「同時代の詩を読む」(21) -(25) 竹井紫乙 ,小川芙由 ,塩谷結 ,佐野亜利亜 ,わらびもち
「同時代の詩を読む」(21) -(25)
(21)
「栗きんとん」 竹井紫乙
仕事帰りに寄った和菓子屋さんで
栗きんとん、大福と抹茶ロシアケーキを買った
恋人と仲直りのきっかけにしようと思って
二人とも甘いものが大好きだから
朝からお金のことで喧嘩した
ささいなことじゃない
恋人は無職でいつでも家にいる
お菓子買ってきたよ
と声をかけて紙袋から商品を取り出すと
栗きんとんが入っていない
レシートには記載されているのに
喧嘩代を支払ったんだよ
と恋人は言った
意味わかんないなと困惑しつつ突っ立っていると
恋人はやおら私の肩をつかんで耳にかぶりついた
しばらくテーブルの下で気絶していたらしい
気がつくと右耳と右目が食べられていた
慌ててふらふら立ち上がってみると
恋人は満足げに椅子に座って
抹茶ロシアケーキを食べていた
耳が聴こえにくく目が見えにくく
右半身がじんじん痛い
いっぺんには食べ尽くさない
ということであるらしい
共食いという選択肢だってあるはずだけど
目の前でお茶を飲んでいる恋人はきっと不味いから
逃げた
逃げる直前におしりを半分食べられた
一年くらいで耳が生えてきて
おしりが垂れてきて目が復活したけれど
以前より性能が劣る
病院で注射を打ってもらったら更に不具合が増えて
食欲がなくなってしまった
元気になったら栗きんとんを買いに行こう
人生と仲直りしよう
次の恋人は美味しそうなひとにしよう
*
「栗きんとん」についての感想 松下育男
この詩、好きです。読んでいて笑いました。
詩はおとなしめに始まっていて、恋人と和菓子のことについていろいろな思いやエピソードを書くのかなと思っていたのですが、途中から裏切られました。とんでもない展開です。それにしても「恋人はやおら私の肩をつかんで耳にかぶりついた」のあとは、どんな読者にも予測のつかない世界が広がっています。愛すべきドタバタです。食べたいほどにかわいい、というのは分かりますが、本当に食べてしまっています。
書かれたもののおかしさが目立っていますが、それとともにこのようなめちゃくちゃな行動をする恋人が無職であるというところにも、コロナ禍の「今」を感じるものがあります。先日NHKで観たのですが、それまで普通に働いていたまじめな若者が突然雇い止めになり、夜の公園を寝るところを探して歩いていました。そんな世の中になってしまいました。
さて、詩に戻ります。自分が無職で留守番をしていて、恋人が和菓子を買って帰ってくるという状況は、うれしくもあり、また辛くもあります。その心持ちを想像してしまいます。それにしても「喧嘩代を支払ったんだよ」の一行は実にうまいなと思います。
よい詩です。愉快な詩です。あっけらかんとした詩です。こういう乾ききった空のような詩を、僕は書けないので、余計に惹かれるのかもしれません。
なんとも甘く切ない栗きんとんです。
(22)
「ゆうれい」 小川芙由
ゆうれいは
透明だったから
すきないろ
という場所に
とても敏感だった
景色を
自分の模様にしていたい
日々の洋服を選ぶきもちで
移ろっていく
旅とは言えない外套のように
ゆうれいにだって
欲がなびくよ
誰とでも重なって
真似する遊びをしていたころ
その人にはなれなかった
光景は
見ていれば
自分もきっといまきれいなのだ
確かめられる五感がなくても
そう思う
景色に自分を置いてみて
写真の
きもちがわかる
それなのに輪郭も名前もないから
ゆうれいって自由が
ゆれているんだと
思った
のは
だれ?
