いまからだと少し昔になるが,姜 尚中という元東大教授が聖学院大学学長に就任してから辞職するまでの話題など長々と論じる
※-1 2015年3月,聖学院大学学長であった姜 尚中が辞職していたが,当時,ちまたから湧いてきた声などに訊いてみる話題
この記述は10年近く前の大学人のありようをめぐる一例を,2015年3月時点で聖学院大学の学長についていた姜 尚中が,わずか1年間だけの任期を終えた時点でその職位を離れたところに,話題を起こすとっかかりを見出してみた。
当時,それまで大学関係出身だがすでにスター的な任期のあった姜 尚中が聖学院大学学長に就いていた。ところが,2015年3月かぎり1年間だけ勤務した時点で,その仕事を辞めていた。その4月に入るとネット上に,いくつか参考になる姜に関連する記述が登場していた。これらを利用しながら「姜 尚中」論として記述を試みてみたい。
なお,本ブログはすでに1年半ほど前につぎのような姜 尚中に関した一分を公表していた。こちらの記述は有名な社会科学者の大塚久雄との,なんらかの「自身との関連」を示唆したかったらしい姜 尚中の,そのあたりでの自分の経歴に関するごく一般的な説明が,なぜかアイマイ度の高い様子でしか言及されていなかったという疑問点に対して,いくらかこだわった論及をしてみた。
このリンク先住所を紹介した本ブログの記述のくわしい中身は,この記述をじかに読んでもらうほかないが,「説明が必要な事項」に触れていた当人がその説明にはいっさい具体的に言及していなかった「事実」に関しては,首を捻るほかなかった。
ともかく姜 尚中は「タレント教授か,教授タレントか?」というほどに一昔前までのころは,大活躍していたいってみれば「姜 尚中:花開く在日インテリのバカ受け 」という形容がなされていいほど,たいそうな人気者であった。
※-2 姜 尚中(Kang Sang-jung,カン・サンジュン)のホームページなど
1) ホームページの記載事項
姜 尚中のこのホームページには,どういう事情があったのか不詳なのだが,リンク(目次・内容)はいっさいなしで,表紙(トップページ)のみである。
この画像は,画面の中心部分のみを摘出してある。書かれているとおりであるが,姜の履歴が自己紹介されていた。上掲画像をそのまま書き出している。
1950年熊本県熊本市に生まれ,早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了,国際基督教大学助教授・準教授,東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授。その後,聖学院大学学長などを経て,現在東京大学名誉教授。専攻は政治学・政治思想史,テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍してきた。主な著書はつぎのとおりである。※以下は共著,#は編著。
『マックス・ウェーバーと近代』 『オリエンタリズムの彼方へ』
『ナショナリズム』 『東北アジア共同の家をめざして』
『増補版 日朝関係の克服』 『在日』 『姜尚中の政治学入門』
『ニッポン・サバイバル』 『愛国の作法』 『悩む力』
『リーダーは半歩前を歩け』 『あなたは誰?私はここにいる』など。
※『グローバル化の遠近法』 『ナショナリズムの克服』
『デモクラシーの冒険』 『戦争の世紀を超えて』
『大日本・満州帝国の遺産』など。
#『在日一世の記憶』など。小説『母—オモニ—』『心』も刊行。最新刊『心の力』。
註記)以上,http://www.kangsangjung.net/ この( ↓ )リンク先は,姜 尚中のホームページである。
2) ウィキペディアの解説から-姜 尚中の経歴など-
姜 尚中(강 상중,1950〔昭和25〕年8月12日生まれ )は,熊本県熊本市出身の政治学者,東京大学名誉教授。専門は政治学・政治思想史,とくにアジア地域主義論・日本の帝国主義を対象としたポストコロニアル理論研究。
在日韓国人2世,通名は永野鉄男(ながの・てつお)と称していた。当初,この日本名「永野鉄男」を名乗っていたが,早稲田大学在学中に韓国文化研究会に参加し,1972〔昭和47〕年の訪韓以来,韓国名を使用する。
2011〔平成23〕年に開催された句会の席上,姜はみずからの生い立ちについて「生まれは熊本で本名は永野鉄男です。でもいまから38年前,22歳のときに,思うところがあって姜 尚中を名乗りました」と語っている。
日本の社会の不寛容,つまり,大日本帝国植民地時代の残滓である「差別意識の構造的な存在」は,在日韓国〔朝鮮〕人がわの出自に立ち向かいそのように,人間存在として「自然な生き方」をそこなわせる自己規制,いわば人間としての精神的な姿勢に対して「いびつな」自己否定観をもたらす悪影響を及ぼしてきた。
その典型的な実例が「本名と通名」の使い分けないしは「本名の隠蔽と通名の使用」という習慣をもって,しかも否応なしに半強制的に表現されていた。
そのへんの「差別と偏見の問題」は,一律に片付けられそうにもない「日本社会論におけるひとつの研究課題」を,重要な論点として提示していた。それゆえ,ここでは問題のありかとその性質についてのみ,前段のような簡単な説明を与えておくことにし,これ以上は触れない。
さて,姜 尚中は,1995〔平成7〕年に「青丘文化賞受賞」という名誉に預かっていた。この賞はこう解説されている。
また姜 尚中は,2008〔平成20〕年に開設されたインターナショナル・スクール,コリア国際学園の理事長に就任する予定だったが,東大(国家公務員,当時の勤務先)の兼業規程に違反するとの指摘があり,辞退している。姜はその後,顧問に就いていた。
このインターナショナルスクール「コリア国際学園」については,こういう報道があった。(以下は『読売新聞』2011年2月26日参照)
付記)コリア国際学園については,つぎのリンク先住所を参照されたい。
姜 尚中の経歴に戻る。
2013〔平成25〕年3月末,東京大学の定年を3年残し退職。同年4月より次期学長含みで聖学院大学に移籍し,全学教授に就任,同年7月22日の理事会で正式に第6代学長に選出された(任期5年)。同年6月に東京大学より名誉教授の称号をえる。
2014年4月より聖学院大学長兼総合研究所長兼政治経済学科教授に就任。しかし,任期途中の2015年3月31日付けで聖学院大学学長を辞任した。辞任理由については「諸般の事情」としている。
※-3 姜 尚中,聖学院大学学長辞任など
『朝日新聞』2015年4月9日朝刊がこのニュースを解説的に報道していた。題名(見出し)は「『諸般の事情』姜 尚中氏,聖学院大学長辞任のわけは」であった。
--政治学者の姜 尚中氏(カン・サンジュン,64歳)が先月末,学長就任から1年で聖学院大を去った。就任前から世間の注目を集めた「スター学長」。活動が軌道に乗りはじめた矢先に,なぜ?
