
戦争と学問-戦時体制下,経済学の理論営為は「戦争の時代における学問・理論を発展させえたか」(その2)
【断わり】 「本稿(その2)」の前編は,つぎのリンク先である。できれば,こちらをさきに読んでもらえれば好都合である。
※-5 軍事と政治と経済
1) 山本勝市「計画経済論」の研究
a) 本ブログ・前編の「本稿(1)」に出てきた「秋丸機関」には,主計中尉の軍服を着た京都帝国大学経済学部教授柴田 敬の姿があった(牧野邦昭『戦時下の経済学者』中央公論新社,2010年6月,28頁)。この柴田については後段で言及することなるので,そちらの段落であらためて議論することにし,まずつぎの記述から始めたい。
太平洋(大東亜)戦争が開始される以前であったが,第2次大戦が勃発した直後に登場していた秋丸機関(あきまるきかん)について,その簡単な概要を説明しておく。
秋丸機関とは1939年9月,日本の陸軍省経理局内に設立された研究組織であり,正式名称を「陸軍省戦争経済研究班」と名乗った。旧大日本帝国はその同年〔昭和14年〕9月1日,ドイツがポーランドに侵攻した大事件を契機に,現代総力戦を経済面から研究するために設立された。
その1939年の5月から9月にかけてであったが,旧「満洲国」とモンゴル人民共和国(ソ連の傀儡国家)の国境付近で発生し,日ソ両軍の軍事衝突にまで発展した。この事件は,ノモンハン戦争(通常は事件と呼ぶ)として日本の歴史には記録されてきた。
前出の秋丸機関は,有沢広巳ら一流の経済学者を擁する陸軍の頭脳集団としてしられ,太平洋(大東亜)戦争開戦直前の1941年7月,英米戦の勝算について「勝ち目なし」とする報告書をまとめた。
ところが,その報告書は「国策に反する」という理由で軍上層部によって握りつぶされ,廃棄を命じられたと,従来理解されていた。これについて,摂南大学准教授牧野邦昭の研究調査が(前掲,牧野邦昭『戦時下の経済学者』2010年),その通説を誤りだと指摘した。
補注)牧野邦昭は現在,慶應義塾大学経済学部教授。
要するに,牧野邦昭『戦時下の経済学者』は,旧陸軍省経理局内に設立された研究組織,その正式名称を「陸軍省戦争経済研究班」と称した秋丸機関のその報告書をめぐって,わが国は「戦争したら必敗する」という結論を出したがために,軍上層部が「国策に反する」という理由をもって「廃棄しておいた」,と「従来理解されてきた事実」に対して,根本から疑義を提起する議論をおこなった。
とはいえ,その報告書の内容は当初報道・公表されており,作成直後には廃棄されていなかった。のちに廃棄されたのは,1941年9月から1942年4月まで世間も騒がせた「ゾルゲ事件」が発生したのを意識し,陸軍の関与を疑われないためだったとみられている。
b) その後,秋丸機関の活動は太平洋戦争が始まると,事実上停止した。1942年末に解散した。しかし,その関係者たちはその後もさまざまな局面で活躍してきた。たとえば話は敗戦後に飛ぶが,吉田 茂内閣の「傾斜生産方式」は,秋丸機関での研究を基に立案された経済政策だといわれている。
柴田 敬についてここで説明する。柴田は間接的にであったが,石原莞爾の思想「東亜連盟論」に影響され当時,「東亜連盟諸国をして其の夫々の経済計画の立案に際して相互に連絡をとり夫々の経済計画を相互に補完的共助的なるものにたらしめる如き協定に達せしめることを使命とする」ことを主張した(柴田 敬『日本経済革新新案大綱〔増訂第2版〕』有斐閣,昭和15年11月,68-69頁も参照)。
しかし,柴田は「東亜連盟の主張する『王道か皇道か』あるいは『世界最終戦論』の是非については重視していな」かった(牧野『戦時下の経済学者』83頁)。
山本勝市という経済学者もいた。山本は「経済新体制確立要綱」昭和15 年12月の原案を構想させるうえで大きな影響力をもった,笠信太郎『日本経済の再編成』中央公論社, 昭和14年12月を批判する冊子状の著作『「日本經濟の再編成」批判』日本工業倶楽部調査課,昭和15年12月を公表していた。
