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社会科学方法論-高島善哉の学問(10:総括)
「本稿(10:総括)」は,最近の社会科学における方法論〔あるいは本質論〕としては,すっかり影が薄くなっている「体制 ⇔ 階級 ⇔ 民族」という検討課題(問題設定)に対してさらに,高島善哉が問題意識をもって新しく構成すべき要因として重ねてみた「風土」の議論をめぐり,最終回としてまとめ的に論及することになる。
なお,「本稿(10:総括)」の初出は2014年11月21日,更新されたのが2020年3月24日であって,本日〔2023年7月4日〕さらに補訂されている。
本稿の要点はつぎの3点に整理できる。
要点:1 高島善哉「社会科学の基礎理論」総括
要点:2 今日における高島善哉「社会科学論」の意味
要点:3 社会科学一般論が廃れた学問の時代
※-1 高島善哉「社会科学論」を論じる意味
本ブログは,高島善哉(1904-1990年)という経済学者が社会科学の方法論に強い関心を示した研究者であって,社会科学の全般に応用・適用されるべき方法に関する本質論的な議論を,倦むことなく生涯の研究課題にして取り組んできたことを討議してきた。
![](https://assets.st-note.com/img/1688417726409-oz9SNaZLj6.jpg)
https://jfn.josuikai.net/nendokai/dec-club/zeminaru/Takasima/takasima_zemi.htm
から
それらは,以下の論題「社会科学の基礎理論」を付した9回を充てて論及してきた。それぞれ(1)以下の連番を振ってあった。公表の年月日は旧ブログの「初出のもの」を表示してある。本ブログでは,2023年6月7日に「本稿(1)」を復活させてから,ほぼ1ヵ月かけてこの10回分の記述を再公表してきた。
「社会科学の基礎理論(1)」2014年11月16日
「社会科学の基礎理論(2)」2014年11月16日
「社会科学の基礎理論(3)」2014年11月16日
「社会科学の基礎理論(4)」2014年11月18日
「社会科学の基礎理論(5)」2014年11月19日
「社会科学の基礎理論(6)」2014年11月20日
「社会科学の基礎理論(7)」2014年11月20日
「社会科学の基礎理論(8)」2014年11月20日
「社会科学の基礎理論(9)」2014年11月21日
社会科学のどの研究分野であれ,高島が真剣に考察してきたような本質・方法論は無視できない。これは,高島の討究していた社会科学論の思想や立場に対する賛否とはべつに,強く意識され確保されておかねばならない「前提問題」である。
かといって,高島善哉「社会科学」の本質・方法論に関する議論の方途が,完全無比であったのではない。上記のように今日まで,9回分もの記述をおこなってきた本ブログ筆者は,高島が当初,社会科学の「基礎論における根本概念:枠組」とした「体制-階級-民族」のなかに,新たに『風土』を引き入れなければならなくなった《思考の過程》に注目してきた。
そこで今回の記述として「本稿10:総括」は,高島「社会科学論」の発想・生成・視座などについて,その歴史的な出発点をめぐり考究をくわえてみたい。そのさいあまり微細にわたる議論とはせずに大筋に沿った批判的究明とすることも,事前に断わっておく。
※-2 マルキストとしての高島善哉
1) マルクスの学問的〈勝利〉観
『高島善哉著作集 第1巻 初期経済学論集』(こぶし書房,1998年)の巻末に寄せられている西沢 保「解説」は,戦時体制期から構想されていた高島の学問的な意図を,こうまとめていた。
