「同時代の詩を読む」 (61)-(65) 室園美音、安藤徹人、長谷川哲士、十谷あとり、鈴木真弓
(61)
ミーハオ 室園美音
「ニーハオ」という中国の挨拶の言葉を新鮮に使っていたころ
原爆ドームからほど近い小学校で三年生の担任をしていた
クラスの中ではやや小さめで 魅力的な笑顔で笑うかわいい男の子がいた
その子の苗字が三原であることから
みんなに「ミーハオ」と呼ばれ 人気者だった
家庭訪問のとき 三原くんの家は 校区外だったのでその日の最後に予定を組んだ
彼は仲の良い 最後から二番目の女の子の家で待っていてくれて一緒に家に向かった
お母さんは 家の外で待っていてくださった
リビングに通され学校での様子など 話していると
広いリビングにあった滑り台で妹や弟と遊びだした
妹たちの位置を確かめては
ダイナミックで少し荒々しいほどの遊びをしていた
「学校でみんなに親しまれているのは
のびのびと育つように見守られているからですね」と伝えると
お母さんは 突然
おじいさんとおばあさんの話をはじめられた
「嫁いできたころ うっかりお皿を割ると
高価なものでも 安いものでも
父も母も ものが増えた ものが増えたって喜ぶんです
ほんとうに喜ぶんです」と
あたかも 言葉以上の確かなものがあったかのように
少し遠くを見つめながら話された
帰りの電車の中で
ミーハオの笑顔の後ろで そっと見守るおじいさんとおばあさんの眼差し
お父さんとお母さんがそれを喜び一緒に在る姿が浮かんだ
灯りがやけに懐かしい色にみえた
原爆投下後 広島の焼け野が原の中でお父さんは生を受け育ってこられた
子どもも 大人も 年寄りも復興を支え みんなで生きてこられたのだろう
そういう時代があったことを日常の体験の中で ふかく刻みこんでもらった
子どもの笑顔は 未来の光です
ミーハオの笑顔 傷みを持ちつつ支え喜ぶ身近な大人の姿
それは にもかかわらず歩んでいくのだ・・・と
今でも励まし支えるしるべになっている
*
「ミーハオ」について 松下育男
前回の「夜空のX」に続いて室園さんの詩です。室園さんの詩を、ぼくはまだそれほど読んでいないのに、どこか惹かれるものがあるのです。紹介するのに「どこか惹かれる」というのはとても無責任に聞こえるかも知れませんが、詩を読んでいるとたまにそういうことがあるのです。そしてわからない魅力、というのが一番長く読む人の中に留まるのです。
ともかくも、今回もよい詩です。
何と言っても二連目の「うっかりお皿を割ると/高価なものでも 安いものでも/父も母も ものが増えた ものが増えたって喜ぶんです」のところを読んで、目が開かれる思いがしました。
なるほどそのような考え方もありうるのかと、常識に固まった自分の考え方、感じ方を反省させられます。
この発見は、単に違った見方をする、というだけではなく、間違いなく叱られる状況で、全く逆の反応をされた時の、ほっとした気持ちを共有できるからかなとも思います。
詩として見ると、おそらく詩を書いている、という意識ではなく、たんたんと自分が書きたいことをそのまま書いている感じがして、読んでいて内容がしっかりこちらに伝わってきます。
ただ、よく見ればこの詩は書きたいことを書いたその奥で、このようなものの見方の根底に、原爆による被災があるということの深さと重さをも折り込んでいて、こちらに鋭く伝わってくるものを持っています。
室園さんの詩とはどのようなものなのか、これまでそれほどの編数を読んだわけではないので、ぼくはまだわかりません。そのことの未知数な部分を含めて、とても魅力的に感じます。
*
(62)
一生分のそれ 安藤徹人
もし君が親孝行やそれっぽい事をしたいと思ったのなら
その必要ない
もう既に貰ったんだ
君が幼く 言葉も書けず
喋る事もおぼつかなかった頃
家族で水族館へ行った翌日
君がやってきて一枚の絵を渡してくれた
傍の妻が楽しかったんだってと付け加えて
そこには
アーチ状の水槽をくぐる
君と私二人が
少ない色のクレヨンで
大きなカレンダーの裏いちめんに描かれていた