山本勝市はそれ以外にも『マルクシズムを中心として-其の説明と批判-』思想研究會,昭和5年や『経済計算-計画経済の基本問題-』千倉書房,昭和7年,『ロシアに於ける統制経済の研究』国民精神文化研究所,昭和9年,そして『計画経済の根本問題-経済計算の可能性に関する吟味-』理想社出版部, 昭和14年3月なども公刊していた。
山本勝市はまた,マルクス主義批判のイデオローグとしての役割を果たした。けれども,陸軍を中心に「国防国家」建設のために経済統制が実施されていくにしたがい,むしろ経済政策に対する強い批判者となっていった(牧野『戦時下の経済学者』97頁)。
c) さらに,前掲の山本勝市『「日本經濟の再編成」批判』は,鳩山一郎〔前民主党代表由紀夫の祖父〕に高い評価を与えられ,2万部が印刷された。昭和15年中にはさらに,日本工業倶楽部が同書を2千部,名古屋の実業家が5千部を印刷した。昭和16年になると,原理日本社が3百から5百部を印刷した。
補注)本ブログ筆者の蔵書のなかに,その「原理日本社」が印刷した「昭和16年5月15日発行」の現物があった(冒頭の挿絵画像がそれ)。この山本勝市『「日本經濟の再編成」批判』のなかで共同執筆者としてくわわっていた三井甲之は,寄稿した文章の末尾でこう語っていた。この文言は当時なりに真摯な態度ではかれた正直な意見であったにせよ,狂気に近い口調でこう述べていた。
「マルクス主義の紙制怪物は紀元2601年の今日聖戦したの現日本に横行してをる。粗野の用語であるが適切にいへばその巣窟は各地帝大の法・経・文学部である。これはこのまゝ放置すべきであらうか」(同書,158頁)。
この引用に及んだこの原理日本社版では,執筆者が下記のとおり3人となっていて,そのなかには当時の狂信的な論者「蓑田胸喜」がくわわっていた点は,なによりも見物であった。この指摘はむろん21世紀の現時点からの評言であるが……。
また原理日本社とは,1925〔大正14〕年11月5日,蓑田胸喜(みのだ むねき,1894~1946 年)が,三井甲之・松田福松と結成した右翼団体である。雑誌『原理日本』を機関誌として刊行していた。なお,蓑田胸喜のはげしい他者攻撃を繰りだす言説行動は,彼の名に引っかけて,まさに〈狂気〉と評された。
以上に触れた『「日本経済の再編成」批判』の3種を,以下に挙げておく。
☆-1『「日本経済の再編成」批判』養正倶楽部, 昭和15年10月。23cm:48頁。
☆-2『「日本經濟の再編成」批判』日本工業倶楽部調査課, 昭和15年12月。23cm:48頁。
☆-3『「日本經濟の再編成」批判』原理日本社, 昭和16年5月。21cm:158頁。
この☆-3の執筆者のうちで,山本勝市「政治經濟文化の根本問題」は,もとは☆-1,☆-2で48頁の紙数であったものを,104頁まで増やしていた。この☆-3は,山本勝市の論稿につづき,つぎの2名が以下の標題になる文章を書いて寄せていた。
▲-1 蓑田胸喜「マルクス主義思想禊祓のために-国防哲学序説-」
▲-2 三井甲之「祈願の心をこめて-マルクス主義思想禊跋のため
に-」
d) 山本のその「論文」(冊子)はそうして,政党関係者・財界・観念右翼の手を介して各方面に配布され,経済新体制批判のための資料として用いられた。
そうした総攻撃を受けたために,「経済新体制確立要綱」の原案を提供した著作『日本経済の再編成』の著者笠信太郎(朝日新聞社)は,批判から逃れるためにヨーロッパ特派員となって,日本を離れることを余儀なくされた(牧野『戦時下の経済学者』 101頁参照)。
本ブログ筆者の書斎の書棚には前述したように,原理日本社が印刷した山本勝市の冊子『「日本經濟の再編成」批判』(昭和 16年5月15日発行)が現在も処分を逃れて,まだ自宅の書棚に残されていた。