高島は「国民生産力こそは歴史における主体面と客体面との統一を保証するもっとも現実的なる歴史の場であって,それこそまさに新しき体制概念の礎石となるべきものである」と書いた。戦時下で構想された生産力理論,体制概念を基礎にする高島の経済社会学は,やがて戦後日本の社会科学研究の大きな基盤を形成することになった(519頁)。
補注)この国民生産力に関する高島善哉の指摘は,21世紀も四半の歳月を経てきたなかで,かつて,世界のGDPに占めてきた日本の割合の推移をみると,
1980年に 9.8%だったものが,
1995年には 17.6%まで高まったが,
2010年には 8.5%になり,ほぼ30年前の位置付けに戻っていた。
そのままに推移していった場合には,国際機関の予測によれば,2020年には5.3%,2040年には3.8%,2060年には3.2%まで低下する。
以上の引用は,『内閣府』ホームページのなかの第3章「人口・経済・地域社会をめぐる現状と課題」に予測されていた「2010年以後」に関する「世界において占める日本のGDPの比率」であった。
以上のごとき世界におけるGDPの経済統計は,「アメリカ-日本-中国」について,つぎのように図表化されている。ので,これを参照しておきたい。
![](https://assets.st-note.com/img/1688418988699-uIx2XK7jO0.jpg?width=1200)
いまや生産力は相対的にもがた落ちしてきた
戦時〔体制〕下において,学問の立場からそれも社会政策の見地から〈生産力〉問題を発言した経済学者として,大河内一男が有名である。ただし,戦争の時代にあっても,戦後を意識する学問の方途をどのように考えていたかといえば,高島と大河内のあいだにおいては,その〈生産力〉という用語について顕著な違いがあった。
時代を少しさかのぼってみれば,高島が助手論文として提出した「静観的経済学止揚の方法」(1928年11月)は,こう論述していた。
a)「マルキシズムの経済理論は,直接に理論に対する理論の否定として現われ」る。「それは従来のあらゆる理論をいわゆるブルジョア的経済理論として排斥するとともに,それみずからひとつの理論であることを要求する」(136頁)。
b)「マルクスは一方において理論と歴史との関係を真に統一的に把握するとともに,他方においてこれら2つの方法的手続を,完全に自家薬籠中のものとしている。そこでかかる意味において,マルクスによるブルジョア経済学の止揚過程を跡づけることがつぎの問題である」(167頁)。
c)「マルキシズム経済理論の客観性」(169頁)は,こうして確保されていると叙述されていた。「マルクスの価値理論」が「理論の出発点をまず資本主義生産」にみいだし,この生産における「資本家と労働者との」「権力関係が実は搾取の関係であるということ」,これが「現代の経済組織に内在する根本的なる矛盾のひとつである」。
d) 再言すれば,「権力概念がもっとも科学的に止揚されたものといいうる」「厳密なる証明はマルクスの価値論の問題であるが」,「マルキシズムの経済理論が生産を出発点とする」「ことは,それ自身が歴史的科学の理論たることの第1要件を充たしたに過ぎない」(174-175頁)。
e) 高島はこのように「マルキシズム経済理論の客観性はこの意味にのみ解さるべきである」のは,「要するにプロレタリア的経済理論は特殊階級にとってのイデオロギーであるがゆえに,そしてまさにそのゆえにこと(すなわち超階級的な理論ではないから),同時に現在の経済社会に対する真に全面的なる見透しをなることができる」(178頁)と認識した。
高島はそして,「マルキシズムの経済理論は,理論の形式性をそれみずからの統一のうちに,活かしている。それはまず,理論と歴史との統一を,経済的発展そのものの特殊性のうちに,すなわち生産の歴史的一階段としてみたる資本主義的生産組織のうちに,求めることに始まる」(186頁)
