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林 廣茂『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』2019年

 ※-1 はじめに

 この本,林 廣茂『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』はちくま新書として2019年6月10日に発刊されていた。著者の林の名前はよくしらなかったが,経営学界(学会ではなく)のなかでは,ほとんどしられていない学究だとみうけた。

 この同書に対する批評的な議論は当初,2020年9月12日にいったん公表してあったが,本ブログ筆者がブログサイトを移動してきた関係で,お蔵入りしており,いままで公開していないままであった。

 ということで,本日,2024年7月18日に復活・再掲することになった。もちろん,記述してあったもとの内容には更新・改訂の作業がくわえられている。

 この記述では,林 廣茂『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』筑摩書房,2019年が試みた「経営思想史と哲学一般史を交差させた議論」から当方が感じとれたいくつかの論点について掘り下げ,批評してみたい。 

 この記述の基本的な問題意識,読了後にえた率直な感想は,著者「独自の問題意識」が提供しようとしたはずの「独創性ある論旨」が,読者に向けて円滑に伝達しえたかどうか,まだ疑念を残すという結論になった。


 ※-2「第二次世界大戦の犠牲者」に関して生じた疑念から議論したい

 イ) 本書,林 廣茂『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』2019年は,アジア・太平洋戦争における「日本軍の戦没者310万人,アメリカ軍の戦没者は最大で10万人」(330頁)と書いている。だが,このアメリカ軍の戦死者「最大10万人」という戦死者の数値を目にした時,即座におかしいと思った。

 案の定,ウィキペディアにはアメリカ軍の「戦死者」は,41万6800人--内訳としては商船員9500人と沿岸警備隊1900人を含む--であると説明されている。

 この付近の数値が,それも明らかに誤記あるいは誤植ではなさそうな結果として,間違われているとしたら,しかもアメリカ軍の戦死者に関して,そのように数値を大幅に違えていたとなれば,これはなかなか想像すらしにくい誤説であった。

 いきなり類推的に述べざるをえないが,林の本書には,このたぐいに似た論及がほかにも多々ありそうである。この種の問題として感じた「執筆の流儀」に関してとなれば,さらに注意をして読まざるをえない。

 ロ) また,「戦闘で死亡した兵士の数よりも,軍に支援を断たれて飢餓と疫病で死んだ兵士の数が多かった(吉田 裕,2017)という無残な死を強要した」(330頁)と記述された内容に関しては,藤原 彰『餓死した英霊たち』ちくま学芸文庫,2018年(初版は,青木書店,2001年)が,原典の参考文献として広くしられているが,

 この関連については,それ以上の言及がない記述であったせいか,その日本兵には餓死者が多かった戦史に関する詮議が,ややなおざりであったという印象が避けえなかった。

 林の本書が参照した吉田の文献は『日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実-』中央公論新社,2017年であった。この本の該当する章節には,藤原 彰『餓死した英霊たち』2001年が初めて,まとめて報告したアジア・太平洋戦争史に関するその事実が,間接的に紹介されていた。

 ハ) しかし,林『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』2019年は,議論じたいのなかでは,そのあたりの戦史の事実経過に関して,藤原の原著がじかに当たっていた様子が観取できなかった。

 林の同書は確かに,巻末の「参考文献」の一覧に,その藤原 彰『餓死した英霊たち』2001年(文庫版,2018年)を挙げていなかった。

 日本経営哲学史,すなわち「日本の経営史(併せて経営思想史)」と「日本の哲学史」を交差させ重合する討究をめざしたいのであれば,それぞれの学問領域における先行研究の綿密な事前研究と併せて,これに対しては独自に,「経営哲学」をめぐる「精神史・理念史」の解明も要請されている。

 すなわち「経営の哲学」を主場にして,より幅広い分野にまでわたる事実史・展開史を企図したというならば,より正確な理解とより広域にまでおよぶ思想史的な論究も担保されておく必要があった。

 

 ※-3 とりわけ,「日本人『らしい・ならでは』のアイデンティティーを踏まえた経営哲学」という俗論っぽい認識の方法について

 前項にまで論じた問題性,これをあえてほかの表現でいうと,例の「たられば」的な経営哲学論に変質していなかったかという疑念が生じてくる。

 独自的な表現の方法(「らしい・ならでは」というもの)がありうるならば,アメリカ人「らしい・ならでは」とか,フランス人「らしい・ならでは」とか,中国人「らしい・ならでは」とか,韓国人「らしい・ならでは」という表現もまた,それぞれの国風なり成立可能である点は,容易に認められる。