「諸般の事情で大学を辞めることになりました」。姜氏が突然,同大HPに辞任のメッセージを載せたのは3月20日。3月14日の卒業式で学長として式辞を述べたばかりで,姜氏は取材に「いろいろありますが,いまは『諸般の事情』以外に答えられない」と話した。
姜氏は2013年4月,東京大学大学院教授から聖学院大学教授に転じ,昨〔2014〕年4月に学長に就任。5年の任期の予定だった。キャンパスがある埼玉県上尾市は1981年に独留学から帰って住み,キリスト教の洗礼を受けた地で,「私にとって第二の故郷」と語っていた。そんな縁をしってラブコールを送ったのが聖学院生え抜きで前任学長の阿久戸(あくど)光晴理事長(牧師,64歳)だった。
姜氏は学長に就くや「改革」に乗り出す。財務状況など大学運営の問題点を洗い出し,70歳定年制の見直しや非常勤職員の勤務時間短縮に着手。古いトイレの改修は学生に好評だった。
1) 「広告塔」のはずが……
だが,大学関係者は「『広告塔』のはずが,大学運営に口を出しはじめたことで,理事長とのあいだに溝が生じたのではないか」という。さらに今〔2015〕年1月,姜学長宛ての文部科学省の文書を,阿久戸理事長の意向を受けた職員が約5カ月間,渡していなかったことが発覚した。(画面 クリックで 拡大・可)
関連註記・出所)http://www.seigakuin-univ.ac.jp/scr/faculty/index.asp?pg=kyouin&uu=m_akudo&sort=&slct=&ppflag=1 現在はこのリンク先住所は削除。
理事長側が,学長の統治権限を強める学校教育法改正に基づく学則改正作業を姜学長抜きで進めていたことも分かったという。学長解任を求める発起人不明の文書が3月9日の臨時理事会に出されると,姜氏は先手を打つかたちで2日後の教授会で辞任の意向を表明。16日の臨時理事会で了承され,月末での辞任が決まった。
補注)ここだけでの評言となるが,理事長は学長に権限を広範囲に与える学校教育改正との調整に関して悩んだのかもしれない。この改正は既存の,それも歴史と伝統があり,一定の民主的かつ合理的な学校法人経営管理を実行できている大学に対して,大きな打撃を与えると負の評価をされていた。
しかし,聖学院大学の場合,ここで想定できるような学校法人ではない可能性が大きいゆえ,話はややこしくなるほかなかった。それだけに現理事長の立場からすれば,この改正の方向性との「間合いのとり方=均衡維持の方法」を工夫できていなかったのではないか?