それを受け取った時
嬉しくて温かくて
表現しきれない感情の中で気付いたんだ
貰ったんだって
一生分を貰ったんだって
君は
覚えてもいない 記憶かもしれない
それでいいの?と驚くかもしれない
けれど
それだけで 十分なんだ
本当にありがとう
*
「一生分のそれ」について 松下育男
言葉は粗削りなところもありますが、最後まで読んで、よい詩だなと思いました。
この詩が言いたいことはたった一つだけです。単純な詩です。でも、言いたいことが山ほど盛り込まれた詩ではなくても、たまにはこういう詩もいいなと思うのです。
子どもに対して、もう親孝行してくれなくてもいい、小さな時に一生分の孝行をしてもらったのだから、ということだけを言いたい詩です。
そう言ってしまえばそれだけのことなのですが、こうして詩に書かれてみれば、作者の、子どもに対するおそろしいほどに優しい眼差しが、はっきりと見えてくるようです。
その眼差しに、素直に心打たれるのです。
それを受け取った時
嬉しくて温かくて
表現しきれない感情の中で気付いたんだ
貰ったんだって
一生分を貰ったんだって
の箇所の、飾りのない、素のままの感情の出し方に、ぼくは読んでいてほとんど泣きそうになってしまいました。
まずは真に言いたいことがあって、それを素直に表現したい言葉が集まってきて、詩という建物を必死につくりあげた、そんな気がします。
まっすぐな気持ちをまっすぐに書き上げています。この詩は、ひとりの人の、胸が震えた瞬間を、そのまま言葉に置き換えています。その行動こそが、詩を書くということの、もともとの姿なのではないでしょうか。
と、我が身を振り返って、詩作に汚れてしまった自分を、もう一度見つめさせてくれる詩でもあります。
*
(63)
妄念 長谷川哲士
晴れ上がった空のもと
港は見える
ヒマワリ抱えた中学男子
港の方まで走ってゆく興奮している
好きんなった中学女子の事を考えてもいる
なんだろ体の中身まで青々してくる感じ
その目の前を超巨大タンカー横切り
最興奮中学男子将来成らん事決意
「何に?」「タンカーに!」
それ青春の突然父母もオドロキ
更に尚も強く思い込むあの中学女子の事も
強く強く
やらなければならぬことがあるのだ
タンカー良く観察してみるならば
船首から舳先へ向けてのスピード感
それまさしく尖ったリーゼント
真っ黒けの走るリーゼント
中学男子まず髪型から変えてゆこうと
伸ばしっ放しのボサボサさらば
汗まみれの決意と共に告白への前章
おもむろ高台方面の襤褸床屋へ
ヒマワリ抱えて駆け抜ける
いろんなおうちから
昼下がりのワイドショーの音声
聞こえる聞こえる
不倫絶唱坂長し
「オッサン、リーゼントにしてくれ!」
そこへ幼馴染のサッカー仲間ども
異変感じて追いかけて来る
隠れろ隠れろ
何故だか隠れろとにかくタンカーに成る
中学男子床屋にて
さっぱりきっぱりさあ行こか
真っ赤に染まって告白をする
沸騰するヒマワリの黄色が
凄まじいハレーションを起こして
新しい航海への予兆を告げる
*
「妄念」について 松下育男
こんな詩もあるのだなと思いながら読みました。
愉快な詩です。男子中学生(おそらく作者の中学生の時でしょう)がある日、巨大タンカーになると決意したようです。ここまで大きな夢はなかなかありません。それだけでこの詩はあっぱれであると感じます。
言葉使いの面白さもとても感じます。「港の方まで走ってゆく興奮している」と一行にたたみかけているところや、「好きんなった中学女子」の「好きんなった」という言い方もいい。ここは確かに「好きになった」のではなく「好きんなった」のでしょう。それから「最興奮中学男子将来成らん事決意」のどこか漢文の読み下しのような文章も小気味がいい。
で、巨大タンカーになるということがまずはリーゼントになるというのもおかしい。
「やらなければならぬことがあるのだ」のきっぱりしたモノイイも気持ちがいい。
この詩を読んでいると、どこをとっても目の前に、言葉の巨大タンカーが横切ってゆくようなさわやかさを感じます。