 要は,そのようにまでして,この「らしい・ならでは」という基本観念を拡延させていけると仮定が確保できれば,こちらなりにそれぞれの各国風に「らしい・ならでは」にしたがうところの,それも『特殊性と普遍性の統合』に関してもまた,個別ごとに組み合わせられうる「基本的な概念規定」が定立されてよい。

 だが,そこまでは配慮がなされていない。日本だから,この国風に「らしい・ならでは」というものが,「特殊性と普遍性」の対・概念の舞台で議論できるかのように,ともかく仮定的ないしは先験的に弁じられていた。

 つまり,「日本の特殊性」のなかでこそ,「特殊性と普遍性〔とこの統合〕」が議論されることが,あたかも予定調和的に期待されていた。つまり,こちら:日本の圏内で完結しうる要領(議論の前提措置から検討の過程から結論の導出まで)が,当然でもあるかのように位置づけられ語られていた。

 そうなるとそれゆえに,「日本は特殊だ」といえるだけの「普遍側からの詮議」が,議論の最初に確保されるべき基本条件として,十全に準備されていたのかという疑問が浮上してこざるをえない。

 以上の疑問をより具体的に指摘してみたい。

 イ) 要は,まず「経営哲学史に相当する一定の概念枠組」はあったのか,準備されていたのか? 

 経営哲学史だと「そう題した」著作を公表するからには,その本質論・方法論,つまり哲学論側からの討究が最低限は欠かせない。もちろん,林の本書からは,冒頭から「そのこと」を執拗に論及していたのだ,という反論:回答が出てくるかもしれない。

 だが,実はそのあたりの論旨が,そもそもだいぶ散らかっていた議論にしかなっていない,という印象が回避できなかった。著者・林 廣茂の筆法の範囲には収まりきれなかったと思われる「関連する内容の展開」を残したがゆえ,かえって問題点が未解明部分,換言すると,尻つぼみ,あるいは散漫な論旨の進行となっていた。そうした惜しい顛末がをもたらされていた。

 ロ) 林の本書は,日本の哲学史関係では鈴木大拙を登場させていたが,西田幾多郎や田辺 元,戸坂 潤などは議論する対象・材料として,そもそも出ていなかった。大拙で日本の哲学が全体的に代表されるという定説は,いまだに登場していないし,これからもありえない。

 左右田喜一郎の「経済哲学」も姿を現わさない。三木 清の「構想力の論理」や,九鬼周造の『「いき」の構造』もとりあげられていない。これらの経済学者や哲学者を登場させねば,絶対にいけないという完璧な理由事情はないとはいえ,「日本経営哲学史の特殊性と普遍性」を論点にもちだしたからには,この論点に食いつこうとした識者の立場じたいが,どうしても食い足りなく感じさせるほかなく,換言すると,いくつかの必要不可欠であったはずの「欠品状態」にすぐ気づく。

 ともかく林 廣茂の書名を『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』としたこの本は,その “歴史的に踏まえたはずの基本の観点” が奈辺にあるのか読みとりにくかったがゆえに,結局不詳に終わっていた。

 要は,歴史の問題を論究しようとする姿勢のなかに,「経営史と哲学史」あるいは「経営問題に対する哲学史あるいは思想史」といった視座が実際に,いかほどの深度にまで介在せしめられていたのか,と問いたくなった本ブログ筆者の関心事からすると,なお不明瞭というか不可解な残存領域を推測させるほかなかった。

 ハ) 経営史学史的の研究がその付近の問題を解明していないわけではなく,確かになされてきた。だが,林の本書ではとくに,それに向けて焦点をしぼった確定的な言及があるとは感じられない。これもまた,そうでなければ絶対にいけないとはいわない。だが,やはりなにか,先学の蓄積を生かし切れなくさせている “原因の一端” を,確かに感じさせている。

 経営史研究に関した研究業績はいまでは豊富に与えられている。もちろん林 廣茂の研究志向に照らしていえばまだまだ不足・不満を残した分野もあるものの,こちらのその「不足・不満」への指摘や顧慮とは少し離反した地点から,『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』は議論していた。