【参考画像】-聖学院大学礼拝堂-
以上,あくまでも推測話でしかないけれども,小規模で理事会が従来から大学運営の実験を掌握している大学においては,なおさらのこと理事長が自分の基盤に大きく影響してくるなにかが,学校教育改正から一方的に発生するのであれば,学長がどのように権限をもち発揮するかについては,大いに脅威を感じて放置できない気持になるのは,当然のなりゆきだったのかもしれない。
だが,当時は姜 尚中が学長であったのに,文部科学省から来た学長宛の文書を5ヶ月間も渡さしていなかったのは,職務上のことでもあり,学長の職位そのものを完全に無視した行為として問題があった点は,指摘するまでもない。おそらく姜は,ひどく立腹したと推測される。
この種の問題が起きていた時点ですでに,聖学院大学の理事長と姜学長は,いっしょに仕事をできるような「公的な仕事の関係」(私的な次元としては「感情面での間柄」)では,なくなっていたと推断しておく。
〔記事本文に戻る→〕 聖学院大広報課を通じて阿久戸理事長に姜氏の評価などを尋ねたが,「理事長としてお答えすることはございません」と文書で回答があった。
2) 動揺する学生たち
学生は動揺を隠せない。今月入学した政治経済学部の男子学生(18歳)は「説明会で姜学長の話を聞き,いい先生がいるなと思っていたのに」。先月卒業した女性(22歳)は姜氏との意見交換会を振り返り,「大学が変わっていく様子が目にみえて分かった。後輩たちをうらやましく思っていただけに残念」と肩を落とした。
創立27年と〔当時は〕まだ歴史が浅い聖学院大のキャッチフレーズは「面倒見のよい大学」。入学前から就活まで手厚いサポートが売りだ。だが少子化もあって志願者数は年々減り,2013年に初めて定員割れ。姜氏を招いたあとの今〔2014〕年度の入学者も,定員を約100人割りこんだ約470人だった。
補注)この程度(以上)の実員不足(定員を満たせず欠員状態)である地方・小規模・私立大学(低偏差値)は,いくらでも存在してきたゆえ,聖学院大学にだけ特有の問題といえなかったが,経営陣にとっては頭の痛い要因となっている。
こうした大学経営の現実問題とは無縁の大学業界で生きてきた姜 尚中が,聖学院大学におけるそのような内部要因に発する諸問題を,どのようにとらえていくかが分明になる前に辞めてしまったわけである。
ところで,聖学院大学は女子聖学院短期大学を母体:前身に4年制大学として創設されていた。それ以降の沿革を紹介しておく。
この沿革で2014年に政治経済学部の2学科を統合したのは,学生募集で苦しい同学部2学科の実情に対処するためであったとみてよい。同じような動向は「地方・小規模・私立大学(低偏差値)」にとっては必然的な方途して,以前より現象しはじめている。学科の統合はなかでももっとも対応しやすい「実員欠員状況」に対する手当でありうるからである。
3) 著名教授を学長に迎えるということ
〔本文に戻る→〕 教育ジャーナリストの小林哲夫さんは「大学がスター学長を呼ぶ一番の理由は学生募集。役割は広告塔でいい」としつつ,「成功=志願者数の増加」だとすると,学長のネームバリューは志願先を決める理由にはなりにくいという。
補注)「地方・小規模・私立大学(低偏差値)」が学長の名声を活用する努力でもって,学生募集を挽回,それも定員が埋まるようにまでできるかと問われれば,ほとんど無理難題だと結論せざるをえない。くわえて,有名教授が学長職に適格であるかといった,絶対の保証もあるわけでもない。
旧帝大系の著名な教授を迎えた私立大学が,この人を学長や学部長に就任させたからといって,大学経営がうまくいく約束ができるわけではない。教授それぞれの個性・実力(とりわけ管理能力の有無という点)と,どこかの著名大学の有名教員であるといった事実とが,相関関係において有意に重なるべき必然性はないからである。
小林さんによると,ノーベル物理学賞の江崎玲於奈氏(筑波大学など),数学者の広中平祐氏(山口大学)ら著名な学者を招いた例はあるが,学長として目立つ功績が挙げられたとはいえない。
一方,一芸一能入試を導入した故衛藤瀋吉氏(亜細亜大学),秋田発の人材育成でしられた故中嶋嶺雄氏(国際教養大学)は,「積極的に大学をアピールし,全国から志願者を呼んだ数少ない成功例だろう」。
京都精華大学はマンガ学科を創設した2000年,少年同士の恋愛をテーマにした漫画「風と木の詩(うた)」でしられる漫画家の竹宮恵子氏(65歳)を専任教授に迎え,2014年に学長に就けた。
京都造形芸術大学は2007~2013年に,作詞家の秋元 康氏(56歳)を副学長に据えた。同大学関係者は「学生に刺激を与えたとは思うが,高校生の進路選択に影響したかは分からない」。
小林さんはスター学長の役割についてこう話す。「しっかりした教育理念をもって学生と接しつづけること,とりわけ新設大学は,生き残るためにどんどんメディアに出てアピールすることだ。ただあらかじめ経営陣とのあいだで役割と権限を明確にしておかないと,同じようなことがまた起こるのではないか」。
--この最後の指摘,「あらかじめ経営陣との間で役割と権限を明確にしてお」く手順が,おそらく姜 尚中を迎えた聖学院大学側には,当初からなかったものと推測する。その種の関心事は飛ばしていけると思いこんでいた筋が感得できる。
「客寄せパンダを学長にやらせるならば」「このパンダにはパンダ」としての役割に徹してもらうよう,できれば事前に調整し,説得し,納得してもらうべきであったと思われる。だが,事前にそこまでは頭が回らなかったというよりも,もともと「もっと軽い気持」で姜を学長に迎えていたのではないか。
姜 尚中は定年まで数年を残して東大を辞めて聖学院大学に来たのだから,それなりに期待と覚悟をもってこの大学に赴任した,と解釈しておく。姜は,それだけにはりきって,あれこれ手を付けては改革もしてみたいと意欲したはずである。
ところが,この積極姿勢が理事長側にとっては,たまたま時期的に発生していた「学校教育法改正に基づく学則改正作業」を,姜学長抜きで進める顛末になっていたらしい。これでは「理事長と学長の葛藤・対立」は必至だったと観察され,外野席から観ていてもそのように指摘せざるをえない。
