停滞していたかのような理解は正しくない。言論統制,思想弾圧という制約下にあって,日本主義政治学という実践性を有した諸業績が生み出されていたのは事実である。日本主義政治学の展開は,確実にみられた」(339頁)。
こうした総括がなされた「戦時期日本の政治学」は,世界に向かって「日本を主人公とする大東亜共栄圏思想」を高唱してきたはずである。しかし,戦争の時代が終わるや一挙に,その提唱を撤回したかのような変遷をたどった。この国の政治学は,はたしてさらなるその後の展開模様は,どうなっていったのか?
2) 戦時体制期における日本の政治指導者
東京裁判〔極東国際軍事裁判〕は,連合軍それもアメリカを主とした欧米諸国が,日本帝国の戦争責任を,いわゆる「A級戦犯」の存在に絞りこんで裁く法廷であった。
しかし,最大・最高の責任者であった昭和天皇は,うまい具合に責任を逃れることができ,東京裁判の証人台に立たされることはなかった。この事実は,アメリカが戦後においていかに世界を支配していくか,東アジアにおいて当面いかに影響力を維持するかに戦略の視点を向けていた,という時代背景のなかで生起したものである。
第2次大戦以前から日本帝国が起こしてきた「満州事変」,日中戦争(「支那事変」),そして大東亜戦争への道筋は,先進帝国主義諸国に対する,後進帝国主義「日本」の背伸びをした大胆な挑戦であった。
その勝敗の結末は,旧日帝の無理さ加減をみごとに実証した。米日間の生産力=経済力=戦争遂行力の差が「10~20対1」であったことは,当時すでに,ある程度の学識がある人たちは知悉していたのであるが……。
時代が太平洋戦争にまで突きすすんだとき,日本帝国首相東條英機は,こういってのけた。「清水の舞台から目をつぶって飛び降りる気持で戦争をはじめた」と。
親子2代にわたり「軍人として能吏であったと評判」の東條家の父子のうち,この息子のほうは,もしかしたら「孫子の兵法」をしらなかったし,また,クラゼビッツの『戦争論』をひもといたことがなかったか,と思わせかねない発言を記録していた。
3) 戦争中の日本の政治学者
話を日本の政治学にもどす。戦争の時代における日本の政治学者たちも実は,日本帝国の戦勝を信じる,というよりも「戦いに勝つための学問」を推進していた。しかしそれは,学者本来の道を踏み外すほかない立場を意味した。とはいえ,戦争中はそうした学問路線こそ,国家に認証された「正しい」方途を歩むものと堅く信じられていた。
さて,大塚 桂『大東亜戦争期の政治学』は,戦争政治学の理論展開にかかわった数多くの学者たちをとりあげ,分析・考察している(同書,目次参照。〔 〕補足は筆者の修正)。
①「日本主義社会学」-民族論,高田保馬,小松堅太郎,関 栄吉,松本潤一郎。
②「日本主義哲学」-京都学派,西田幾太〔多〕郎,和辻哲郎,高山岩男,高坂正顕,鈴木成高,西谷啓治,務台理作,紀平正美,鹿子木員信。
③「日本主義経済学」-高田保馬,土方成美,難波田春夫,土屋喬雄。
④「日本主義法学」-日本法理研究会,牧 健二,牧野英一,大西芳雄,小野清一郎,細川亀市,大谷美隆,佐藤清勝,中島 重,木村亀二,筧 克彦,中野登美雄。
⑤「日本主義政治学」-藤沢親雄,大串兎代夫。
⑤-1「国体学」-田中智学,里見岸雄。
⑤-2「アカデミズムの変容」-学界動向,佐治謙譲,村瀬武比古,五来欣造,蓑田胸喜,作田荘一。
⑤-3「戦争と政治学者」-蝋山政道,今中次麿,戸沢鉄彦,黒田 寛,鈴木安蔵,内田繁隆,田村徳治,吉富重夫,中島 重,平野義太郎,新明正道,岩崎卯一,矢部貞治,牧 健二,池田 栄,鵜沢総明,細川亀市,猪俣英夫,水谷吉蔵,五十嵐豊作,神川彦松。
⑤-4「政治学者の良心」-南原 繁,堀 豊彦,原田 鋼,横田喜三郎。
以上のなかで唯一,⑤-4の政治学者が,戦争と学問のあいだで問われるべき問題意識と緊張感をもって「良心の一端を示した」(321頁)に過ぎない。あとの学者たちはすべて「軍艦マーチ」に乗って「イケイケドンドン」の,戦争を謳歌,応援する学問をぶちあげていた。
それも,戦前においてはごくふつうのマジメな学者だった人たちが,戦中:戦時になると掌をかえしたように「戦争推進」を積極的に支持し,「翼賛体制」に喜々とくわわる学問(そうみえた!)を展示したのである。
まあいってみれば,人間の気持なんていうものは,たやすく移ろうものである。それに戦後になると彼らは,またもや百八十度転回し,民主主義と自由にもとづく学問を披露することになるのだから(正気にもどったか!),それこそ目が回るような「理論の転回」というか,そうでなければ,それはただに一種の空回りにもみえてくる。
4) 戦時体制期における日本の経営学 と 21世紀における経営哲学論
筆者は経営学を専攻してきた体験を有するゆえ,いまからちょうど80年前の1945年,旧大日本帝国が敗北したとき以来,それまでに経営学の専攻分野では,経営学者たちがどのように,いうなれば「経営学の立場」からかかわってきたはずの「戦争責任」の問題に対してだが,その後における「学問の立場」を,自分自身の立場から「どのようにあつかってきたのか」という論点にとくに関心があった。