透明な自由と透明な不安が
混ざると見上げて立ち眩み
好きなものばかり
どうしようもなく増える
(ゆうれいはあきらめるたび
うつくしい透明だった
その自覚さえない )
からだとは言い切れなかった
なんだか残りが
こころ
ちょっと詩に似てる
詩の言葉も
きれいなゆうれいになる
声の透明な
空の底みたいなところに
例外だけの
視聴覚室がある
*
「ゆうれい」についての感想 松下育男
小川さんは言葉のきれいなところをすくい上げて詩にまとめあげることのできる詩人です。この詩では「透明」を一心に見つめることによって、詩をわかりやすく作り上げています。
僕がこの詩で惹かれたところは、「透明」であることのとらえ方です。「透明」が自分の体を通過して見える向こうの風景を、服のように着ているのだと捉えているところです。なんて素敵な考え方だろうと思います。
好きな服に着替えるときには、今着ている服を脱ぐ必要はなく、ただ別の好きな場所に移動すればよいというわけです。「透明」な自分が散歩をすれば、時々刻々、別の服をあざやかに着直していることになります。
空も服になり、飛ぶ鳥も服になり、風も、木々も、月の光も、その冷たさも着ることができます。
優れた詩の発想というのは、読む人それぞれがその発想の続きを、奔放に想像できるところにあります。
そしてこの詩を読むと、「ゆうれい」になるのもさほど悪くはないなと、思ってしまいます。
(23)
「斜線」 塩谷結
水車小屋の水車の話をしていて
鈍色の鉛筆でそれをうまく描けるかという話もしていて
実際は高架下の草むらにいたのだけど
(何のだか分からない部品が落ちていて)
私がフレアスカートを履いて立っていて 君が座り込んでいた、
—そしていま深夜私はガードレールに添えられた花を見つける—
「その水車のデッサンを見たのは美術館だった
私最近ダンスばかり見ているからそれがダンスのように思えた」
君は何のだか分からない部品をいじくる、
そしてここには水車があり
巨きな腕で何重も円が重なる
「こわい」
「こわい」
二人で同じのものを恐れ
そしてそれは互いが怖かったのだ、
高架下でデッサンになりながら水車の側にいる、
それは彼らが握るナイフの鏡面の記憶だと
知っていたのだ
互いに、
(しかしナイフは同一で)
「でも絵はダンスではないの
動いている私がダンサーなの、結局
私は絵に見られていたの」
横顔、
—私は花束のそばにかがみ込む
失くしてしまった君の名前が一つしかないから
私と君の名前が一つしかないから
役を演じるようにその花束を座り込んでいた君だと仮定して無惨だと思う—
君が部品を私に手渡す
私は
「これと同じものが
子供の頃いたアパートの畳の上に落ちていた」
と言う
、
ナイフに映った記憶の中で二人で互いの目を指で閉じさせていた
恐れるものしか愛せなく
その方法は相殺でしかないとわかっていたから
部品は高架下と私の幼少期から消え去り
ダンスだ、我々はダンスを見ている
—私は花のそばでヘッドライトを浴びて—
明転
君が目を開く、
暗転
*
「斜線」についての感想 松下育男
この詩は理解するのが難しく感じられるかもしれません。それでも、作者の「こだわりの強さ」は感じることができると思います。そして、そのこだわりの対象である「水車」「デッサン」「高架下」「ダンス」「ナイフ」「部品」などの言葉が、普段よりも深く使われていて、言葉の意味を相互に引き立てているように見えてきます。作者がこだわった言葉たちが幾重にも折り重なってこちらに迫ってきます。言葉を、さまざまな角度から使って見ている、そんな感じがします。
内容はおそらく、若くして亡くなった「君」との思い出を書いています。高架下に二人でいたことがあるのでしょう。ガードレールとあるのは、交通事故を示唆しているのかもしれません。でも、詩はそのような現実の思い出をそのまま語るようには書いていません。まさにダンスのように、その時のイメージや心象を断片的に詩の中にちりばめています。
途中、多少硬い表現はありますが、いくつかのモノを軸にして現実と過去の記憶が交差し、ないまぜになっている感じがします。まさに詩の中のモノの見方や感じ方がめくるめくダンスをしているようにも感じます
「二人で同じのものを恐れ/そしてそれは互いが怖かったのだ、」「恐れるものしか愛せなく」など、気持ちの奥から出てきた鋭い詩行です。
題の「斜線」はどこからきたのかわかりませんが、「車線」に通じる意味を持たせているのかもしれません。読みようによってさまざまに読める詩になっています。ぼくの読み方は、そのうちの一つにすぎません。
(24)
「果たすべき職務」 佐野亜利亜
この春の人事異動で
文化庁長官に任命された
つとまるかどうか疑問だけど
そこそこ年次も上の方だし
いわゆる女性登用ってやつだから
ワタシに断る権利はない
最初の仕事は稟議書への押印
決裁すべき文書が倒れるように
机上に積まれている
マスコミの取材も訪れる
てのひらに包んだ長官印は岩石のよう
カメラを意識し笑顔をつくるが
まっすぐに押せない
印字が掠れる
オンナは仕事に慣れてない
などと言われたくないから
押すテンポにも気を配る
文書の内容なんて
もはやかまっていられない
空気が薄くなる
押印を終了し
ドアを開けると秘書さんたちが
一斉に立ち上がる