まさにこの詩を読んでいる人も「体の中身まで青々してくる感じ」になってくるのです。長谷川さんの詩には何度も驚かされてきました。独特で、素敵な才能です。
*
(64)
蓮根を食べる時には 十谷あとり
蓮根の九つの穴は
遠い時間につながっている
赤ん坊だった時 母におぶわれて
森巣橋筋商店街の八百屋で見た蓮根
炬燵の天板に母が並べた蓮根の煮物
正月 おべんとうばこのうたよろしく
行儀よく重箱の中に冷えていた蓮根
蓮根を自分で買い 自分で料理するようになり
こどもは巣立ち 母ももういない
今日もまた蓮根の炒め煮を食べる
蓮根を噛むと蓮根の音がする
ざくざくと盛大な音が頭蓋に響く
蓮根を食べる時には
蓮根のことだけ考えればいいのよ
蓮根にかぶさって蓮根そのものを見えにくくしている記憶の泥を
洗って 切って 火を入れて
夜の食卓に あらためて蓮根そのものと真向かう
穴だらけのわたしの中に蓮根の音が響く
*
「蓮根を食べる時には」について 松下育男
気持ちがよいほど焦点のはっきりした詩です。
構成がよいと思います。
一連目で蓮根にまつわる過去の思い出が書かれていて、
二連目で時をへて今蓮根を食べている自分がいて、
それで三連目で「蓮根を食べる時には/蓮根のことだけ考えればいいのよ」という印象的な詩行が現れます。
三連目のこの二行は、つまり言い換えれば「蓮根を食べる時には、蓮根にまつわる様々なことを思い出してしまう」ということを言っていることになります。
そして蓮根にまつわる様々なこととは、これまでの人生のすべてを指しているのだと思うのです。
「蓮根にかぶさって蓮根そのものを見えにくくしている記憶の泥を/洗って」
なるほど蓮根の穴から向こうを覗いてみれば、これまでの日々がはっきりと見えてくるようです。
蓮根を食べる、という何でもない普通の行為が、厚くて深い生き様を、その穴の向こうに見せてくれています。目の前に見えるものを書いていますが、実は、人生全体を含んだとても大きなスケールの詩であると思います。
*
(65)
たかとうさん 鈴木真弓
自転車乗りだった頃
買い物は自転車
夏も冬も
前かご 後ろかごに
米や猫砂を入れて走った
最後に乗った自転車の最後は
漕いでいると
車輪1周につき1フレーズ
ガタガラゴトガシャン と
けたたましい音を立てた
車の多い通りでは紛れても
住宅街では気まずく
下りて押した
それでも音量はそのまま
車輪1周につき1フレーズ
けれど再生速度が落ちると
音色も変わるもので
乗って漕ぐと
ガタガラゴトガシャン が
下りて押すと
たかとうさ~~ん になった
けたたましさは
幾分やわらいだものの
たかとうさんの家を探し歩いているようで
やはり気まずく
この辺りにたかとうさんが住んでいませんようにと
願った
その後
自動車乗りになったので
たかとうさんを呼ぶことはなくなった
あの自転車が
本当にたかとうさんを呼んでいたのなら
最後の最後の最後に
は~~い
と言ってみればよかった
*
「たかとうさん」についての感想 松下育男
読んでいて、「下りて押すと/たかとうさ~~ん になった」のところで笑いました。
「たかとうさ~~ん」と一度聞こえてしまったら、もう何度でもそう聞こえてしまうのでしょう。
この詩では、「たかとうさ~~ん」のところだけではなく、「車輪1周につき1フレーズ」のところも面白いと思いました。
なんというか、生きていることの細部を自分なりに楽しんでいるな、という感じです。いいなと思います。
あるいは、ちょっとしたことでも人とは違った感じ方ができる、ということです。その感じ方は、生きて行く上で特に役には立たないかも知れませんが、こうして、読んで楽しい詩を書くためには、じゅうぶん役立つ能力かなと思いました。
「自動車乗りになったので/たかとうさんを呼ぶことはなくなった」とありますが、こういった能力を持っている人は、自動車の中の音の中にも、あるいは、これから生きて行くあらゆるところで、誰かを見つけるのではないでしょうか。
読んだあとで、とても明るい気持ちになれる詩です。