詩は人に教えられるものなのだろうか。
詩の教室をやっていてこんなことを言うのもなんなんですけど、「詩って教えられるものなのだろうか」ということを、よく考えるんです。
ぼくは詩の教室で何を教えているんだろう。そもそも教えるってなんだろうと考えるんです。
というのも、知識を積み重ねたり、難解な事柄の理解方法を説明したり、ということならば、「教える」というのはわかりやすいのです。
でも、詩を読んだり書いたりすることに、知識の積み重ねというのは、さほど関係がないように感じます。
また、難解な事柄の理解方法を説明する、ということについて言えば、確かに難解な詩はたくさんあって、その読み方を説明することは、ある程度はできるように思うんですけど、そういうのって、なかなか人には伝えられないというか、むしろ、自分で何度も読んでいるうちに、ふと、なにかを自分で感じとってゆくことなんではないかと思うんです。
さらに、詩のテクニックなんて、詩をたくさん書いていれば自然に身につくものであって、人から教えられるよりも、自分でこつこつと詩を書きながら、人に言葉が伝わるためにはどうしたらよいかを、実作でわかってゆくしかないように思うんです。
というのも、詩を書く技術とか、手法って、人の詩を読んでいたり、自分で書いている内に、自分で学んでゆくものなのかなと思うんです。
例えば、擬人法をつかって詩を書く方法とかって、先生に教えられると、かえって妙な教えに縛られてしまって、自分の本来の創作の邪魔になることもあるのではないか。
最初から、今日の詩は擬人法をつかうぞ、と思って詩を書くっていうのも変な話で、書きたいことを書いている間に、気がついたら擬人法の詩を書いていたっていうのが、通常の道筋だと思うんです。そういう時って、擬人法の使い方なんて、自分の中から最良の方法を導き出しているものなのかなと思うんです。
ですから、詩の書き方、というのは、結局のところ、一人で優れた詩を読み、一人で苦労して工夫して書いている内に、自然と学んでゆくものなのだと思います。
それでは、「詩の教室」で学べることって何だろう。
(1)一つは、自分で読んだり書いたりして学ぶのが基本だとしても、創作の時に湧いて出てくる「それでいいのかなという疑問」を、先生に聞いてみることはできます。それによって、自分がやっていることに、若干の確信が持てるとは言えます。いつまでも同じ迷いの中にいる、ということがなくなります。
(2)一人で書いているのとは違って、教室には別の人もいるわけで、そういう人も、自分と同じように頑張って詩を書いている、そういう人から、自分には見えなかった詩の魅力や、詩人のことや、詩を書いてゆく姿勢を、参考にすることはできます。
(3)詩を書くという喜びについて、話し合うことのできる人と、知り合いになることができます。喜びを分かち合うことができます。そうすると、ひとりで書いている時よりも、自分の詩を客観視できるようになります。
あとは何があるだろう。
(4)不器用に詩を愛していても、詩と付き合えます。
詩の教室をやっていて思うのは、誰もが器用で、上達が早くて、センスが良いわけではないということです。
詩が好きなのに、なぜか詩に好かれていない、という人が、いるんです。詩に片思いをしているんですね。どんなに頑張っても、詩がほめられることは、めったにない人です。
それでも、その詩の輝き、というものはあるんです。人から褒められなくても、自分が悦にいっいてかまわないんだと思います。そういう不器用に詩を愛している人こそが、詩と、一番うまく付き合える人なのかもしれないと、思うのです。
詩の教室に行くと、いろんな人がいて、その人たちの、詩との生き方を知ることによって、自分にとっての詩のあり方を、見つけることができることもあります。
(5)参加者の詩は、いくつも読んでいることによって、そのよさが見えてくることがあります。
詩と言うのは、本来、目の前の一編を先入観なしに読むことが、正しい読み方なんだと思うんです。ですから、その詩を書いた人が、ほかにどんな詩を書いているかは関係のないところで、作品というのは成立しているはずなんです。
でも、教室をやっていて気がついたんですけど、教室に初めて来た人の詩を目にしても、どうしても読み取れないものがあります。
その人が何度か教室に来て、その人の詩を何編か読んでいると、「そうか、この詩はこういった意図で書いたのだな、こういうところを目指しているのだな」というのがすっと入ってくることがあります。
本来はそうではいけなくて、どんな詩も、その詩が語ってくれることに集中すればいいのですが、でもその人の他の面や、他の詩を読んでやっとわかるところというのはあるんです。
わかってきたら、なぜ最初の詩で、その人の魅力を感じることが難しかったかについて考えて、それをアドバイスができる、そんなところにも、教室の意味はあるのかなとも、思うんです。
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それで、詩の教室をやっていて思うのは、どんな詩人も、けっこう同じようなことに思い悩んでいるのだなということです。
詩の世界って狭いですし、もちろん有名な詩人と、そうでない詩人っていますけど、でも、やっていることはみな同じであって、詩を書こうとするたびに、一から作り方を探して書いているわけです。
詩人って、同じ悩みを抱えて、同じことをやっている、そこには、もちろん要領のいい人とよくない人はいますけど、よく見てみれば、みんな同じなのではないかと思うんです。
新しく書く詩の前では、有名な詩人も無名な詩人も、まったく同じなんだと思います。だれでもがとても平等にある。それが詩のいいところです。
詩の教室に来る人に言いたいことは自分の場所を見つけてもらいたい、ということです。
自分の場所を見つけること。現代詩手帖賞をとれなくても詩を書く場所はあります。気分良く、自分が好きに書いて、心地よく生きて行ける、詩との付き合い方が探せばきっとある、ということです。
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それで、ぼくはなぜ詩の教室をやっているのか、ということを考えることがあるんです。
詩をうまく書く方法について教えたいから、というのもないことはないんですけど、もっと大きな理由は、詩を書くことの楽しみを、生きる楽しみのひとつに加えてもらいたいからなんです。
詩とうまく付き合って生きていってもらいたいからなんです。
詩で、人と比べて、苦しみすぎるのはやめようと言いたいからなんです。
詩は、いやになったらすぐにやめても構わないんだと言いたいからなんです。
人のやり方と違ってもいいんです。自分なりの詩との付き合い方を探してほしいからなんです。
ちょっとまとまりのない文章になってしまいましたけど、以上が、詩の教室についての、ぼくの考え方です。