 林の同書は,記述というか議論そのものは非常に詳しく,しかも多岐にわたっていて多彩でもある。ところが,なにが核心の論点として定置されていたのか,もっと端的にいえばその捕捉しにくい特徴を,その作風(執筆姿勢)が逆に造り出していた。

 二言目には必らず,「らしい・ならでは」であるという修辞が乱発されている(あまりにも多く記述に使用されていて,それを数える気にもなれなかった)。その修辞が本書の本線というか補助線にもなっていて,論旨の中心部を貫いている。

 けれども,素性のはっきりしない「台風の目」でもあるかのように,それだけがただ疾風的に先導していると感じられてならない。そこまで多用されえんばならない「修辞法」だとしたならば,そうした表現方法がなにゆえ使用されるのかという点は事前に,読者に対して誤解など生まないだめにもきちんと説明し,納得(理解)してもらうべきであった。
 

 ※-4 日本の企業「観」にかかわって,その日本人「らしい・ならでは」というものが,なんどでも繰り返されたが,この仮定法ならぬ「推量の思考路線」が問題

 イ) だが,前段で指摘したように,林 廣茂が自著『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』にこめた意図じたいに関しては,事前の説明がさらに必要だと読者の側から伝える間もなく,日本人「らしい・ならでは」という常套語が,ともかく無条件的にだったのか,やたら頻繁に繰り返し使用されていた。

 となれば,いささかならず食傷気味になって,この「らしさ・ならでは」を眺めるほかなくなった。その日本人に関しての「らしい・ならでは」という決まり文句は,『自明の聖域』から天下り的に派遣された,いうなれば〈先験的な慣用語〉として運用されてきたものなのか,とまで勘ぐりたくもなった。

 「日本経営哲学史」の研究(者)を自称するならば,まず日本の経営史に関した基本的な方法論の披瀝があっていいし,つぎに日本の哲学史に関した基礎的な省察があってもいい。

 だが,林 廣茂の本書『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』は,既存として豊富にあった,つまり所与の「日本の学問」の諸関連領域において用意されてきた既存の豊富な成果・業績を,今回の著作なりでよかったのだが,必要かつ十分に活かしきれていない。

 林 廣茂の本書『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』のなかにおいては,盛りだくさんの内容物があちこちでこぼれ出てきては,読む者をして,これでは収拾のつかない論旨だと感じさせる場面がなんども発生していた。

 したがって,一歩間違えれば,いまの日本で目立つ感傷論 “にっぽん,スゴイ!(論?)” に急接近しがちな意図が,それも当初から無意識的に仕こまれていた著作だったのではないか,とまで邪推までされかねない。

 ロ) 特殊性についての議論はある程度分かるが,それに対して普遍性についての議論が分かりにくかった。

 この国が “ジャパン・アズ・ナンバーワン” だと褒められた時期は,「日本の特殊性に関する〈尺度〉」が「世界の普遍性を計れる基準」になりうるかのような,換言するに,たいそうな確信までもてる体験を,日本人たちはすることができた。

 ところが,いまではGDPの水準でも相当にその地位が沈下してきた日本の国力を念頭に置いていえば(現在はアメリカ⇒中国⇒ドイツのつぎ,第4位まで低下している),日本の産業経済の実力・特性の源泉であるはずであって,まだこれからも誇っていたかったはずの「日本の特殊性(スゴイ性)」は,すでに “世界の普遍性” からだいぶ遠くにまで離れてしまい,スゴイことはほとんどなくなった。

【参考記事】 いまの日本,まだ好業績であるトヨタ自動車でさえこのさきは大丈夫かと懸念されており,国内の業種としては観光業しかないようなこの日本になりつつある。2024年中の訪日観光客は3480万人近くと推測されている。

 ここで,みずほリサーチ&テクノロジーズが公表していた『2024年のインバウンド見通し』を参照しておきたい。ただし,以下は,本ブログ筆者の語りである。

 すでに主な観光地では,急激な外国人観光客の到来が,地元民の日常生活に支障(混乱・摩擦)を来たしはじめている。

 海外に目を向けると,スペインの観光地として有名なバルセロナでは,市民たちが外国人観光局に向かい「来るな,帰れ!」とひどく反発する動きまで生じていた。これは例外的な現象とはいえ,最近の日本事情にとってけっして他人事ではない。