いってみれば「経営学界ないしは経営学者の戦争責任問題」に関して,斯学界に属する学究たちが,敗戦以後においてその「戦争経営学」性を,いかほど意識しえ,その後始末というか総括をなしたという重要な論点が,実在していたはずであった。
しかしながら,その種の問題意識を抱いて「戦時経営学」とも指称してよい論点が,その問題の対象に向かい,しかも「まとまって研究」をおこなった類書の公表は,ほとんどなかった。これからもおそらくは出てこないものと予測するが,このような展望は外れてほしいものである。
そうした21世紀までの学界事情が持続させられてきたせいか,戦時中のドイツの場合だと,「ナチス理論を応用してきた経営学界の歴史的事実」にも無知のまま,これを21世紀における経営哲学論の中枢において利用できると誤断,というよりも,基本から研究不足とみられるほかなかった著作まで公刊する学究まで登場する始末になってもいた。
その実例は,小笠原英司『経営哲学研究序説―経営学的経営哲学の構想-』文眞堂,2004年という著作の公刊をもって,もっとも典型的に具現されていた。同書について筆者は,B6サイズの本にしたとしたら多分,200頁以上の総量にもなったかもしれない批判論文を書き,徹底的に分析し,批判もくわえた。
補注)その記述は本ブログ内ではつぎのものである。この記述以外にも数編あるが,あえて挙げない。この記述は連続モノであり,問題点をたっぷりとりあげ批判的に究明している。
ところで,その『経営哲学研究序説』を上梓した著者は,東京は神田の駿河台にある有名な私立大学経営学部で「経営哲学」という講義を,担当していた教授であった。
その教授はこの『経営哲学研究序説』の刊行を契機に,いわば出版祝賀会的な意図がこめられていたのだが,本書を大々的にとりあげてくれた「経営哲学学会」大会のあるシンポジウムの場で,前段で触れたような『同書のなかで明白に表現されていた「ナチス理論の応用部分」〔それも未消化と評価され,こなれのあまりよくない主張〕』には,いっさい触れない講演をおこなっていた。
こうした講演の特徴,すなわち,その『経営哲学研究序説』の全体を的確に反映させない,その理論構想のなかでも非常に大事な部分をはしょったうえでおこなった研究発表の内容は明らかに,筆者が彼の所説を全面的に分析をし,批判を送ってみた「批判論文」(の核心)を配慮せざるをえなくなったがために生じたものである。
その事実はいってみれば,社会科学者としての立場から「正式の声明なき自説の一部撤回を意味した」がゆえ,たいそう不可解な対応になっていたことは,指摘するまでもない。
筆者も出席したその学会大会のシンポジウムのあと,つづいて夕刻からもたれた懇親会の席においてだったが,日本で最大規模を誇る大学の経済学部産業経営学科に所属するある経営学の先生(I・Mさん)が,私のそばにきて,こういう趣旨のことばをささやいた。
「× × 先生〔筆者のこと〕,今日の講演では○○先生(『経営哲学研究序説』の著者)は,ゴットル--ナチスに悪用された学説の代表格で生活経済学者。Friedrich von Gottl=Ottlilienfeld とその姓名を綴るが,略してゴットルと呼称--のところを,全部抜いて話してましたね」。
ここでいう「抜いたという話」のその部分とは,前述のとおり,「戦争の時代」に幅を利かせていた「国家全体主義的な経営学・経済学」に,直接関連する問題領域「一括・一式」を意味していた。
「戦争を知らない世代」だからといっても,いまもなおまさに世界のどこかで,刻一刻と刻まれている「戦争の歴史」の進行状況を念頭におくならば,『戦争の時代=過去』に展開された極論的・狂信的なファシズム的理論の根っこに少しも気づかないまま,うかつにもそれがいとも簡単に現代的に再利用できると誤認した学問の営為は,筆者にいわせれば,本当に「戦慄するほど恐ろしい」のである。
補注)2022年2月24日に「プーチンのロシア」が開始したウクライナへの侵略戦争に関していうと,「ロシアのプーチン」が独自に説く「その戦争の正当性」を支える理屈は,ロシアの地政学やロシア正教や帝政的伝統などがごった煮状態となって,他国のわれわれにはとうてい理解不能の「ド・屁理屈」の開陳になっていた。
プーチンの頭のなかは旧KGB的な思考回路しか通じておらず,ロシアがウクライナを占有・統合するのは自国の大昔からの歴史的な義務だ,みたいな狂気の沙汰が前面に押し出される論法になっていた。
学問・研究の世界には「専門▽▽」という表現がある。学者が本当に専門を究めた勉強をしているならば,このような修辞は,わずかも使われる余地はあるまい。ところが,往々にしてこの表現を当てはめてみたくなる人物が出現する。
そういえば大塚 桂先生,著書『大東亜戦争期の政治学』において,世界的にも有名な日本を代表する哲学者:西田幾多郎の氏名を全部,西田幾太郎と誤記していた(目次8頁,本文58・60・329頁など)。大学の先生としては,ちょっとまずいミス。日本哲学史の研究者がその活字をみたら,人にもよるが「激怒する」のではないか?
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