とまとめたうえで,マルクス主義経済学の勝利宣言を,自身の『助手論文』(1928:昭和3年)を媒体にして,戦前体制の旧大日本帝国に向けて放っていたのである。
3) マルキシズムだから絶対化できたのか
ただし,高島善哉の口吻で気になるのは,これは今日的な評価としていわざるをえないけれども,「真に」とか「もっとも科学的に止揚されたもの」がマルクス主義経済学であると,絶大な確信を抱いて論及していた事実である。つまり,そのように宣言していたことになる。
もちろん,これは学問研究を真摯におこなったうえでの表明であり自信であったにせよ,学問的・理論的にはあくまで相対的・比較的にしかいいようのないはずの「マルクス主義(マルキシズム)の思想」の「絶対化,その立場の普遍化」を,「真に=もっとも」という修辞をもって,宇宙的な次元にまで妥当するかのように語っていた一事は,完全に誤謬であった。
マルクス自身は「私はマルクス主義者ではない」といっていたけれども,その後進たちのなかに,あまた出現したのが「私はマルクス主義者だ」という宣言であった。
Robert Liefmann,宮田喜代蔵訳『リーフマン経済学原論』(原著名:Allgemeine Volkswirtschaftslehre,同文館,昭和2〔1927〕年)を,高島は助手論文でも批判し,自分の「新しい信仰告白のつもりで」「いくらか調子の高いもの」で書いた。
高島はそのために恩師福田徳三の逆鱗に触れ,マルクス・ボーイというレッテルを貼られ,助手を辞めさせられた。その後「日本の社会はしだいに暗い谷間の様相を呈することになった」(『高島善哉著作集 第1巻 初期経済学論集』西沢「解説」503頁)。
前段に登場させた福田徳三についてここではごく簡単に,つぎのような経済学者であった点のみ紹介しておきたい。
福田徳三(1874-1930年)は,社会主義によらず資本主義のもたらす諸問題を解決する方策として社会政策を唱道した。そのさいの根本的な権利として,すべての国民の生存権を主張している。
福田は国民の生存権を認めて,その確保に努めることが国家の義務であると主張した。また,こうした観点からアントン・メンガー(Anton Menger)の思想を高く評価した。
註記)「福田徳三」『biblographical Database of Keio Economist』http://bdke.econ.keio.ac.jp/psninfo.php?sPsnID=16,2023年7月4日検索。
※-3 高島善哉『経済社会学の根本問題』昭和16年3月
1) 高島『経済社会学の根本問題』の校正苦労話
本ブルグ筆者の手元には,社会思想研究会編『「経済学教科書」の問題点 上』(中央公論社,昭和31〔1956〕年)という書物がある。たまたまこの本のなかに,こういう記述があるのをみつけた。
「マルクス主義の経済学は近代経済学よりも広い視点に立っている。しかし,その階級闘争観が生産関係の経済的分析に十分に溶けこんでいるかどうかが問題である。もし溶けこんでいないとすれば,マルクス主義は理論経済学ではなく,経済社会学を提供したことになる」(26頁)。
1941年3月という時期に,高島の処女作『経済社会学の根本問題』(日本評論社)がこの書名「経済社会学」を付して刊行されていた,この《時代的な意味》に注意したい。このころになると日本ファシズム体制は,すでにゆきつくところまで来ていたし,学問の自由など窒息状態を余儀なくされるほど抑圧されていた。
さて,昭和15〔1940〕年8月末,高島の『経済社会学の根本問題』の原稿が出版社に手渡されたあと,9月末か10月初めにこの校正を担当したのは,ゼミ生の山田秀雄〔と水田 洋〕であった。彼らは,冒頭からマルクスの名がたびたび出てくるその初稿ゲラをみて,困ったことになると直観した。
そこで,この『根本問題』の本論と付論の計5百ページ余りにわたって,実に多くの要注意の箇所をみつけだし,そこの字句の抹消か変更を強く,高島に進言した。「神経をすり減らした」のは,この作業であった。