 日本の京都市内のバス路線では,一般市民が,大きな荷物をもちこむ外国人観光客のために,ふだん利用しているバスに乗れず会社に遅刻したなどといった現象まで生じていると,ボヤく市民まで出ている。

 外国人の観光客はタクシーを大いに利用すればよいのだが,彼らは「高い」といって乗らないという。彼ら観光客にとって円安の有利性が国内タクシー運賃には効いていないのかと不思議に感じた。旅行中に節約をこころがけるにしても,である。

みずほリサーチ&テクノロジーズ『2024年のインバウンド見通し』

 
 --話題を本論,林 廣茂の本書『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』に関した記述に戻したい。

 だから,「日本人『らしい・ならでは』のアイデンティティーを踏まえた経営哲学」と力説したい場合,なにをその特殊性としてとりあげ,このなかからなにを普遍性をみちびき出せるのか,あらためて考えなおさねばならない。

 つまり,その「特殊性(個別性)と普遍性(全体性)」の統合次元におけるの「日本人の経営哲学」は,具体例としてどこの誰にどのように実在するかに対してまで,あらためての追究が要請されている。

 ところが,通奏低音としてその「日本人『らしい・ならでは』のアイデンティティーを踏まえた経営哲学」が,前面にかかげられるかっこうで全面的に(突出的?)喧伝されたかのような論旨が,徹頭徹尾,維持されていた。

 そうなると読む者の立場からしたら,「著者の思考方式に賛成するとか,いや,反対だとかといった」次元のほうへと,関心が単純に「目移りしていく」ほかなくなる。 


 ※-5「日本人『らしい・ならでは』のアイデンティティーを踏まえた経営哲学」論は,「経営史と哲学史の混合体」になる性質を有する。

 a) それゆえ,「日本思想史全体の関心」をも基礎部分に注入し踏まえたうえで,理論以前の語り口として,いいかえれば説明不全になりがちな「独自の主張」が,極力一人歩きしないようにする歯止めが必要であった。

 著者が博識であり勉強家であり,だから博覧強記である実力ぶりはよく理解できる。しかし,日本経営哲学史としてなにをどのように論じるかというよりは,ひたすら,日本における「あくまで哲学的に論じた日本企業家の事業経営成功物語」であった。

 それゆえにだったのか,「日本人『らしい・ならでは』のアイデンティティーを踏まえた経営哲学」が,特筆大書される方途で提唱されていた。かといっても,その失敗物語からであっても,当然「らしい・ならでは」の理屈を読みとる余地が大いにあった。
 
 ところが,より厳密にいうとしたら,そうした種類の「成功物語」への志向性だけでは,学問論としての経営哲学史は成立しづらい。どの国のそれであっても,である。「失敗物語」も含めてなにも悪いことはない。含めたほうが豊かな内容になる。

 むしろ,そうして論じた方向性のほうが,実際には「日本の経営哲学史」の全体像の輪郭を,より包括的に明確にしえたのではないか。旧大日本帝国陸海軍史に関して記録してきた『失敗の本質』を詳細に検討した著作が,いまもなお多くの人々に読まれる事由を,ここで蝶々と説明する必要はあるまい。

 要は,社会科学論としての経営史学史の観点から,その「日本経営哲学史」の路線を整備しきれていなかった。「発想・着眼の独自性」が「学問・科学としての独創性」にまで到達しそこねていた,ということになる。

 b) 林 廣茂『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』の表紙カバーの上にさらに捲かれている帯には,この本に関係する文句が記入されていた。ただしこれは,ブログ筆者が購入した同書に捲かれた帯の画像であったので,くわえてネット上から拾った同書のそれを,以下に逆順になるが紹介しておく。

この表紙カバーに帯は巻かれていない
帯ありがこれ
この帯をとれば上の画像となる

 本ブログ筆者のもつこの本の帯は,2024年7月3日から発行されはじめた日銀券「1万円札」の肖像画となった渋澤栄一が紹介され,この人物の話題との関係ありという具合に,本書が宣伝されている。