たまたまというか,偶然にも「印刷部数のもっとも少ない〈原理日本社〉版」であったわけだが,原理日本社の蓑田胸喜と三井甲之が新しく執筆した部分を用意し,大幅に増訂した同「冊子」が,いつごろであったかは記憶にはないが,筆者は古書で入手していたようである。
ただ,この冊子を古書店でみつけ購入した動機はよく覚えている。というのは,笠信太郎『日本経済の再編成』を「批判」するという書名が記されたこの本が,古書店の棚に並べられていた本のなかでも,なぜかとくに目についたからであった。
つぎの画像は,当時「蓑田胸喜(狂気)」とまで呼ばれた,まるで狂犬のように他者に噛みつく仕草を「痴的」生業をしていた人物の一様。

2) 戦時体制期とゴットル経済学
戦争の時代において「政治経済学」「日本経済学」を自称した経済学の多くは,ナチス・ドイツのイデオローグ的存在であったゴットル = オットリリエンフェルトの「形成体」〔 “das Gebilde” -構成体とも訳されている〕を利用していた。
つまり,それは「人間が共同生活をするうえで主体として形成する統一体」をもとに,全体主義的経済学を提唱したり,あるいは,マルクスやその他の社会主義思想を,当時の用語を用いて表現をあらためて利用する方途で,統制経済を基礎づけようとしたりしたものであった。
注記) なお,「形成体」と訳される “das Gebilde” は「構成体」とも訳されるが,この訳語の問題については,印南博吉「ゴットル理論と訳語の問題」『一橋論叢』第11巻第6号,昭和18年6月が議論している。印南は「『形成体』と訳す方が適切ではないか」と主張している。
ともかくも,戦争中にいかに,どれほどゴットル「民族経済学」がもてはやされたかは,Friedrich v. Gottl-Ottlilienfeld,“Wesen und Grundbegriffe der Wirtschaft” , Reclam, 1933の日本語訳が,昭和17年中に急遽,あいついで,以下の2冊公刊されていた事実からも感じとれる。
☆-1 中野研二訳『経済の本質および根本概念』白楊社,昭和17年5月。
☆-2 西川清治・藤原光治郎訳『経済の本質と根本概念』岩波書店,昭和17年12月。
--もっとも,ゴットルの日本的亜流の内容は乏しく,多くは掛け声や方法論の提示に留まっていた。結局,個々の経済学者をみれば,既存の政府の方針や社会の風潮を支持する結果になっていた。
多様な「政治経済学」「日本経済学」のほとんどは「非・純粋経済学」という点でのみ一致できただけであった。純粋に,学問の立場において「純粋経済学」を批判する経済学は「わけのわからない経済学」「時局への迎合」になっていた(牧野『戦時下の経済学者』131頁)。
だが,「純粋経済学」は,経済の自律性や方法論的個人主義を重視し,当時の政治的状況に鑑みていえば,否定されるべき自由主義・個人主義を反映しており,批判の対象になった。戦時体制期にあって,政治的対立が社会に浸潤するなかで経済学は,外部のさまざまな条件に左右された(131-132頁)。
3) 大熊信行「政治経済学」
大熊信行は,イギリスの社会思想家ジョン・ラスキンに関する河上 肇の研究に学んだのを契機に,経済学研究を志した。ラスキンの問題意識を現実の日本社会においてみていくことを主張した(133頁)。こういう主張であった。
経済学は,希少な財や時間の配分をおこなう「配分原理」--経済学とは希少な資源の用途選択の問題であるという定義に類似したもの--を展開している。
日中戦争が勃発し,統制経済や生活合理化が現実化していくなかで,ラスキンのポリティカル・エコノミー論,とくに国民を訓練し,国家経済の適切な部分に適切な資源を配分していく「パターナリズム」と〈生の再生産〉を営む場である「家庭経済」とに焦点が当たられている(134頁)。
ただし,大熊の主張した「政治経済学」は,政治の力による財や労働の「適切な配分」を主張する一方で,中山伊知郎や杉本栄一,そして蓑田胸喜によって批判されたように,体系性・具体性にとぼしかった。そのための技術論がなければ,単なる形式論でしかない。