ちょうかん どうされましたか
むやみに であるかれては こまります
まあまあまあと部屋に押し込められる
緋色に染まりかけた岩石の底
「文化庁長官之印」
と刻印されているはずが
崩れた書体で判読できない
異なるハンコが押されていても
これでは誰も気づかない
(変えてみよう きっぱりした文字に
ドアを開けると秘書さんたちが
一斉に立ち上がる
正面玄関へと続く階段を
ワタシは無言で
採石場めざして駆けおりる
*
「果たすべき職務」について 松下育男
日曜の朝、つまり今朝この詩を読んで、いきなり笑ってしまいました。面白いです。まずなによりも、こういった内容の詩を書こうとした作者の気持ちのことを考えました。普通の人は「この春の人事異動で/文化庁長官に任命された」なんて、詩に書きません。だって、任命なんてされていないのですから。それでも平然と書いてしまうところが、普通の人よりも一歩、足を踏み出している証拠です。
個性的な詩です。いきなり二行目の「文化庁長官に任命された」でぼくは驚きました。どこか夢の中の世界のような、自分の意志とは違うところで物事が決定され、自分がそれに翻弄されてゆく感じがよく出ています。カフカのようでもあり、舞台劇のようでもあります。
これだけ突拍子もない設定で詩を書き始めているのに、その設定を最後まで持ちこたえて、読ませる筆力はすごいと思います。
ずっと読み進んでいって、最後の行でまた笑いました。こんな展開は予想もしていませんでした、もちろん笑ったのは滑稽だからですが、それだけではなく、よくぞこんなことを書いたなと、感心させられたからです。この長官が採石場に行って、自分で石を砕き、うつむいてハンコを作っている姿をどうしても想像してしまいます。なぜか、詩を読みながらそんな想像をすることが気持ちいいのです。つまりこの詩は、読んでいて気持ちのよくなる詩なのです。日曜日の朝に読める詩です。
幾度も言いますが、「採石場めざして駆けおりる」は見事です。なんと「きっぱりした文字」で書かれた詩かと思います。
詩はさまざまに現れてきますが、良質な詩は、その現れ方にかかわらず胸にきちんと届いてきます。
(25)
「やめるわけにはいかないんです」 わらびもち
京都のにぎやかな六角通りの一角に
目立たない洋食屋さんがあった
「席はもう最後やけど入りますか」
わくわくした
調子に乗ってしゃべっていたら怒られた
「うちからクラスター出したあないんで近づかんといて」
うしろのカップルも怒られた
「紙コップのコーヒー持ち込むんやったら千円もらいまっせ」
焼きあがったハンバーグ
思わずやわらかいとつぶやいた
ふてぶてしかった店主が急に笑顔
「うちは全部信州産のA5の肉やで」
えっほんまですか
めちゃくちゃおいしい
「今コロナでA5の行き場がなくなって
古いつきあいのあるうちに卸してくれてるんや
ありがたいことや」
また食べたくなって店を訪れた
臨時休業の札と黄色のチェーン
土曜日なのにおかしい
ホームページによると二週間後に開けるらしい
二回目に訪れたとき店内の雰囲気が変わっていた
店主の言葉がやわらかい
心なしか痩せたような
キャベツを刻む音が心地いい
「手術しましてん
血管膨らましてカテーテル入れましたんや
二回やったんですよ
あともう一回手術しますのや
飲食店やから閉めないといけないんですわ
手術せんかったら命が危ない
今、やめるわけにはいかないんです」
*
「やめるわけにはいかないんです」について 松下育男
詩には、それ自身を人に押しつけるのではなくて、その詩を読むことがきっかけになって考え事にふけらせてくれる、そういった作品もあります。正直、この詩を読んでぼくはさまざまなことを考えました。
なんでもない出来事が飾らずに書いてあります。でも、文章の根っこにある大切なことというのは、本来そういうことではないのかなと思わせてくれます。
ところで、この詩には途中にカギ括弧があって、その中に会話が入っています。こういうのって小説ではあたりまえですが、詩ではありそうでいてあまりありません。
語ったこと、起きたこと、見聞きしたことを、淡々と書いています。書いてあることは嘘でないなと、わかります。ですから臨場感があります。言葉が生き生きとしています。読んでいると、次に何が起こるだろうと興味を引かれます。
言葉に凝っているわけではありません。魅力的な比喩があるわけでもありません。でもこの詩は、読み手を確実に引きつけることができています。それが、まっすぐで強い個性になっています。詩の向こうに、書いている人の様子が想像できます。
それから、前半と後半のメリハリもよくきいています。「ふてぶてしかった店主」が、後半ではやわらかくなっています。痛みを抱えたあとの人の変わり方が、よく表されています。状況によって、強気だった人がしゅんとなってしまった姿を見ていると、どこか、以前の生意気な人に戻って欲しいという気持ちにさせられます。
コロナ、健康、年齢、性格、この詩には私たちをぐらつかせるさまざまな要素が入っていて、それゆえ読む人それぞれの考えの中に、入ってゆける詩になっています。
言葉を飾るばかりが詩ではない、ということをこの詩は教えてくれています。
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