※-4「姜尚中さんが聖学院大学長を辞任へ 任期途中,その理由は」(中野 渉稿『The Huffington Post(社会)』 (2015年3月21日)から
1)聖学院大学ホームページ
聖学院大学(埼玉県上尾市)の学長を2014年4月から務めている姜 尚中さん(64歳)が2015年3月20日,5年間の任期途中となる31日付で辞任し,同大から離れることを大学のホームページ上で明らかにした。
姜さんは「皆さんへ」と題した学長メッセージで「諸般の事情で大学を辞めることになりました」と記し,辞任理由は明らかにしていない。つぎにメッセージ全文を紹介する。
姜 尚中にはきっと近いうちに当然(!?),どこかの大学〔など〕から声がかかるのではないかと予想しておくが(実際あれこれあった),このブログを読んでいる人たちは,どのように思っているか? 要は「こっちがダメなら,あっちがあるさ」である。
2)『埼玉新聞』2015年3月22日の報道
この埼玉新聞の見出しは「聖学院大学学長 姜 尚中(学長メッセージ 聖学院大学 2015/03/20)」であったが,これから引用する。
姜さんの辞任は,〔2015年〕3月16日の臨時理事会で承認された。朝日新聞デジタルが大学関係者の話として伝えたところ,姜さんと学校法人聖学院の阿久戸光晴理事長とのあいだで,大学運営をめぐる意見の相違があったという。姜さんは東大名誉教授で,テレビ番組への出演やベストセラーになった『悩む力』や『在日』などでしられる政治学者である。
以下に,記事本文〔2015年3月22日(日)〕「聖学院大,姜尚中氏が学長辞任へ 学生らショック」から引用する。
上尾市の聖学院大学は3月21日までに,昨〔2014〕年4月から学長を務めている国際政治学者の姜 尚中(カン・サンジュン)氏(64歳)が辞任することを明らかにした。任期は5年間だったが,1年で大学を去ることになった。
同大ホームページに3月20日付で「4月から諸般の事情で大学を辞めることになりました。若い学生諸君と,共に語り合い,知ることの喜びや,生きることの悲しみ,そして希望を分かち合いたいと切望していただけに,残念です」と,姜氏のメッセージが掲載された。辞任の詳しい理由は書かれていない。
姜氏は東大名誉教授で,著書にベストセラーになった『悩む力』などがある。2013年に聖学院大学全学教授となり,2014年4月に同大の第6代学長に就任した。「地域への愛着を大学でしっかり教えたい」として,人文学部に「埼玉学」を開講するなど,地域密着のとり組みにも意欲的だった。
今後については,メッセージのなかで「大学の外から大学に貢献し,また執筆・言論活動にも専念していく」とし,卒業生や父母,関係者らにはこれまでの支援に「心より感謝申し上げる」と謝意を表している。
メッセージが掲載された翌21日の聖学院大学は,祝日のため静まり返っていた。所用や部活で校内にいた数人の学生は姜氏の辞任を聞いて驚きの表情をみせた。
人間福祉学部児童学科1年の水落健太さん(19歳)は「すごくびっくりしている。姜さんからは大学を変えようという熱意が感じられた。もう少しいてほしかった」と残念がった。
同部子ども心理学科1年の女性(19歳)は「1年で辞めるのは早い。ホームページやパンフレットにも前面に出ていて,大学のシンボルだったのに…」とため息をついた。
児童学科1年の男性(19歳)も「熱心な方で,姜さんの魅力で入ってくる新入生も大勢いると思う。面倒見がいいといっていたのに,いなくなってしまうとは残念。とてもショック」とやりきれない様子だった。
註記)以上,http://www.saitama-np.co.jp/news/2015/03/22/02.html
ここで指摘されている点,「姜さんからは大学を変えようという熱意」を「大学のシンボル」として発揮してほしいという狙いは,多分,理事長にとっては〈諸刃の剣〉であったのである。
「大学のシンボル」=「客寄せパンダ」としての学長は必要であるが,あまりに過剰に発散させられる「大学をかえようという熱意」は,かえって,大学のどこかの部分に低温ヤケド〔という被害〕を与えかねない。
3) 「姜 尚中氏,聖学院大学長を1年で辞任へ」(あるブログ記事,2015年3月22日13時33分)
この記事は「聖学院大学が昨〔2014〕年行った『平和の祈り8・15』で講演する姜 尚中(カン・サンジュン)同大学長(2014年8月15日,同大チャペル,埼玉県上尾市)を撮影した写真をかかげていた。ここでは,その写真を紹介しておくだけとする。
註記)画像は,http://www.christiantoday.co.jp/articles/15625/20150322/seigakuin-university-kang-sang-jung.htm からという関係でこの姜 尚中の画像をそえてあった「この記事」そのものを,つぎに出しておきたい。
※-5『正義の鐘を打ちて鳴らさむ-時代の夢を破るべく正義の鐘を打って鳴らします-』というブログの記述における姜 尚中批判
この2015年3月下旬の話題ではなく,それからさらに8年近く前〔2007年11月1日〕に,『姜 尚中,この男には虚構の過去がある。』という題目を充てて記述をおこなっていたブログがあった。
その「テーマ」は「話題にならないお話(国内)」ということでもあった。2007年「9月下旬に知人の方からある人物についての文章をいただいた」「姜 尚中という男について〔の話題〕である」とも断わられていた。
この文章からは以下に長めの引照をしつつ,本ブログ筆者の議論もくわえてみる。
a) ネットウヨとかいわれている人たちから「生姜」という愛称で呼ばれている方です。テレビにもよく出てきている東京大学の教授ですのでしらない方は少ないと思われます。
さてその姜 尚中氏,どういう人物なのか,Wikipedea(http://ja.wikipedia.org/wiki/…… のこと)で調べてみますと,熊本県出身の在日朝鮮人である。もともとは永野鉄男と名乗っていたのですが 補注),数年前に日本国籍を捨てて韓国に帰化し,韓国人として日本で活動している不可解な人です。その姜氏に対して高校時代の同級生たちが,すごい憤りを感じているのだというのです。