要は「計画経済が経済配分の問題に帰着しており,いかにそれが決定されるかが議論されていない。ただあるべき姿が強調されるだけで,体系性・具体性の欠いた主張の反復であった」(135-136頁)。
4) 難波田春夫「国家経済学」
戦時体制期,大熊信行とは論壇で全面的に対立した東京帝国大学経済学部助教授難波田春夫が,はなばなしい執筆活動を披露していた。難波田は,W・ゾンバルトの思想に強い影響を受けつつ,経済を方向づけるための日本的な「理念」をみいだそうとした。
難波田が重視したのは,人間生活の倫理は民族の祖先(先王・祖宗)が建立した考えや,和辻哲郎『風土』岩波書店,昭和10年の風土論をもとに,経済を方向づける理念としての「神話」などであった。
要は,天皇を唯一の究極的な血縁的・精神的統一の中心とする「神話」を構成することで,「最も純粋に統一せられた類ひなき民族国家」に成長する日本を構想したのである(牧野,136-137頁)。
なかでも『国家と経済』第4巻「現代日本経済の基礎構造」日本評論社,昭和16〔1941〕年は,こういっていた。
「来るべき経済学は,『国家と経済』の問題,とくに日本の『国家と経済』の問題として,追求しなければならぬと信ずる」。
この立場から,神話と風土による日本経済の説明にくわえ,ゴットル = オットリリエンフェルトの『形成体論』を加えて明治以降の近代日本の発展を分析していた(138頁)。
5) 難波田春夫「国家経済学」論のからくり
ただし,その難波田『国家と経済』第4巻:昭和16年は実は,講座派マルクス主義の代表的な著作である山田盛太郎『日本資本主義分析-日本資本主義における再生産過程把握-』岩波書店,昭和9年の内容を裏返しに利用していた。山田はこういう主旨を論究していた。
「印度以下的労働賃金及び肉体消摩的労働条件」を来している日本資本主義にあっては,農村における半封建制と天皇制を打倒されるべきである。そのとき,日本の中枢となる重工業・軍事工業において「陶冶」(訓練)されるプロレタリアートが「旋回」=revolution= 革命の担い手となることが,期待されていた(牧野『戦時下の経済学者』139頁)。
難波田は『国家と経済』第4巻において「家・郷土・国体という三重構造,講座派マルクス主義的にいえば,家父長的家族制度・半封建制の残る農村・天皇制の存在が逆に日本経済を発展させたものとして積極的に肯定されている」。
すなわち「難波田は天皇制を打倒することを意図して書かれた山田盛太郎の『日本資本主義分析』を換骨奪胎--より正確にいえば資料や論旨の展開を借用--したうえで,日本経済は天皇を中心とする『国体』によって支えられてきたとするまったく逆の『日本経済学』を作りあげた」(139-140 頁)。

昭和17年4月,102頁
現在の視点で評価すれば,講座派マルクス主義の日本資本主義分析は,開発経済学の二重モデル〔ルイス・モデル〕の先駆けであったと理解できる。当時の日本,つまりアジアのなかでただ一国,経済近代化を成就した日本帝国を説明する便法として,他国とは違う「天皇制」や「国体」といった要因をもちだしたのである。
結局のところ,日本の資本主義に独自の「型制」を認めた講座派マルクス主義が,日本の特殊性にもとづく「日本経済学」の寝床を提供したことになる(牧野『戦時下の経済学者』140頁)。
難波田春夫が敗戦までに公表した「戦争体制のための著作」から主な〈成果〉を紹介したい。
☆-1『日本的勤労観』日本工業倶樂部, 昭和17年5月。
☆-2『戰力増強の理論』有斐閣,昭和18年4月。 本書は,昭和19年中に訂増補4版。
☆-3『決戦生産策』産業圖書,昭和20年7月。
☆-3は本文わずか31頁の著作である。いまから半世紀以上の昔:当時を回顧してみればよい。その内容は〈汗顔の至り〉以外のなにものでもなかった。