いまとなっては,そのときの数多くの進言のうち,マルクスの名を消すこと,資本主義社会という表現の変更ぐらいしか記憶にないが,それはともかく,私たちの進言はほぼ全面的に受け入れられた。こうして校正作業が完了した〔のは,19〕41年1月末ころであった。
註記)山田秀雄「高島先生の処女作が執筆され,出版された頃」『高島善哉著作集 第1巻 月報』1998年11月,1-3頁参照。上岡 修『高島善哉 研究者への軌跡-孤独ではあるが孤立ではない-』新評論,2010年,163-170頁も参照。
補注)昭和10年代にはすでにマルクスということばじたい,社会科学分野では禁句であった。マル経経営経済学者であった佐々木吉郎は,自著『経営経済学概論』(中央書房,昭和13年4月)のなかではマルクス『資本論』の引用は明記できなかったと,戦後になって説明していた。
しかしながら,佐々木吉郎はこの『経営経済学概論』発行後に公刊されていた,国際経済学会編『北支経済開発の根本問題』(刀江書院,昭和13年6月)に「北支経済開発と企業形態」という時局協力,いいかえれば,日中戦争体制下において日本軍が占領した地域において「経済開発」をおこなうための議論をおこなっていた。
佐々木が同稿の目次の冒頭に置いた語句が「昭和維新と吾人の任務」であった。戦時体制期においてこのような文字を充てた論稿が,どのような議論をしていたか? こう主張していた。
吾人の祖先は,何時の時代に於ても,一つの皇道精神に基いて,その負はされた歴史的任務を建設的に且つ忠実に,だが熱を意気とに於て力強く,果して来た。現代の吾人達も亦同様にその負はされた歴史的任務を果たさねばならない(125頁)。
この発言はマルクス主義を信奉していた経営学者の筆になるものであったが,敗戦後に日本にあっては誰もあえて指摘しなかったし,むろん批判もくわえないで済ませられてきた,佐々木吉郎という学究の人生に刻まれたはずの一コマであった。
要は,マル経学者の戦後にかかげていた「看板に偽りありであった」という事実を指摘しておく。佐々木吉郎は明治大学経営学部で活躍してきた大勢のマルキスト学者を育成してきたが,いまの明大にはその面影が残っていない。
わずかに黒田謙一(経営学部人事労務管理論担当,大学院で木元進一郎の弟子)などが,外部出身者だが残兵として居残るに過ぎなかったが,この黒田は2019年3月に定年退職していた。黒田が定年まぎわに公表した『戦後日本の人事労務管理』(ミネルヴァ書房,2018年)の「理論路線」は,正直な感想をいうと,なにがなんだか判別も識別も不可能なくらい不詳になっていた。
以上に関した専門研究者の議論は,なかなか判読が困難な筆致が基調として潜在させているけれども,ともかく,つぎの論稿を紹介しておきたい。
⇒ 田中和雄「労務管理の基本的機能の把握と労働組合」『専修ビジネス・レビュー』2020年3月,第15巻第1号,https://www.senshu-u.ac.jp/albums/abm.php?d=1599&f=abm00016448.pdf&n=sbr15-1-4.pdf
ただし,この論稿は,黒田兼一が2018年に公刊した著書に対する具体的な言及をおこなっていない。それは多分,黒田の意図を読み切れていないからと判断するほかない。
あえて辛辣にいわせてもらうと,黒田兼一とこの田中和雄との学問な間柄には,すでに対話不能な空間が大きく広がっていた。ただ,稲村 毅(元大阪市立大学商学部教授,神戸学院大学教授)の批判的な議論が黒田兼一にも向けられるその中身として具体的に触れられていたものの,この関連するあたりに関した議論はない。
2) 高島善哉『経済社会学の根本問題』の狙い
