国際経済学会編『北支経済開発の根本問題』刀江書院,1936年6月に「北支経済開発と企業形態」を書いていたマルクス経営経済学者の戦時協力姿勢
※-1 本稿の意図-内外文化研究所編『学者先生戦前戦後言質集』全貌社,昭和29〔1954〕年4月という70年も前に発行されて本があった-
この記述は,戦前の戦時体制期(1937年7月7日から1945年8月15日〔9月2日〕)において,学究の場合,それも経営学者のなかではほんの数名しか存在しえなかった本物の反体制派以外は,「戦争の時代」にその程度においていくらかの差はあれ,基本的には例外なく協力した記録の残した。
以上の指摘は解釈として述べる発言ではなく,実際に「歴史の軌跡」として経営学者たちが戦時体制期(これ以前の「非常時:満州事変の開始」1931年9月8日からも含めての話なるが)に,どのように学問の営為をしつつ,かつまたどのような理論的な主張を展開してきたのか,これをありのままに解明していけばおのずと明らかになる「当時の誰にも通有された特徴」がみいだせる。
敗戦後10年に近づいたころ,こういう本が出版されていた。内外文化研究所編『学者先生戦前戦後言質集』全貌社,昭和29〔1954〕年4月である。この改訂版もあって,書名を『進歩的文化人-学者先生戦前戦後現地集-』全貌社,昭和32〔1957〕年4月,に変えていた。
昭和29年版の「はしがき」がまず,つぎのように批判・指弾する文句を繰り出していた。
内外文化研究所編『学者先生戦前戦後言質集』全貌社,昭和29〔1954〕年4月が一覧的に枚挙した「著名というか有名だった諸氏」は,いってみればあらゆる分野に跨って存在した。
この記述で取り上げるのは,前段の引用のなかで言及されていたマルキシズムの立場うんぬんにかかわっていた経営学者の1人,佐々木吉郎である。
※-2 マルキスト経営経済学が余儀なくされていた戦時協力の問題
経営学界に目をむけてみた話題となる。前提となる関連の事情から少し説明しておきたい。
日本マルクス経営経済学の始祖となった中西寅雄は,「経営経済学』(日本評論社,1931年)を公表したのち,1936年に『経営費用論』(千倉書房)を公刊し,一見したところでは,マルクス的な経営学論の痕跡を打ち消したいかのようなそぶりをしていた。
実はその後,東大経済学部に起きた事件,「平賀粛学」(1939年1月28日)に発生・紛糾が原因して,中西寅雄は連袂辞職を強いられている。その事件で中西はけっして中心人物ではなく,恩師につらなっての東大辞職とあいなっていた。
さらに経営学の労務管理論領域では,古林喜楽『経営労務論』東洋出版社,1936年)が名著として有名であるが,古林自身が敗戦後になって告白していたように,同書は「奴隷のことば」で書かれた著作であった。
さらに佐々木吉郎の場合は,販売管理(戦後風にいえばマーケッティング)論領域において,マルクス経済学的な発想で書いた著作『商業経営論』章華社,1933年を公刊していた。
しかし,1939年に発行した佐々木吉郎の『経営経済学総論』(中央書
房)以降は,自身の学的な立脚点を顕著に変質させ,戦時体制下の国家目的を是認する立場に逢着した。
ここに昭和13〔1938〕年6月に公刊された編著がある。その題名は,国際経済学会編『北支経済開発の根本問題』(刀江書院)である。本書は,当時をかこむ世界情勢をつぎのように説明していた。
ところで,昭和13〔1938〕年4月1日,国家総動員法が公布され,5月5日に施行された。前年の昭和12〔1937〕年7月7日に開始された日中戦争は,この国家目的遂行のため,すべての物的・人的資源を動員する態勢を「持たざる国」日本に要求するほかなくなっていた。
この意味で,著作『北支経済開発の根本問題』昭和13年6月は,社会科学者たちが “職域報国精神の具現化” として公表した “赤誠の業績” の1著である。
同書の執筆陣は,編者に相当する楢崎敏雄をはじめ崎村茂樹,川西正鑑,佐々木吉郎,金原賢之助ら5名である。なかでも佐々木吉郎は,戦前から著名な経営学者であり,とくに日本マルクス経営経済学の創建者の1人と目されている。斯学界ではそれなりに偉大な人物として尊敬されてきた。
佐々木吉郎は,本書『北支経済開発の根本問題』に「北支経済開発と企業
形態」と題した論稿を寄せていた。本稿は,マルクスの立場から一質して学問を展開してきたと一般的に認識される日本の経営学者が,
