村上春樹『UFOが釧路に降りる』批評⑤ーシマオさんの熊の話と小村の喪明けー
1.はじめに
1.はじめに
前回は、『UFOが釧路に降りる』が何を描き出そうとしている作品で、<他者>にまつわるどういう洞察を含んでいるのか批評してきた。
見えてきたのは、釧路がポストモダン社会として、つまり、疎外論と物象化論の重ね合わせの場所として、精密に設定されていることだった。
また、疎外論のメリットだけが消失していること、そして、「仲間」がポストモダン社会の中では重要なことが分かった。
少し補足をすると、『ドライブ・マイ・カー』では、疎外論的な共同体がもはやあり得ず、疎外状況というデメリットの部分も描かれていた。
また、<他者>というものがどういうもので、どのように人に作用し、どのように人は<他者>と関わるかが描き出されていることも分かった。
成分の問題、死と美の問題は、シマオさんの熊の話、そして、その符牒を問題にする時に、新たらしい発見があるので、重要なポイントだ。
今回の計画としては、バタイユのエロティシズムと通過儀礼を利用して、シマオさんの熊の話を扱いたい。色々と見えてくると思うので、ホント。
それが、小村の変化の決着を描き出すのに必要な最後のポイントだからだ。本作が、小村の通過儀礼だったことが分かれば、御の字だ。
2.シマオさんの熊の話
ラーメン屋を出た後、小村はシマオさんの運転する自動車に乗せられて、ケイコと一緒に、ラブホテルへ。ケイコの知り合いが経営しているホテルらしい。
ラブホテルと墓石屋が交互に並んでいる通りに、目的地があった。それは、西洋の城を模した建物で、てっぺんに三角の赤い旗が立っていた。
小村が風呂に入って出てくると、ケイコは帰っていた。シマオさんだけが残っていて、小村はシマオさんから熊の話を聴く。
熊の話。シマオさんが大学生の時、恋人と北の方の山に登りに行った時、途中で彼氏がヤりたくなって、青姦することになったのだが、熊避けのために、鈴を鳴らしていた話。
小村はそれを聴いて、笑う。
これ、かなり思想的にも、面白いんだよね。
熊ってさ、アイヌ民族にとって、神聖な動物なんだよね。熊を狩って、熊の中から魂を解き放って、神様の国へ送り出す。小熊も育てて、同じようにする。
鈴。これは、日本全土で、神社には必ずあったりするよね。これは、俗世と聖域を接続するものであり、かつは、分離の象徴でもあるんだよ。最高にクールだよね。
エロティシズムってのは、死とエロスの結合っつーことで、連続性に開かれる時、神聖に触れられるのだなんつーさ、奇妙な思想に思えるけど、バタイユが提唱してたこと。
バタイユを読み解く時は通過儀礼を使った方がいい。
通過儀礼は①分離②通過③統合の三段階と①聖俗の分離②性別の分離の二機能があるんだ。報告にある通り、乱交パーティもあるし、神様の下に、一旦隔離されるみたいな例もある。
通過儀礼は、つまり、死とエロスの結合をはっきり表してる。
シマオさんの青姦の話はまんま通過儀礼。セックスは、性別の結合と分離を表しているし、鈴は、聖俗の結合と分離を表している。
バタイユは結合そのものに重きを置いたけど、この、逆説的な関係が大事だ。結合していると同時に、分離している。分離と結合が相即的になってるってこと。
神聖への感応と逆説。
これが、思春期的な痛みを緩和してくれる。
未知なる大地としての身体への接地、そして、社会意識の発達と社会への参入、これが、精神にもたらす痛みを緩和してくれるのだ。
そして、そもそも生きていることが痛みの根源。
この気づきが大事だ。
セックスしながら、鈴をふらないといけないような、生き方をしないといけない、悲劇。本人たちは必死の形相でやってるかもしれない。
だけど、悲劇に気づいた時、そして、悲劇が自作自演に他ならないと気づいた時、笑いが湧き上がってくるという、悲劇と喜劇の逆説。
そうさ、デタラメって、感覚そのものが生命に寄っているのだし、デタラメはデタラメでないという形もあるのだから、どこまでも相対評価だ。
相対評価ってのは、あれとこれが相対するってだけじゃない。生命とあれこれが相対する、あるいは、相関するって問題でもあるんだよね。
最大級の喜劇。人生の諦めを君に。
シマオさんという人物が伝えようとしたこと、村上春樹がシマオさんを通して伝えようとしたことは、これだったんじゃないかなって思うわけよ。
<他者>分析をすると、熊との出会いが問題になっているね。死が成分だ。セックスに、美を見出してもいいけど、<他者>として、扱いうるものなのか?
例えば、こういう解釈はどうだろう?
この時、<他者>は埋め込まれたものとしてのそれかもしれないね。つまり、死も、美も、避けがたい、引き受けるしかないものとしてある、と。これは、<他者>の新しい家族的類似ではないだろうか?
