松下 育男

詩とともに生きる。詩集『肴』(H氏賞)、他。詩の教室をやっています。現代詩文庫『松下育男詩集』、詩集『コーヒーに砂糖は入れない』講演録『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』発売中。

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俳句を読む 83 犬山達四郎 悲しみに大き過ぎたる西瓜かな

 悲しみに大き過ぎたる西瓜かな 犬山達四郎 西瓜が秋の季語だということは、先日知ったばかりです。季語と季節感のずれについては、だいぶ慣れてきましたが、それでも今回はさすがに違和感をもちました。本日の句、はじめから「悲しみ」が差し出されてきます。こんなふうに直接に感情を投げ出す句は、読み手としては読みの幅が狭められて、多少の戸惑を感じます。それでもこの句にひかれたのは、「悲しみ」と「西瓜」の組み合わせのためです。たしかに、「悲しみ」をなにかに喩えるのは、他の感情よりも容易なこ

    • 本来の、詩との付き合い方

      まあ、いつも同じようなことを言っているんですけど、今日の話は「詩に勝ち負けはないのではないか」という話です。 まあ、実際には、賞とか投稿とか、競わせたりしていますから、勝ち負けがないことはないんですけど、でも、もっと大きく見たら、というか、ずっと遠くから見たら、というか、根本のところでは、ないのと同じなのではないか、ということなんです。 それで自分がやっていることの、ずっと遠くからの視点って、必要なんじゃないかって思うんです。 生まれてきて、詩を書きたくて仕方のない人が

      • 「現代詩の入り口」33 ― 言葉と遊ぶことを喜びとした詩を読みたいなら、渡辺武信の詩を読んでみよう。

        若い頃ぼくは、「現代詩手帖」を必死に読んでいました。 そんな中で、毎号、楽しみにしていた連載がありました。渡辺武信の「移動祝祭日」という文章でした。副題に「「凶区」へ、そして「凶区」から」とあったように、この文章は、1960年代に発行されていた詩の同人誌「凶区」と、その当時のことが記録とともに書き記されたものでした。 「凶区」の同人には、渡辺武信の他に、天沢退二郎、鈴木志郎康、菅谷規矩夫、山本道子、金井美恵子、などがいました。また「移動祝祭日」には「凶区」と同時期に発行さ

        • 「同時代の詩を読む」(76)-(80) 武内健二郎、中西邦春、長谷川哲士、高瀬二音、山本有香

          (76) 八月の影    武内健二郎 ベランダに撒いた米粒を 雀が忙しなくついばんでいる 朝 金魚に餌をやり 植木鉢に水を注ぐ そうすることで 自らもわずかに潤い いつもの一日がはじまる 出かける前 アメリカのかつての仕事仲間と フェイスブックですこし話した 終戦記念日だったが その話はしない 輪郭のない影のような思い出話だ 暑いですね お出かけですか 隣人の声にただ会釈を返す 外は夏だ ヒロシマも夏 ナガサキも夏 日傘を広げる 正六角形の影が くっきりと 

        • 俳句を読む 83 犬山達四郎 悲しみに大き過ぎたる西瓜かな

        • 本来の、詩との付き合い方

        • 「現代詩の入り口」33 ― 言葉と遊ぶことを喜びとした詩を読みたいなら、渡辺武信の詩を読んでみよう。

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        記事

          詩を書く事の二つの側面について。(こちら側)と(向こう側)

          詩を書く、という時に、(こちら側)と(向こう側)の二つの側面があると思うんです。 (こちら側) ひとつの側面は、まさに詩を書くということそのものの側面です。詩を書きたくて書く。書きたくて仕方がないから書く。その側面には、詩と、自分しかいないんです。こちらが側です。こちら側で、世界を遮断して、自分と詩のふたりきりになって、思う存分に詩を書いている、という側面です。そこでは、ほかに人はいませんから、書きたいことが今の傾向の詩とはまったく違っていても、独りよがりでも、妙ちきりん

          詩を書く事の二つの側面について。(こちら側)と(向こう側)

          好きだった詩作が苦しくなる、ということについて

          詩はずっと書き続けるべきなのか、という問いがあります。 当たり前ではあるのですが、人によって異なるのかなと思います。 ぼくの場合は、30代の頃に、詩作が苦しくてどうしても書き続けることができませんでした。そういう人は、無理して書き続けるよりも、キッパリやめてもいいのだと思うんです。 詩をやめる理由って、人それぞれだと思うんですけど、すぐに思いつくのは、 1 ほとんど詩が人から認められることがない、ということ。 これって、その理由はまたいくつかあると思うんですけど、

          好きだった詩作が苦しくなる、ということについて

          詩は人に教えられるものなのだろうか。

          詩の教室をやっていてこんなことを言うのもなんなんですけど、「詩って教えられるものなのだろうか」ということを、よく考えるんです。 ぼくは詩の教室で何を教えているんだろう。そもそも教えるってなんだろうと考えるんです。 というのも、知識を積み重ねたり、難解な事柄の理解方法を説明したり、ということならば、「教える」というのはわかりやすいのです。 でも、詩を読んだり書いたりすることに、知識の積み重ねというのは、さほど関係がないように感じます。 また、難解な事柄の理解方法を説明す