戦時体制期〔とくに昭和10年代前半〕以降,全体主義国家体制に対峙せざるをえなくなってからであったが,学問の立場からどのように協力してゆき,また,どのように経営学という社会科学を理論的に営為していったかを,具体的に物語る実例を提供した。
佐々木は,こう述べていた。
佐々木吉郎は,北支経済開発において問題としていた諸事業の企業形態に関して
1 ブロック経済の基礎のうえに立たねばならない,
2 したがって統制経済の意義を実現しうるものでなければならない,
3 必要資本を調達しうるものでなければならない
という3点を前提条件に挙げていた。
註記)『北支経済開発の根本問題』149頁。
そして,北支資源の利用および開発に適する企業形態は,株式会社組織に基礎を有する統制経済の方式として現われうるものでなければならない。しかして,この種の統制経済方式となっているものは,カルテルと持株会社であると主張した。
註記)同書,150頁。
佐々木はさらに,こういっていた。
佐々木吉郎学説における発展の軌跡をたどり,その歴史的な全体像を観察してみるに,彼がマルクス主義的経営学者であった事実は,一定の紆余曲折があったものの,全体像として否定する者はいない。
しかしながら,佐々木が『北支経済開発の根本問題』昭和13年に執筆した論稿の「北支経済開発と企業形態」は,前段に引用したとおり,「何時の時代に於ても,一つの皇道精神に基づいて,その負はされた歴史的任務を建設的に且つ忠実に,だが熱と意気とに於て力強く,果たしてきた」のであり,だから「現代の吾人達も亦同様にその負はされた歴史的任務を果さなければならない」と主張していた。
註記)『北支経済開発の根本問題』125頁。
すなわち,佐々木吉郎の同稿「北支経済開発と企業形態」は,当時日本の中国侵略を全面的に承認し,協力する〈立場〉を明示していた。たとえ戦時体制期下であっても,マルクス主義の思想・信条に与し,徹するつもりだった社会科学者の立場としては,いささか拍子抜けさせられるほどしごく簡単に,逆立ちする仕儀になっていた。
少なくとも,敗戦後史になってからの佐々木吉郎の学問展開に照らしていば,中国侵略を是認するような論稿を公にすることはけっしてなかったはずである。このことは,いちおうだが,今〔敗戦後〕も昔〔当時〕もかわりなかった点だと思われる。
ところが,当時におかれた佐々木吉郎は,先述に登場させた古林喜楽が工夫したごとく「奴隷のことば」を駆使してても,マルクス主義の学問精神を生かす方途で旧大日本帝国のあり方に批判をくわえたのではなかった。
そうであったよりも,当時において日本経営経済学に課せられた「皇道精
神にもとづく歴史的任務」を,ただ人並みに唱和し,観た目には自然に翼賛する学問を展開していた。この事実は,当時,佐々木の書いた論文の〈字面〉そのものを読むかぎり,それ以外に解釈のしようがない。
明治大学においては,戦前からの商学部ではなくて,戦後のとくに経営学部においては,マル経の学者たちが数多くした。けれども,佐々木吉郎の学問・理論が戦時体制期であれば確かに理論営為をみせていた,当時の「大政翼賛志向」であった学問の方途を,そのうちの誰かが戦後になってからだが,なんらかのかたちであれ,問題性を感得して発言した者はいない。さらには,日本の経営学者たちのなかからも,佐々木吉郎のたどってきたそうした理論営為史に関心を向けた論及も,いっさいなかった。
補注) なお参考にまで,以下の点を指摘する。
佐々木吉郎関係の記念論文集として公刊されていた,佐々木吉郎博士還曆記念論文集,古林喜楽・藻利重隆・醍醐作三編『経営・会計の理論』泉文堂,昭和37年,および,佐々木吉郎追悼集刊行会代表者 配醐作三『回想 佐々木吉郎」雄松堂書店(製作),昭和47年は,佐々木の業績一覧においてともに,本記述が注目して取り上げてみた,この論稿「北支経済開発と企業形態」を記載していなかった。
※-3 日中戦争において経営学が果たした役割
遼寧省檔案館,小林英夫編『満鉄経済調査会史料〔第4卷〕』拍書房,1998年に収録された,満鉄経済調査会「北支経済開発ノ投資機関綱要」昭和11年1月の「緒論第1前提」および「結論」は,昭和10年代になってからの
北支地域を,つぎのように位置づけていた。
日本政府は,昭和11〔1936〕年1月13日に「第1次北支処理要綱」を決定し,華北〔北支〕5省の国民中央政府からの分離促進の方針を打ち出している。