補注)「名乗っていた」という表現法は厳密にいえば正確ではない。名乗っていたのではなく,日本国に住む在日としてそういう姓名をもって,日常生活をしていたというだけのことである。
大日本帝国が過去に韓国を植民地にした立場から作った「ひとつの理屈の強制」が,そうした在日の立場における「創氏改名」の使用にそのまま継承されていた。
敗戦後においても,在日外国人=韓国・朝鮮人たちが使用せざるをえかった,いかにも日本風の姓名であったが,それが姜 尚中の場合,生まれてからずっと名乗ってきた氏名が永野鉄雄であった。この種の話題は,もっと自然に受けとめて語るほかない韓日関係の現象の一形態であった。
〔記事に戻る→〕 姜氏の高校時代の同級生たちが,どうして憤りを感じているのか? まず,姜氏が通っていた高校は熊本市内にある済々黌高校という,かなりの伝統校だそうです。その高校時代の同級生で姜氏を朝鮮人だとしっている人は,誰もいなかったのだそうです。もちろん,彼を差別をすることもなかったし,いじめをおこなっていたということもなかったというのです。
補注)前段の指摘との関連でいえば,このようにうんぬんする話法はいささかならず,それも後段につづく話題に向けてとなれば,かなり〈情感面での過剰さ〉を過剰なまで秘めた口調になっていた。ひとまずさきに,そう受けとめざるをえないことを指摘しておく。
〔記事に戻る→〕 なぜこのようなことになるのか,それは姜氏は極端なことをいってしまえば,在日特権を訴える朝鮮人の広告塔になってしまったわけです。ただ広告塔になってしまった以上は,彼は実体験ではないことをいわなくてはならなくなったのです。
補注)このような理屈の立て方にはもとから問題があった。まず,「在日特権」をそのように語ろうとしたところで,そもそも,この種の話法じたいに少しも疑問を抱かないでいられる立場=「在日に対する完全な認識不足」が問題であった。
つぎに,だからさらに,その「いわゆる在日特権」を固定観念的に信じたがゆえ,これに関してわずかの疑いをもちえない「在日理解」であったその姿勢が,より深刻な形相になって現象させざるをえなかった,と批判されるほかなくなる。
しかも,以上の指摘は,日本国民として本来もつべき「一般教養を決定的に欠く証左」も意味した。『ありもしない在日特権』を材料に使い,論じたのだから,姜 尚中が広告塔であるかどうか,あるいは実体験の論述であるかどうかも,そのすべてが論難の対象として適切であったか否かに関してから,根本から疑ってみてかかる余地があった。
要するに,この種の口調は妄想願望にもとづいた「独走(独創)的な告白」にしかなりえなかった。
〔記事に戻る( ↓ )〕
b) 朝鮮人という理由で差別やイジメを受けたということ。在日朝鮮人としては差別やイジメを受けたといえば,一部メディアからは受けます。逆に仲良くしていたというのは,まったくメディアでは受けません。そういうわけで,姜氏が朝鮮人として差別を受けたといっているです。でもそれは,実体験ではなく虚構であるということなのです。
実際に Wikipedia をみても,彼が朝鮮人として意識するようになったのは,高校を卒業して早稲田大学に入ってからだそうです。この経歴からしても姜氏が,高校生時代に朝鮮人という理由で差別やイジメを受けていたというのは嘘だとわかります。わざわざこの件を調べることをする人はいないのですから,この嘘がまかり通ってしまっているようです。
補注)在日が差別やイジメを受けた・受けないの論点を,この意見のように「2項対立的にきれいに分別でき整理しようとする思考」そのものが,実は在日たちの生活実態に即した説明にはなりえなかったし,もとよりまともな解釈すら妨げていた。
さらにいえば,メディアといってもいろいろであり,各種各様。どのメディアのことを具体的に指しているのからして,もとから出所不明な指摘になっていたゆえ,具体的な根拠とはみなせない。
『朝日新聞』や『毎日新聞』『東京新聞』の立場に対する『読売新聞』や『産経新聞』の立場は,ここで在日問題としてとりあげていた差別やイジメを受けた・受けないの問題とはまた別様に,それぞれ各社の次元なりにまったく個性的にも異なったとりあげ方をしてきた。
こちら〔本ブログ筆者〕の書き方としては,仕方なくも,メディアによってはいろいろ立場や思想が「異なっているはずです」としか説明のしようがない点もあった。
ところが,いまとりあげている論者の意見では当初,そちらでは「最初はそのはず」であったものが,ただちに「結論になるとそうだ」の断定にまで発展(飛躍!)させられるというお決まりの論法が目立つ。はたして,メディア全体を視野に入れたうえで,そして,日本言論界の流儀が個々別々でもある状況を,事前に詳細にしって踏まえた発言なのかすら疑問があった。
姜 尚中は「朝鮮人という理由で差別やイジメを受ける」ことを幼少期から事前に〔保護者の配慮もあって〕しっていたので,そしてまた,もともと永野鉄雄の氏名で生活していたので,人生の最初の段階では,あからさまな差別やイジメを受けていなかった。こういうふうな解釈も可能である。
ただし,当人が明確に説明していないことがらに関する推理であるから,他者が変に自信をもって,それも主観・一方的である「決めつけ」の解釈はおこなうべきではない。
「差別の社会学・社会心理学」の研究もあるのだから,もう少しは勉強したうえで,自信をこめた発言をおこなってほしいところであった。
だが,少しでも学習していけば,かえってそう簡単には断言的な解釈はできなくなるものである。もっと慎重な意見表明がなされるようになる「はず」だと思われる。(以上,補注の記述であった)
〔本文に戻る→〕 高校時代の同級生たちからすれば姜氏の行動や発言は裏切られたということでは済まされません。結果的には,済々黌高校では朝鮮人の差別やイジメがあった,同級生たちにもありもしない汚名まで着せたのですから,済々黌高校の名前にまで傷をつけたことに憤りを感じるのは,しごく当然のことかと思われます。
補注)ここまでいいきれるほどに記述するのであれば,同級生たちの1人や2人からは,さらに具体的に裏をとるべきではないか。語っているのは伝聞にもとづく記述であった。姜 尚中ほどの有名人である。本気で探そうとしたのであれば,そのあたりの材料は,ネット上でもみつかるのではなかったか?