          詩は人に教えられるものなのだろうか。

          読みの横糸 ー 詩のアンソロジーについて

          ぼくは詩の教室で、「吉本隆明になるつもりでないんなら、好きな詩だけを読んでいればいいのではないか」と言ったことがあるんです。 つまりね、詩の状況を俯瞰的に書きたいと思っているならともかく、そうでないのならば、ただ好きな詩を読んでいればいいんだと、思うんです。 好きな詩を読んでいれば、自然と少しずつ読みたい詩人も増えてくるし、その方が楽しいし、それでいいんだと思うんです。 でも、そうしていると、やはり、いつも同じ人の詩ばかり読んでいることになります。もちろんそれでもいいん

          読みの横糸 ー 詩のアンソロジーについて

          【お知らせ】『放課後によむ詩集』に詩を掲載していただきました。

          小池昌代編『放課後によむ詩集』(理論社)に、詩「コーヒーに砂糖は入れない (4)」を掲載していただきました。ありがとうございます。

          【お知らせ】『放課後によむ詩集』に詩を掲載していただきました。

          楳図かずおさんを見た日

          楳図かずおさんが亡くなりました。 ぼくは漫画は読まないのですが、楳図さんの風貌や服の色は知っています。 それで、ぼくは一度だけ、楳図さんを見たことがあります。 15年以上も前の冬だったと思います。 なぜ冬だったと覚えているかというと、忘年会の待ち合わせをしていたからです。 なんの忘年会かと言うと、同人詩誌「生き事」の忘年会でした。 記憶が確かでないのですが、その時に、吉祥寺駅前で立っていたのは、佐々木安美さん、岩佐なをさん、廿楽順治さん、それからそのために岐阜から

          楳図かずおさんを見た日

          ねむりはね

          ねむりはね ねむりはね すこしずつきみの かおに ふってきて かおぜんたいに つもってくる こん やはん こうせつはますます はげしくなり きみのかおの さんかんぶや しがいちにも はげしくふりつのるだろう それでね きみのねむりの しずかなさかみちの とちゅうに ふるびた かんだんけいが つりさげられていて いつもおなじ やさしさの おんどに きみはせってい されているんだ * 先日、「ひとひら言葉帳」というサイトに引用されていた詩の、全文です。 この詩は詩集『

          ねむりはね

          俳句を読む 82 池田澄子 生きるの大好き冬のはじめが春に似て

          生きるの大好き冬のはじめが春に似て  池田澄子 詩人の入沢康夫がむかし、「表現の脱臼」という言葉を使っていました。思いのつながりが、普通とは違うほうへ持っていかれることを意味しているのだと思います。もともと創作とはそのような要素を持ったものです。それでも脱臼の度合いが、特別に気にかかる表現者がいます。わたしにとって俳句の世界では、池田澄子さんなのです。読んでいるとたびたび、「読み」の常識をはずされるのです。それもここちよくはずされるのです。「生きるの大好き」と、いきなり始め

          俳句を読む 82 池田澄子 生きるの大好き冬のはじめが春に似て

          2024/11/08(金) 幸せだ。

          たまに鏡にうつる自分の顔を見て驚くけれども、いつもは目は外を見ているから、74歳を意識することはない。 心は若い頃と変わらない。 最近は、11/16の「隣町珈琲」と11/23、24の福岡での詩の教室の準備があるから、かなり忙しく、そのことばかり考えている。 でも、集中力が若い頃ほどないので、数時間で疲れてしまう。疲れたら無理はしない。休む。ソファーでうとうと眠ってしまう。 日が沈んだら、もう仕事はしない。夕飯を食べたあとは家人と一緒にテレビをゆっくり観る。ニュースと、

          2024/11/08(金) 幸せだ。

          18年目のデート

          思えばずいぶん昔、ある女性と付き合い始めたときに、ディズニーランドへ行こうと、デートの約束をしたことがありました。 しかし、どう考えても、付き合い始めてからそれほど経ってはいないのです。一日まるごとを二人で過ごすほどの深い付き合いではなく、なので、どちらからともなく、やっぱりやめようか、ということにしたのでした。もっと親しくなってからの方がよいと、二人ともが思ったのです。 その後、その女性と結婚しました。 それから子どもたちが生まれ、少し育った頃に、やっとディズニーラン

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          俳句を読む 81 山口誓子 秋夜遭ふ機関車につづく車輛なし

           秋夜遭ふ機関車につづく車輛なし 山口誓子 遭ふは、あまりよくないことに偶然にあうという意味です。ということは、作者は駅のホームにいたのではなく、どこか街中の引込み線か、金網越しの操車場に向かって歩いていたのでしょうか。夜中にうつむいて、とぼとぼと歩いていたら、突然目の前に機関車がわっと現れた、というのです。それも、本来はいくつもつながっているはずの車輛が、見えません。なにかに断ち切られたようにして、機関車だけがそこにぽつんと置かれてあります。読むものとしては、どうしても機

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          「隣町珈琲」課題集成①

          「隣町珈琲」に寄せられた詩が掲載されています。読んでみてください。

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