この高島の処女作は,予想をはるかに超えてよく売れたという。1942〔昭和17〕年の夏,『一橋新聞』8月10日号には,本書に寄せられた相当多数の書評に対する高島の反論「学説の歴史と事実の分析」が掲載された。その行間には高島の並々ならぬ自信がうかがえた。
この高島が返した反論の趣旨は,こういう性格の意図があったと,敗戦後になって解説されていた。
--大方の批判家諸氏は『根本問題』の核心であるスミスとリストの内在的比較研究から,いかにして経済社会学が必然的に引き出されてくるか,という肝心の本格的批判を提起することができなかった。
ましてや,そうした一見消極的に思える学説史研究が,実は現代の課題に向かって理論的な解答を与えようとする「秘かな野望」をもつのを見抜くことができなかった。
高島は「私の書物では経済社会学の根本問題をスケッチしてみたに過ぎないので,すべては今後における経済社会学の展開にかけられている」。それを近い将来に世に問いたい,とのみ答えていた。
要するに,経済社会学に大きな希望を托されているが,この書物のなかでは〈あの難問〉を質す気分になれず,諦めるほかなかったのである(山田「高島先生の処女作が執筆され,出版された頃」『高島善哉著作集 第1巻 月報』4頁)。
以上に表現されている論点は,戦時体制期においてしかも1941〔昭和16〕年3月に発売された『経済社会学の根本問題』が背負いこまざるをえなかった “時代的な制約=くびき” を指していた。この点は前項 1) で触れたとおりであって,
当時であれば,経済学研究の方途として許されていた「政治経済学」や「純粋経済学」以外の研究志向として,マルキストである見地を正面から披露する経済学の書物を公表することなど,とうてい不可能な冒険であった。
そこで高島もしかたなく,当時において経済学としてまだ存在を許されていた「近代経済学よりも広い視点に立っている」と確信しえていた「マルクス主義の経済学」ではあったにせよ,
「その階級闘争観が生産関係の経済的分析に十分に」「溶けこんでいない」程度の,つまり「マルクス主義」に立脚した「理論経済学」の書物には一見みえない,そこからは1歩引いた「経済社会学〔の根本問題という『著作』〕を提供したことになる」(26頁)。
3) 時代の制約,その解放
当時,高島のゼミ生であった山田秀雄や水田 洋が『経済社会学の根本問題』の校正ゲラから,どのようにすればマルクスの字句:影〔本当はその思想と科学〕を除去・隠匿できるか苦心したという前段に出てきた話も想起すれば,高島の処女作の書名が「経済学」や「社会経済学」ではなく「経済社会学」とされたのは,時代が遭遇していた状況の厳しさに対する十分な配慮をもって観察すべき事項であった。
戦時体制期〔昭和12年7月から昭和20年8月まで〕の日本において,政治経済面では国家全体主義による統制経済体制が標榜され,産業社会面では産業報国運動体制のもとに皇国勤労観が昂揚されていった。
この戦争の時代に真っただなかにあって,「マルクスの価値理論」に立脚するという「科学としての経済学」の「理論の出発点を資本主義生産」にみいだしたうえで,この生産における「資本家と労働者との」「権力関係が実は搾取の関係である」というふうに,当時:「現代の経済組織に内在する根本的なる矛盾のひとつ」をわざわざ指摘するのは,社会科学者にとってみれば,治安維持法のもと「飛んで火に入る夏の虫」に似た,つまり自殺的な行為であった。
1929年春の高島『助手論文』は,恩師福田徳三の学説への根本的批判となった。そのほかの理由もあってか,同年7月高島は助手を罷免された。だが,後年に結実する「高島学」の体系--経済社会学の構想,スミス体系の究明,近代経済学の批判,マルクスとウェーバーなど--の原点は,この世俗的に不遇な著作のうちに総合的に収められていた。
註記)以上,宮崎犀一「経験科学者の方法」『高島善哉著作集 第1巻 月報』1998年11月,6-7頁。
※-4 高島善哉「社会科学論」の根柢
1)「第1級の知的遺産」か?