その方面についての調査努力はなしに,「済々黌高校の名前にまで傷をつけたことに憤りを感じるのは,しごく当然のこと」と聞かされても,聞いたほうとしては,ただちに「ああ,そういうものですか,もっともですね」という受けとめ方はできない。
ここでとりあげている人の意見は,「自分の主張した中身」を,必要かつ十分な裏づけ・根拠もなく,ひたすら非難する論調でまとめあげようとしていた。これでは,話半分にも聞くわけにはいかない。
〔本文に戻る→〕 高校時代の友人たちを売った男というのが,姜氏のしられざる正体だったようです。自分の利益のためなら,友人には煮え湯を飲ませる。これがネットにおいて「生姜」と呼ばれる男の裏側だったのですが,検索をして気になったのですけど,ネット上では「中味のない男」とかなり叩かれているようです。こういう虚構の過去を作り上げた男だったのですから,中味のない男と叩かれるのはしごく当然のことなのかもしれません。
補注)姜 尚中は学者であり教員である。「中身のない男」だというのは,どのような要素・材料に関して断定的に繰りだされた判断でありえたのか。また,その判断基準はなになのか。第3者にはよく理解できない論法になっていた。
なかんずく,以上の姜 尚中「批判ならぬ非難」の理屈は,いいたいことをどのように読者に伝えたいのか,その工夫が全然ない,ひたすら論難・攻撃をするための言辞を並べるしか能がなかったのか。そうとしか感じられ手仕方がない。
〔記事に戻る→〕 お断りとして,文章を送っていただいた方には,このブログでとりあげることを諒解していただいております。
補注)これは単なる「お宅の内部事情」に関する釈明であって,これをもって,自身が開陳したつもりの「論旨の妥当性」が補強されるわけではなるまい。まあせいぜい,これからの必要になっていたが,アナタは「論旨の内部充実」に努めてほしいと要望したくなる書き方ではなかったか?
c) 平成22〔2010〕年6月19日追記
高校時代の同級生だった方々からの証言で,「彼は著作で『高校時代は野球部に入って野球に明け暮れていた』とあるが彼が野球部に所属していたという覚えはまったくない。」と,あったことを付けくわえておきます。
d) 平成24〔2012〕年7月28日追記
姜氏は,高校時代の野球部に所属していたことに関して,日本経済新聞と朝日新聞ではまったく反対のことを書きました。その件に関して以下の記事でとりあげました。
「日本経済新聞と朝日新聞では対照的な過去を書く姜 尚中氏」2012年7月11日は,「日本経済新聞では『レギュラー』だったと書き,朝日新聞では『2年生でやめた』と書いています。日本経済新聞で虚偽を書いたので苦情がきたのでしょうね。
--「日本経済新聞で虚偽を書いたので苦情がきたのでしょうね」という〈指摘〉であるが,実際にそういう苦情があったのかどうか,そこまでいうのであれば,きちんと追跡調査(事後の確認,事実の枚挙)をしておきたいところであった。
だが,このブロガーに当面において聞ける範囲内では,いいっぱなしでしかなかった。つまり,ネット上での放言に終止した,つまり,その無責任的な発言になっていないか,という懸念だけが残された。
※-6「姜 尚中が初告白「『悩む力』は亡き息子との合作」」『週刊文春 WEB 』「スクープ速報」2012年10月2日 18:00,http://shukan.bunshun.jp/articles/-/1872
この『週刊文春』記事は,⑥ の時期からさらに5年ほど経過してからの話題をとりあげていた。
--100万部を超えた大ベストセラー『悩む力』で有名な姜 尚中・東大教授が,長男が非業の死を遂げていたことを週刊文春に初めて明かした。
「息子は3年前に亡くなっています。最終的な死因は呼吸困難だったと思いますが,生まれたときから多分,神経のインパルスが欠落していたというのがあった。逆子で生まれてきて,羊水が肺に入ってしまい,保育器にかなり長くいましたから。人によっては神経系の接続が非常に悪くなったりする病気がある。それが大きな原因だったと思います」。
長男の死は,いまだに姜氏に重くのしかかっている。「隠していたわけではない。ただ,いまはまだ,悲しみが抜けてないから……。自分の不幸をわざわざ人には伝えないでしょ?」 しかし,いずれ長男のことは何らかの作品にしたいと考えているという。
「僕は本当の悲しみをしったうえで『悩む力』を書いているんです。息子の死があったから,僕は『悩む力』が書けた。これは息子との合作です。実際,読者のなかに,自分の命を絶つことをなんとか思いとどまった人はたくさんいるんです」。
「息子が悩みながら思索を重ねていったのは間違いない。まだ僕はその全容をしりえてない。もう少し息子について僕がよくわかれば,彼との対話というかたちで本を書こうと思っています」。
姜氏は本誌の取材に,来年3月末に東大を退職し,キリスト教関係の仕事にとり組みたいと語っている。(『週刊文春』からの引用終わり)
姜 尚中でなくとも,自分の子どもがまだ若いのに死を選んだとなれば,親としてはたまらない気持でいっぱいになるはずと推察する。姜は学者であるから,自分の執筆力によって,肉親の不幸をそれでも客観的に,文学的な作品に表現することできた。それはそれで余人にはなしがたい,世間に向けての自己表現力の発揚になっていた。