 しかし,いわれたところの「(日本の)特殊性と(世界の)普遍性」とが相即的に円滑に因果しえているかといったら,必らずしもその意図が成就されているのではなかった。

 いいかえると,上のカバー表紙に書かれていた文句は,こうなっていた。

 日本人「らしい・ならでは」の思想と経営哲学を再発見しなければならない。企業経営の「コトの価値の想像力」×「GID競争力」を強めるために,今日の経営哲学を再定義し,その日本的特殊性とグローバルな普遍性との共生と衝突を避けない,それでいて両者を最適統合する必要がある……

カバー表紙の文句

 昔から日本的経営論という表現をもって,この国における企業論があれこれ論じられてきたが,「ジャパン アズ No.1」を誇れた一時期ならばともかくも,いまどきだと,インバウンドの需要・収益を大いにアテにしなければならなくなっている「政治4流(嘘つきの自民党政治屋が跳梁跋扈)」および「経済3流(トヨタ自動車でさえ時代遅れの会社になりつつある現状」のなかでとなれば,

 この林 廣茂『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』でのように,帯に宣伝用に動員された渋澤栄一からだったのか,仮に〈縁起のよいオミクジ〉らしきモノが送られてきたとしても,いまどきのこの日本,それをまともに活かせない「政治・経済」体制の国家になりはてている。

 c) 酷評になるが,要は空振り三振の提唱であった。理念がさきか実践があとか,などと悠長に考えこんでいるヒマなど,いまや完全にないのが,この国の政治・経済の本当にホントウの実情ではなかったか。

 企業経営問題を「経営哲学」史として述べるのだという試図は,むげに否定できない。だが,なにを念頭に置き,なにを材料にとりあげ,なにを理念にかかげ,そしてなにをめざそうとしたのか,結局,よくは分かりえなかった。

 林の同書は,著者の勉強ぶり,主張の展開への意欲の高ぶりをよく理解させてくれる。だが,さあそれで,現状日本における企業経営が,今後に向かうべき展望のもとで,どのような舵取りをすればよいのか? この大事な要衝にかかわる議論にまで到達しえていなかった。

 著者がたいへん博識なのはよく分かった。だがそれからさきが,さっぱり伝わってこなかった。なぜなら,主張されている核心部分の実現可能性が,皆目期待できそうにもないからであった。

 d) 話題を変えよう。

 岸田文雄はいま,ロシアの侵略戦争に苦しむウクライナにとりあえず5千2百億円の支援を送ると決めていたが,この「世襲3代目の政治屋」は自分がこの9月に向かえる自民党総裁選に再選されることにしか,それも完全に異次元的にしか,関心のありえない御仁であった。

 この人,自国が21世紀中の半ばには,もしかすると完全に沈没するかもしれないという危機感など,まったくもちあわせない,とてもオメデタイ旧来型の自民党議員の1人であった。


 自国の庶民のなかには3度の食事が摂れない毎日を過ごしており,夏休みに入ったらその頼みの綱である「学校の給食」が途切れるので,この貧困に苦しむ世帯(シングルマザーの家庭が多い)からは,夏休みを廃止するか,そうできないのであればこの夏休みの期間を短縮してほしいといった要望まで出ているとかで,

 e) さらには,あの「嘘つき機関砲」の小池百合子が,2024年7月7日に実施された都知事選で3選されていたが,この嘘しかいえない(「いわない」のではなく!)女性政治屋による,たいへん豊かであるはずの都財政の無駄づかいもまたひどい。

 可処分所得では実質的に47都道府県のなかでドンジリの東京都の知事が,そうした事実を,恥ともなんとも思わないでいられる神経は尋常ではない。それでいていままで,自分のための遊具として利用する都政ならば,これのみは持続的に発展させえたつもりになり,さんざんにもてあそんできた。

 だが,小池百合子は今回の知事選をめぐっては,つぎのごとき脱輪を犯してしまっていた。

 
 さて前段でのように,小池百合子に触れたとなると,本記述の基本の論旨まで脱線したかのように受けとられかねなかったが,

 要は,「日本特殊論の見地と世界普遍論」の系譜が交差できるような議論を試みた,林 廣茂『日本経営哲学史-特殊性と普遍性の統合-』という本,新書版で本文387頁もの分量であったが,教養書としてしては違和感をもった。

 
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