満鉄経済調査会の上記文書「北支経済開発ノ投資機関綱要」は,満州国〔実質は関東軍〕が,当時の情勢を考慮しつつ,満鉄〔南満州鉄道株式会社〕の頭脳に作成させたものである。
昭和12〔1937〕年7月7日,日中戦争がはじまった〔日本は7月11日「北支事変」と命名し,9月2日「支那事変」に改称する〕。同年12月13日,南京占領。
翌,昭和13〔1938〕年4月1日,「国家総動員法」公布。同年10月27日,日本軍は武漢三鎮を占領した。そして11月7日,中支那振興株式会社(資本金1億円,総裁児玉謙次),および北支那開発株式会社(資本金3億5千万円,総裁大谷尊由)が設立されている。
昭和10年代前半,日本帝国による占領地政策の推進展開に対して,経営経
済学者佐々木吉郎が専門的立場より提言·教示しようとしていた論策が,まさしく「北支経済開発に必要な企業形態のありかた」であった。
マルクス的経営経済学者佐々木吉郎に関する以上の指摘は,主に戦後にお
ける業績をとおして彼をしりえた関係人士には,いささかならず衝撃的な
事実かもしれない。だがこれは,戦時体制の渦中に巻きこまれていった佐々木が,自分の学問業績として実際に記録したその一齣であった。
戦時体制の進行,深化にしたがい,佐々木吉郎はさらに,同質同類の諸論稿を公表していたことも指摘しておく。事実は事実,これから目を背けて,日本経営学史の真相に近づけるはずもない。
※-4 ところで,ここで付論的に関説しておくべき,それも「近経的な立場」からであったが,経営学「論」を展開していた学者としての山本安次郎がいた。
この山本安次郎の場合,マル経の立場にあった佐々木吉郎とはまた別様にではあってもまったく同様に,戦時ファシズムの時代状況のなかで,満州帝国に創立された「建国大学」に経営学者として赴任し,つぎのような自説を提唱した。
山本安次郎は,戦時翼賛経営理論の具体的な構想として「公社企業」論を発想し,つまり「満州(帝)国」ならびに大日本帝国のための経営実践論として提唱した。
山本安次郎のその主張が批判的に吟味されねばならない点は,時代が敗戦後に移行したのちも,その《立論の核心》がきわめて有効である,と強説された事実をめぐり不可避であった。
ここではひとまず,山本安次郎の思想的な出立点そのものを,根源より解明する作業が要請されていた。
その山本「公社」企業論は,前掲『北支経済開発の根本問題』において論及され,要求されているとおりに,ただし「満洲国のためになる学問」路線を敷設していった。
つまり,同書におけるその立論は,日本帝国による中国「大陸国家形態の内容的完成」を,経営学者に課せられた「歴史的任務」「世界史的使命」であると規定していた。
また,「満州国」の「会社建設〔は〕 …… 其方針を誤らず周到なる計画の下に準備を進め,会社幹部の人選を誤まらざること」であって,かつ「未熟官僚を排せよ,通俗実業家を避けよ。高遠なる理想の上に,達眼能く世界の大勢を洞察し,辣腕以て事に処する人士のみが,此大任を果し得る」といっていた。
すなわち「よき意味においての,あるいは革新的イデオロギーのうえに立つところの,国家と資本家との抱合を必要とする」と主張していた。
山本安次郎の事例として問題にした,戦時翼賛経営理論:「満州公社企業論」は,いままで根本的批判を受けられる機会をもたなかった。というよりも,これまでその必要性をまったく感得されないまま,戦後の学界を生きのびてきたのである。
山本安次郎は,戦時体制下のカイライ国家「満州国」における事業経営を原理的に把握する基本理念が,「会社の公社への革命」「会社革命」であると表現していた。
註記)山本安次郎『経営学研究方法論』丸善,昭和50年,147頁。
しかもその把握に明示された立場は,今日(敗戦後の日本本土)にあっても「十二分に通用する〈経営学の優越的な認識基準〉だ」と豪語するごときに,非常なる自信に満ちあふれてもいた。
だが,はたして学問の世界にあって,それほどまでにすばらしくも卓抜で独創的な理論構想がありうるか? 多分,眉唾物ではないか。筆者はその種の疑いを抱き,「山本学説」を論究する必要を論じていた。
ここ(※-4)ではその事実を断わっておくだけで,記述を終わりにする。本ブログ内では関連させて,別に議論している。ただ,つぎのごとき,以上の記述全体に関係する指摘を,末尾になったが,あらためて紹介しておきたい。
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