※-7「4月1日以降の『授業料返還』は難しい」『弁護士ドットコム NEWS 』2015年03月27日 11時26分,http://www.bengo4.com/topics/2870/
これは大学入学手続の問題のひとつ,納入金「返還」を話題にしている記述であった。前段のほうの話題に戻す記述となる。
日本の大学における話題であった。入学合格時に大学側に支払う金銭にまつわる話題に関連させて,姜 尚中が聖学院大学学長を辞めた事実が,法律専門家的な視点から論じられていた。大学への納入金の関連で,このような話題が具体的に話題になるのは,とても珍しい論点であった。
※-8「姜 尚中の歴史認識と丸山真男批判の陥穽- 『丸山真男と市民社会』を読んで (2) -」http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/theory/kan.htm という議論から
上記「論稿」がかかげていた細目論題のうち,ここでとりあげる個所は,「1,退場してゆく知識人は誰か?」の「 (1) どのような時代が終焉したのか」となる。以下に参照するが,かなり専門的な議論である。
--何度も何度も,繰り返し繰り返し,本当に執拗に同じことをいっている。姜 尚中がいう「ひとつの時代が終ろうとするとき」というのは,いったい,どういう時代が終わるときのことを指すのであろうか。
姜 尚中は「戦後という時代の終わり」だといっている。 姜 尚中の時代認識では,この20世紀も終りを迎えたいまごろになってようやく「戦後」が終わるのだろうか。日本国政府発表の経済白書では40年前の1950年代半ばに「もはや戦後ではない」と宣言されている。
それは日本人の今日の常識である。姜 尚中がその「戦後」という時代認識を経済白書とは別の意味で使っているのであれば,それをどのような意味で使っているのかを,ぜひ明確に教えてもらわなければならない。
補注)このへんの議論は,もとは1997年時点のものであった。それでもあえていわせてもらうと,安倍晋三「戦後レジーム〈否定〉論」を想起しておくのが好都合である。
戦後という時代(時期)は,大日本「帝国の敗戦」を念頭に置いて再考すべき論点を提示している。敗戦後の日本国はアメリカ軍〔を中心とする連合軍・GHQ〕に占領・支配・統治されてきた。
姜 尚中はそのさなかの,それも朝鮮戦争が勃発した年に生まれている。そのころ,日本社会になかでは「在日朝鮮〔韓国〕人」は,居ても居ないような民族集団と処遇され,しかも植民地時代の遺産として日本国内に生存しつづけていた特定の社会集団であったにもかかわらず,その生活の権利を不法に奪われていた。
一言でいってのければ,昭和20年代における日本政府は,自民族の海外からの引き揚げや,敗戦後における経済的貧困や社会不安に対応するだけで精一杯であって,自国の責任で国内に滞在することになっていた在日を,まるで「赤の他人」同然に処遇していた。
それも,かつては「1億,火の玉!」となって英米という敵国と戦うのだと叫ばれたとき,朝鮮人や中国人(台湾人)たちもコミコミにしての標語の昂揚であった。
ところが敗戦後は,在日という民族集団は「乳飲み子」や「老婆」までも含めて「総極悪犯罪人」であるかのように,GHQに告げ口されていた。吉田 茂(当時)首相がそういう告げ口をする代表格の人物であった。
この元首相のアジア諸国・民族に対する差別感は尋常ではなく,いまの視点から回顧すれば,日本民族的なアジア人差別感情を典型的に発露した政治家であった。旧「満州帝国」内で総領事もこなしてきて吉田は,アジア人全般に対する差別意識をたっぷり湛えてきた外交官でもある
〔本文に戻る→〕 そして,あまり素っ気なくしてもいけないので,なるべく姜 尚中に内在して彼の「戦後」の意味を了解しようとするならば,その「戦後」は,たとえば「戦後民主主義の時代」といういい方に置き換えられる実体・対象であるのかもしれない。
戦後民主主義の時代の終わり,戦後民主主義の時代の黄昏,戦後民主主義において支配的であった価値観の崩壊の時代の到来,それが姜 尚中がいわんとする「戦後の終わり」「ひとつの時代の終わり」の正しい解釈の仕方なのかもしれない。
仮にそうであるとして,はたしてその姜 尚中の時代認識は正確なものといえるのであろうか。その時代認識は,われわれ市民の皮膚感覚の時代認識と共通のものといえるのであろうか。答えはやはりノ-であろう。
補注)前後するこの発言者の意見は,21世紀における日本の政治にまでは視野が広がっていなかった。だから,それなりに制約があったとはいえ,20世紀的に自信に満ちていた日本人としての感性が正直に吐露されていた。
〔記事に戻る→〕 われわれ市民の時代認識において,また日々の日常感覚において,戦後民主主義の価値や意義は,意識するしないにかかわらず,やはり強力に生きているからである。