渡辺雅男(所属大学は一橋大学)は,編著に『シンポジウム 高島善哉 その学問的世界』(こぶし書房,2000年)をもつ学究である。それゆえか,『高島善哉著作集 第1巻 月報』に寄稿した論者たちと同じように,高島善哉を実際よりも以上にもちあげる傾向があった。この点を断わりかつ気にしながらも,つぎの引用をしておく。
激動の昭和を生きた社会科学者,高島善哉の思想と学問は,ポスト冷戦の世紀末,閉塞と混迷の時代,さまざまな原理的問題が噴出する現代にあって,その輝きをいよいよ増している。
戦前の近代経済学批判から始まり,戦中のアダム・スミス研究とファシズム批判を経て,戦後の「価値論」「新しい愛国心」「風土論」「民族と階級」「マルクスとウェーバー」へと一気に花開く彼の学問の軌跡は,時代に挑み,問題提起を片時も止めなかった社会科学者の不屈の魂そのものを体現している。
そこで彼が示したものは,外来の者ではない日本独自の社会科学を生みだそうとする学問的気迫であり,つねに左右両極の短絡を戒める思想的柔軟性であり,しかも原点を忘れずに「貫く棒のごときもの」を求めた理論的剛直さであった。
日本の社会を基盤とし,日本に固有な学問の歴史を踏まえ,学問の国民性と学問性とを結びつけるという終生の課題とその成果は,今日,日本の明日を考えようとする社会科学者にとって踏まえるべき第1級の知的遺産であるといえよう。
註記)渡辺雅男「編集を終えて」『高島善哉著作集 第1巻 月報』1998年11月,11頁。
本ブログの筆者にとっては既述の内容であり,重ねていいたくはないけれども,つぎのように繰りかえし指摘しておきたい。
▼-1 高島善哉の社会科学者としての「体制・階級・民族」観は,戦争の時代にあったときでも「自民族しか視圏に入っていなかった」。
▼-2 敗戦後におけるその〈観〉も,それほど「現実の自国:日本そのもの」に即する思考を現実的に展開していたとはいえない。
つまり,高島は必らずしも,自身の提言=問題提起に即して忠実に論旨を進展していったのではなかった。
▼-3 要するに,その視野の広さ・奥行きの割りには,足下に存在する具体的な論点が直視できていなかった。
2) 唯物史観の問題性
廣松 渉『唯物史観の原像-その発想と射程-』(三一書房,1971年)は,こういっていた。
マルクス・エンゲルスは唯物史観の視座に立ち,また『資本論』に結実した資本主義社会の構造分析に立脚することによって,彼〔ら〕の経済学にとって唯物史観は《導きの糸》をなしていた。そうして,先行社会主義の “観念史観” を超克しつつ,社会主義革命の歴史的法則を明確に措定できた。
唯物史観,ひいてはまたマルクス経済学が,社会主義革命の法則的必然性を措定したというとき,それはあくまで,人間の歴史的営為があたかも自律的な展開を遂げるがのごとくに〈物象化された相貌で現象する愚〉を戒めなければならない。
人びとは,しばしば『資本論』は資本主義没落の必然性を証明しているという。たしかにそのとおりである。しかし,マルクスはたとえば,利潤率低下の法則なり恐慌の必然性なりの議論によって,資本主義の自然崩壊を説いているわけではない。
いうところの資本主義の没落の必然性を客観主義的に理解するならば,現にマルクス批判者たちがいうとおり,マルクスの証明は証明になっていないどころか,そもそも証明が存在しないというべきことになる。それでは,実際にはどのような議論の構造になっているのか。
註記)廣松 渉『唯物史観の原像-その発想と射程-』三一書房,1971〔昭和46〕年,179-180頁。
ここまで廣松の説明を聞けば,21世紀のいまを生きるわれわれにとってすぐに了解のいく論点の介在に,気づかないわけにはいかない。1989~1990年に大崩壊を来した社会主義体制は,マルクスが証明できていなかった「社会主義体制」到来の必然観を否定し,瓦解させていた。
その余波(?)を受けてだったのか,日本ではそれまでであれば,マルクス主義の立場・イデオロギーを異様なまで誇示しつつ,自分の学問を展開させていたつもりの学究たちが,とくに経済学,経営学の分野でみるに,いつの間にか姿を消していった。
その現象をとらえてもっと露骨にいえば,彼らはただ「理論の戦線」から逃亡したのである。そのさい,みずから自身を否定する「理論転向」をおこなったなどという以前に,単に,宗旨替えというか棄教というか,ある種の踏絵に応じる手順などとも無縁のまま,いとも簡単に「敵前逃亡」にひとしい行動をしていた。