だが,難波田は敗戦後もかわらず,意欲的に数多くの著作を産出していった。とくに,『難波田春夫著作集』全10巻・別巻,早稲田大学出版部,1982-1983年は,その後における彼の健在:(いわば無節操な健筆)ぶりを物語っていた。
いずれにせよ,牧野邦昭『戦時下の経済学者』は,難波田流の「日本経済学」が,現在でもわれわれの思考を呪縛している,と解釈していた(144頁)。
5) 石川興二「新体制論」
昭和18年2月,第81回帝国議会衆議院予算委員会は,当時京都帝国大学経済学部教授であった石川興二の『新体制の指導原理-我国体に基く現代の革新-』有斐閣,昭和15年12月について,「マルクス経済学の資本回転運動を説明している」,「私有財産制の変革を訴える」書物であると攻撃した。その結果,石川は休職処分を受けた。
要は,戦時期においては経済学がイデオロギーの役割を果していた。一方で,資本主義原理の変革をともなう経済統制を主張すると「マルクス主義者」「アカ」呼ばわりされ,他方で,市場の重視を訴えると「自由主義者」「資本主義擁護論」として批判された。いわば,なにをいっても,二重拘束(ダブルバインド)状態が生じていた(牧野邦昭『戦時下の経済学者』148頁)。
なお,この段落で参照している牧野邦昭『戦時下の経済学者』第3章「思想戦のなかの経済学」の注記51に,本ブログ筆者の大学院時代「指導教授」の姓名をみつけた。この姓名は,「革新社」という--これは戦争中「学界に残存する自由主義の徹底的粉砕と国家主義の高調,思想的・経済的挙国一致体制の確立を主張する」という目的を標榜していた--団体の名簿のなかにその1人として記されていたものである(155-156 頁参照)。
その氏名の「彼(=筆者の指導教授)」は多分,「彼自身のさらに指導教授」であった本位田祥男(昭和14年2月「平賀粛学まで東京帝国大学経済学部教授)」の指示,あるいはその勝手によって,その革新社の成員に姓名を挙げられ連ねていた感がある。
もちろん「彼(=筆者の指導教授)」の処世術が絡んでいなかったとはいえなくないが(以上はあくまで筆者の憶測による議論である),その革新社の名簿には「無承諾のまま自己の名が新聞に発表してある為,異議若くは問合わせをして来た者があった」(156頁)という事情もあったというから,いちがいに的外れともいえない。
本ブログ筆者の体験をいおう。いまから20年以上も以前の出来事である。あるとき,初めてしりあった韓国の留学生から,韓国のある学会組織の関係者にぜひとも会ってくれといわれ,わずかな時間を割いてその人に面会した。
ところが,後日の話となるが,依頼もしていないのに送ってきたその「学会の刊行物の後記」には,なんと筆者の姓名がその学会構成員の1人となって掲載・連記されている。これにはびっくり仰天した。当該学会の幹部と面会しただけでその会員になれるとは,いやはや,驚くどころか呆れはてた。
※-6 敗戦後の日本の経済学
1) 近代経済学とマルクス経済学
大日本帝国が敗戦すると即刻,戦争中「政治経済学」「日本経済学」の確立を訴えた主張は消滅した。戦後は,その戦時期経済学の志向を意識するかたちで「近代経済学」の研究が高唱された(牧野邦昭『戦時下の経済学者』149頁)。
戦時期における提唱:「政治経済学」や「日本経済学」は「経済政策をおこなうための道具としてはなんら役に立た」ず,「ただそれは総力戦下において,資本主義原理への変更をおこなうのか,資本主義を活かして戦力を強化するのかといった論叢においてイデオロギーとして強力な役割を果たすことになった」。
安井琢磨が「戯曲化された『純粋経済学』の偏見を脱」することを訴え,「近代経済学」の「内奥に徹することを訴えたのは,この種のイデオロギーとしての経済学からの脱却を意図してのことであった。もっとも,はたして「近代経済学」がイデオロギーから自由な存在であったと,いいきってよかったか(152頁)。