諦め、運命を引き受ける。
そして、「人生を素直に楽しむ」。それも、「仲間」と一緒に。そうして、いつ何が起こるか分からない不確かな世界を生きていくのだ。
シマオさんの到達している地点は遠い。小村にとっても、そして、この批評を書いている僕にとっても。勉強にしかならないよ、マジで。
シマオさんがここまで到達できたのは、父親が母親の妹と駆け落ちしたことがあってのことだろう。シマオさんの「きっかけ」がそれだった。
そうして、「きっかけ」が決定的な「瞬間」にまで到達させた。シマオさんのある種の悟りであり、それは、すぐさま実践と繋がっていたのだった。
「きっかけ」と「瞬間」。
この概念は、今精読しているキルケゴール『哲学的断片』の概念だ。「瞬間」が実践へとすぐに繋がるという発想はキルケゴールに同じだ。
今は深く掘り下げないが、大まかなニュアンスを感じ取っていて欲しい。
3.小村の通過儀礼
これが、この連載の最後の本編になるかもしれない。だから、今、少し緊張している。だけど、書かないと、終わらないから。
まだ僕には『かえるくん、東京を救う』が待っているんだ。
本作は小村が主人公だ。だから、小村の何がどう変化したのかについて触れずに、本作の批評を終えることはできない。では、早速行こう。
小村はシマオさんとのセックスが上手くいかなかった。挿入できなかったのだ。挿入しようと思っても、勃起が萎えてしまったのかもしれない。
その時、頭によぎっていたのは、阪神淡路大震災のことだった。飛行機の中で記事を読んでいる時には現実感がなく、気にも留めていなかったのに。
これは、どういうことか?
小村は<他者>に気づいてしまった。妻に憑かれてからというもの、北海道で、<他者>についての気づきや洞察が、生まれてきたからだ。
それは、明らかに、シマオさんやケイコとの会話や関わりが引き起こしたものだ。釧路の風景と酔っ払い、サエキさんの奥さん、シマオさんの父親など、様々な<他者>にまつわる会話を聴いている。
そして、シマオさんの熊の話。
ただ、妻に憑かれていたことが「きっかけ」だったのは確かだ。それが、<他者>への気づきに繋がった。思春期的な問題がぶり返す。
というより、初めて、思春期的な問題にぶつかったと見るべきか。物象化論的な社会にいる限りにおいて<他者>は成立しにくいからだ。
そして、身体への接地、社会への統合が上手くいかなくなった。<他者>に目覚めたてで、セックスも上手くいかず、大地震も気になるのだ。
それで、決定打は、荷物の話だ。
小村が同僚の佐々木に預かって、妹に手渡した荷物。振っても、音はせず、何が入っているか分からなかった例の荷物だ。
シマオさんと小村の間で、小村の妻のメッセージの話になった時に、中身の話になったが、あれは、どこまでも疎外論的な問題だった。
中身を想定する思考自体、記号と人間を問題にする疎外論らしいし、妻が疎外論的な位置の人間として設定されていることは明らかだからだ。
ここの話はもう掘り下げない。
シマオさんはあの荷物の中身が小村の中身だったのだと冗談を口にする。知らず地らずに、ケイコに手渡て、もう小村の下には戻ってこないと。
これは、釧路の空港に降り立って、小村が荷物を持っていないのに、シマオさんとケイコが小村を見つけたこととも関係していることだ。
つまり、小村=荷物であり、荷物は小村自身であり、小村が小村自身だった。だから、彼女たちは小村を小村と同定することができたのだ。
そして、小村は「自分が圧倒的な暴力の瀬戸際に立っていることに思い至った」わけだ。ベッドの中で裸のシマオさんに上から乗られながらね…。
これは、疎外論から物象化論を照射したときに、「個人」なるものは中身がない、記号の集まりなのではないかという発想の上に成り立っている。
そう、「個人」とは行為のデータ(記号)をまとめる点に過ぎない。中身など想定しようもなく、それは、ただの番号のようなものなんだ、と。
兄から妹へ。男から女へ。
この受け渡しの方向も関係がある。これは、疎外論から物象化論への完全な移行を表している。特に、小村の「個人」についての移行である。
さて、小村はようやくスタート地点に立った。<他者>や<世界>、そして、ポストモダン社会。そうしたものの入口に立ったのである。
「ずいぶん遠くに来たような気がする」
「でも、まだ始まったばかりなのよ」
妻が「死んだ」ことに始まった小村の喪。これは、妻の「死」を①分離とした、②通過の話であり、③統合が果たされたということになる。
つまり、喪は明けたのだ。
しばしば①分離の前と③統合の後とでは、<他者>も、<世界>も、全く異なったものとなり、社会のメンバーとして承認される如何も違う。
さて、小村は、シマオさんの地点まで辿り着けるだろうか?「まだ始まったばかり」の小村は、これから、どう変わっていくのだろうか?
そんなことを妄想してみたり。
4.終わりに
今回は、シマオさんの熊の話と、小村の通過儀礼の話を取り扱ってきた。そうして、『UFOが釧路に降りる』の本懐を少しは抉り出せたと思う。
ようやく長く苦しい戦いが終わったかに思える。
でも、『ドライブ・マイ・カー』の亡霊論を突き詰めようとして、ちょっと挫折していたりと、まだまだ課題は残っているんだよね。
亡霊としての残余、残余としての亡霊。
いかにもポストモダン的な課題だけど、僕は今の所、上手く読み解けている自信がない。これは、今後の課題として、ゆっくり付き合いたい。
そして、『かえるくん、東京を救う』だ。
僕の好きなアニメ『輪るピングドラム』にも登場する作品。僕は今から少し興奮しているよ。知的な興奮だから、傍からはいつも通りに見えると思うけどさ。
力が身に付いたら、『輪るピングドラム』も批評したい。
誰も見てないだろうけど、まぁ、頑張るよ。アデュー。
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