廣松が関説したように,マルクスは「資本主義の自然崩壊を説いて」いなかったのと同様に,「社会主義の自然崩壊も説いていなかった」。もっとも「社会主義の必然的(?)な登場」を予想し,これを偶然には的中させてはいたものの,その後に起きた社会主義の自然崩壊は,当初の提唱である「必然的法則性という〈理論的な主張の存在価値〉」を地に落としめた。
井吸卓一編者代表『現代のイデオロギー 第5巻 現代日本の思想と運動 その1』(三一書房,1962年)という本のなかには,こういうふうに記述した段落があった。
「思考方法というものは,どのように抽象化されてもつねにその背後に一定の価値意識を前提する」(9頁)。
高島善哉の場合はなぜか,この〈前提〉が全面的に忘却された関係のなかで,特定の評価を受けてきた。だから,高島の弟子たちが意図せずに「高島善哉の聖化・神格化」を図ったといえなくもない。
3) 戦時体制期の制約・限界
向坂逸郎編著『嵐のなかの百年-学問弾圧小史-』(勁草書房,1952年)は,つぎのような論及をしていた。
「学問では,仮に意識した嘘でも,いったんこれをいってしまうと,この嘘は,その理論体系のなかに地位を与えられなければならなくなるから,民主主義の理論そのものが,ごまかされたものになる」
「人びとはその理論を徹底的に追究して,そのうえにこれを超えて高度の理論に達する代わりに,妥協するほかない点で留まってしまう。このようにあらかじめ留まらなければならない限度が定められてあるために,あくまで追究する精神が失われてしまう。そして社会科学の結末が……」(同書,13-14頁)
高島善哉による敗戦後の学問営為は,そうした戦時中の出来事に関する反省がないわけではなく,特定の表白がなされている。しかし,向坂逸郎が前著のなかでたびたび言及したように,
戦前における「日本の国体」の問題にかかわらしめていえば,高島の経済学としての社会科学論は「体制問題としての天皇・天皇制」にまで学問的に進捗・到達していなかった。
高島の風土問題に対する議論が社会的自然:風土にまで到達していながら,また和辻哲郎の風土論をきびしく批判していながらも,明治以来創られてきた「自国の根幹である天皇・天皇制」に対する追究はなかった。
結論としてはそのように論断してなんら相違ない。高島善哉が信奉し,学問を推進させるために最大の推進力となったマルクス経済科学論は,敗戦以前の日本において,天皇・天皇制とどのように対峙させられていたか,この問題は,既述のなかですでにその輪郭が明らかになっていた。
高橋彦博『民衆の側の戦争責任』(青木書店,1989年)は,つぎのような主張をしていた。これは高島善哉の学問である社会科学論にも大いに関連する論述である。
戦争責任の問題を主体的にとらえる課題は,戦後史そして現代史の原点であり,あるいは自発的な社会運動や市民運動展開の起点である。さらにいえば,民衆の政治的成熟度解明の問題でもある。
これらは社会科学全般のあり方にかかわっており,すべての社会的人間の思想と行動とその担い手たちのあり方を問うている。この課題は結局,日本の民衆の思想の歴史を問うという大問題に連なっている(174頁)。
高橋彦博は「やっぱり天皇は諸悪の源泉かな」(169頁)と語っていた。
治安維持法は,天皇制(封建遺制)と私有財産制(戦前資本主義体制)を守るための法律であった。この法律がない現代においても,天皇・天皇制は最大限の注意を払って守るべき聖域とみなされている。
補注)令和の天皇に天皇家の家長が代替わりしてから5年目になるが,今年も最近になってみる,関連した報道機関のその「あつかい方」は,憲法に定められた「象徴」という性格以上に,非常に雑多な中身を詰めこもうとする意図がみえみえであった。
徳仁は生まれつき高貴であり,優秀であり,完全無欠であるべき人物であるかのように,マスコミ報道機関がその内容に濃淡の差はあれ,祭りあげている実相がある。はて,この国の象徴というものを憲法の問題枠組も含めての話になるが,なにゆえそのような天皇の地位を富士山よりも高くかかげる精神作用が,この国においては必要なのか,
高島善哉の場合に合わせていおう。敗戦前において,高島善哉の学問的な思想の立場かつ人間的な生活の状況を圧迫し,苦しめていたのは,その天皇・天皇制ではなかったか?