日本の経済学は以前まで,「近代経済学」〔一般均衡理論にもとづく微視(ミクロ)経済学,ケインズ経済学にもとづく巨視(マクロ)経済学」,そして「マルクス経済学」とに分類するのがふつうであった。
くわえて,近代経済学を「マルクス経済学以外の経済学」という意味であつかうという日本の特殊な用法もあった。英語で modern economics とは単に「現代の経済学」という意味である。
とはいっても,日本特殊な意味での「近代経済学」が使用されたのは太平洋戦争以後である。戦前は近代経済学はなかった。そのうち「マルクス経済学以外の経済学」,それも比較的新しい経済学を一括して近代経済学と呼ぶ社会的習慣ができていた(163頁)。
2) 日本特殊な「近経とマル経の並立構造」
マルクス主義を批判するとともに,「日本固有の思惟形式により一挙にして日本的経済理論を確立し得べし」といった戦時中の政治経済学や日本経済学を「空想」と切り捨て,日本の経済学の水準を高めることを意図したのが,経済学と社会学を併せて研究していた高田保馬であった(183頁)。
戦後「非常に強い勢いでマルクス経済学が意識され」, 「政治的対立,とくに日本の戦後において,今日まで続いている保守・革新の政治的対立が,学問の分野にもちこまれ」,「近経とマル経」という経済学界内の対立的な構図を登場させた(202頁)。
経済学が政治と無関係ではありえない。政府が経済学に限らず学術を支援するのは,特性の政治目的(経済成長などそのほか)を達成するためである。ある経済政策上の主張が政治的対立を生めば,経済政策を支える根拠としての経済学は《イデオロギーの性質》を帯びるほかない。
経済学者が経済学の政治性に無自覚であれば,経済学を現実の経済に役立てることはできない。その意味で,なぜ日本のマルクス経済学以外の経済学が「近代経済学」と呼ばれたのかは,政治と経済学との関係をしるうえで,現在にも示唆を与える(203頁)。
以上の記述は,本ブログ筆者の専攻する経営学の分野にも妥当する中身がある。「マル経」経営学はいまでは凋落しきっており,昔日の片鱗どころか面影すらない。いうなれば立ち枯れたままになっている。
「近経」経営学は実践奉仕であるか,あるいは「分かりきった仮説設定→実証→円満な結論」を探りだす学問(?)作業に熱心であるか,あるいはまた,大企業からの研究費・援助金を獲得するがゆえに「没批判」の「会社奉公のための経営実践学」しか展示しえていない。
近経陣営の経営学者たちは,学問的・理論的にはまったく貧相でつまらない,そのなにが研究に値しているのか不可解な「研究(?)成果」を誇ることに熱心であった。
MBA系大学院の先生たちの講話となると,もはや経営理論など実在せず軟体動物的な論理構築(?!)だけが,大伽藍よろしく,その威容を誇るだけ,換言すれば張りぼて像そのものとなりはてて,われわれの目前に鎮座している。
その姿容はまるで大きな錦蛇の抜け殻のごとし。そしてまた,誰かあるいはどこかに絡みつく相手や材料が求められないかぎり,存立不可能であったかのような,たいそう意欲的な饒舌ぶり。
大自動車会社トヨタを根幹から批判する:できる経営学書はごく少数である。セブン&アイ・ホールディングスやキヤノンなどに関する総合的な企業分析に,真正面から批判的にとりくんだ経営学者の手になる本格的な書物には出会えなくなった。
またたとえば,京セラのゴマすり経営研究ならばあったが,稲盛和夫の企業者としての履歴を徹底的に洗うことさえせず,アメーバ経営「論」に潜む本質分析など,どだい無理筋の超難題。
結局,マルクス〔主義的〕経営学の実質的な消滅は,日本の企業社会にとっては「目の上のタンコブ」的な学問形態がこのマル経経営学ではあっても,日本という国全体をよくするための〈反体制的学問〉としてのマルクス経営学を,理論の教条的な硬直性・党派的な独善性を不可避の特性としていたとはいえ,それなりに,いちおうは「必要不可欠な存在」たらしめていたといえなくはない。
-----------【アマゾン通販:参考文献】----------