今〔1997〕年8月末の「家永教科書裁判」の報道においても明らかなとおり,それは日本人の市民生活にとってかけがえのない貴重な守り神としての存在感を,日々顕かにしつつある。
戦後民主主義の死を宣告する者は,政治的立場の左右を問わず広く無数に存在する。しかし,死を宣告されても,宣告されても,戦後民主主義は日本人の中でしぶとく必死で生き抜こうとするのであり,その生死が日本の市民のまさに物理的身体的な生死に直接かかわる問題であるかぎり,そう簡単に死んだり,過去の歴史になって消え去るわけにはいかないのである。
戦後民主主義の時代が終わるときというのは,明確に日本国憲法が廃絶されて「普通の国」憲法が施行されるときのことであろう。それこそが真の意味での「ひとつの時代の終り」の歴史的瞬間であるに違いない。そのとき,私は姜 尚中の時代認識にもはや異論を唱えることはない。
〔本文・引用に戻る→〕 姜 尚中のいう「戦後という時代が終わろうとしている」という台詞には実体がない。その言葉,表現にはなんのアクチュアリティも存在しない。あるのはただ,丸山真男の「近代主義」を批判するさいの枕詞,丸山真男を「過去の人」としようとするための,悪辣な慣用句としての存在感のみである。実体のない枕詞の台詞でも,百遍いいつづけたならば「偽りのリアリティ」が染み出してくるのかもしれない。
姜 尚中が本当に心から叫びたいのは「近代主義の丸山真男の時代が終ってポスト近代主義の姜 尚中の時代になったのだ」という一言なのであろう。叫びたければ叫べばよい。むりに我慢して婉曲的な表現に止めるのは,体に毒である。けれども,その叫びに共感して首をタテに振ってくれる市民社会のオ-ディエンスは,残念ながら1人もいないと私は思う。
補注)ここでは,この識者が姜 尚中を批判する〔できる程度にまでには〕「学識が充足されていない」市井のひとびとに対してであったが,まさしく姜が与えてきた理論的・実際的な影響力について,そのなにを・どのようにみていたのか,この論点のほうこそが,この識者が真正面から議論すべき対象であったと思われる。
それにしても,なかでもひとつ,とくに目立つ論調として明らかだったなのは,この識者が姜 尚中を嫌っているらしく,その〈感情の横溢〉ぶりだけは,たしかに実感できたことである。
と同時に,社会科学の勉強に従事してきた人間(本ブログ筆者自身のこと)としては,とりわけその方法論に関心をもつ人間としては,この識者の見解に賛同できなかった。
というのは,姜 尚中の学問じたいにそれほどに執着し,批難しなければならない「論点のなにか」がありえたのかといった類いの,すなわち,そのもっとも根本的な領域に関して疑念を抱いたからである。
もっとも,丸山眞男の理論水準をいつまで経っても超克できない「日本の社会科学」全般にも,そもそもの問題もあった。しかし,丸山眞男の存在じたいに必らずしもこだわるのでなければ,日本の社会科学全体のなかに進歩の足跡が力強く形成されている事実が,よりみえやすくなるのではないか。
〔本文に戻る→〕 いまの時代は歴史的転換期だとか,ひとつの時代がいま終ったとかいって,中身のない文章を仰々しい言葉で飾り立てるのは売文家たちのつねである。売文家たちが小遣稼ぎに文章を書けば,毎日毎日が歴史的転換期の決定的瞬間となる。
NHKが『秀吉』を演ると決まれば「いまの日本は戦国時代と同じ歴史的転換期の真っ只中」となり,NHKが『徳川慶喜』を演ると聞けば,月刊誌の正月号は「現在の日本は幕末維新と同じ激動の歴史的転換期を迎えた」と騒ぐ売文屋たちの文章で一色に染まる。
要するに,1日1日の退屈で味気ない日常のなかで,庶民が「現代」を歴史的転換期に準えることによって束の間の興奮と仮想現実を楽しんでいるだけである。それらは居酒屋でサラリ-マンが流しこむジョッキのビ-ルと同じである。
(以上で※-8で取り上げた議論の参照は終える)
さて,「時代は歴史的転換期だとか,ひとつの時代がいま終ったとかいって,中身のない文章を仰々しい言葉で飾り立てる」売文家の時代は,なんども間欠的,周回的にめぐってくるものなのか?
いまから80年以上も以前,戦争の時代にあっては「日本帝国の世界的使命」が大げさに提唱され,時代の大転換が叫ばれていた。姜 尚中の出版物のなかにそれに相当する「裏返し版」的な実質が含意されていたかどうか,本ブログの筆者にはただちに判断しかねる。
どだいの話=要請となる。姜 尚中の学問に対して反発する議論は,議論として展開されるのは当然であるけれども,第3者に向けるものなのでありたいならば,もっと説得力を発揮しうる文体で書くなり,それなりに工夫された話法を使ってほしいところであった。
また,本ブログの姜 尚中「観」については,とくに彼の履歴に関する疑問点を指摘しておいた。冒頭には,この指摘に関係した本ブログ内の別の記述を紹介してあった。こちらの参照も乞いたい。本ブログ筆者の,姜 尚中自身に関する疑問点が説明されている。
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以上の2著に共通する「姜 尚中批判」への基線は「北朝鮮の独裁体制に擁護的な人間」の根底に控える「民主主義社会への背信行為である」(鄭,260頁)。