このあまりにも自明な歴史の事実について,あらためて「疑問符」を付して問わねばならないというのは,実にまどろっこしい事態(「問いの構造」)であった。
高島はこういっていた。
「マルクスはドイツ的であり,レーニンはロシア的であり,毛沢東は中国的である,というまぎれもない事実をどのように受けとめるか。これが現代社会科学に残された大きな課題である」
「方法態度は思想を離れてありえないし,思想は人間を離れてありえないということになる。つまり,私たちは方法態度において,ある思想家の思想と科学の結びつきをみなければならない」
註記1)高島善哉他著『社会科学への招待』日本評論社,昭和52〔1977〕年,22頁。
註記2)高島善哉編著『現代の社会科学』春秋社,昭和49〔1974〕年,31頁。
その意味関連に即していえば,「高島は日本的であり」,その「方法態度」の「思想は」,この高島という「人間を離れてはありえない」のである。
たとえば日本の経営学者のなかには,マルクス主義経営学の観点に関連させて「認識の論理」と「変革の論理」という「理論概念の組合せ」を用意する者もいた(吉田和夫『ドイツ経営経済学』森山書店,1982年,217頁参照)。
だが,戦時中からマルキシズムの社会科学的優位性を確信していたはずの高島善哉は,その「変革の論理」が破綻した時代をしかと観察できるまでは生きなかった。こうした事情もあって彼は,確信をもっていたマルクス主義に固有の「変革の論理」に対する「認識の論理」じたいの問題点を,その根源から本格的に再検討するまでには至らなかった。
桑山善之助『科学としての資本主義と社会主義』(同成社,1970年)は,カール・マルクスの仕事を,つぎの3点に分類していた。今日〔1970年時点の話であるが〕,マルクスの功績の最大のものは「第1の資本主義社会の解析」であったと,桑山は判断していた(122頁参照)。
★-1 資本主義の解析-資本主義の構造と機能を分析し,批判するための政治経済学-
★-2 社会主義(共産主義)理論の形成-社会主義の理想を提唱し,実践的に建設するための政治経済学
★-3 革命理論(移行関係)の形成-マルクス思想にもとづく社会主義革命(→資本主義体制打倒)を達成させるための社会政治学-
しかし,マルキシズムという学問思想を支持した社会科学者であれば,
★-2 を志向する気持を抱くことは当然の志向であったとしても,
★-3 までも必然として確信していたのであれば,
いまからみれば明確になっていた事実になっていた点,すなわち,けっして偶然とはいえなかった〈20世紀末葉における世界史の動向〉によって「社会主義体制が崩壊」した必然的な軌跡も,社会科学研究の題材にとりあげ生かさねばならなかったはずである。
高島善哉はまた,和辻哲郎『風土』昭和10年にも注目していた。それでは,社会主義革命が実際に起こされ,この社会主義の国家体制が革命によって樹立されたソ連邦についても,その風土問題にもとづく「政治・経済革命論」も研究すべきであった。
なかんずく「高島の学問も日本的であって」,その「方法態度」に潜む「思想」も,この高島という「人間を育ててきた」この国の精神的風土と密接な関連をもっていた。
とはいえ,いまさら,そのような研究課題をも高島に突きつけるのは,望蜀の感があった。
だがともかく,この※-1の 1) で激賞されていたように,「激動の昭和を生きた社会科学者,高島善哉の思想と学問は,ポスト冷戦の世紀末,閉塞と混迷の時代,さまざまな原理的問題が噴出する現代にあって,その輝きをいよいよ増している」とまで,非常に高い評価を受けている。
そうなのであれば,21世紀に現在に対しても,なにかの役に立つ『社会科学論』を,高島が提供していると期待してまずいことはあるまい。
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