2024年3月1日(金)なぜ詩でなければいけないのか
今朝は午前4時に目が覚めました。まだ4時なのだよと、「午前4時」がやさしく言ってくれているようでした。だからもっと眠ってもいいのだよと、ふとんを首までかけてくれるようでした。
本日はもう3月です。3月になると憂鬱になる、ということも、だいぶ前からなくなりました。
昨日は金井雄二さんの詩集を読んでいました。3/20の「Zoomによる詩の教室」に向けての準備を始めました。当日、金井さんと何を話そうかと考えながら、ひとりで準備をしていることは楽しい。
そういえば、今月の「現代詩手帖」に、峯澤典子さんが、なぜそれを書くのは詩でなければいけないのか、というようなことを書いていました。
なぜ自分はこれを書くのがエッセイではなく、小説でもなく、俳句でもなく、あるいは日記でもなく、詩なのか、という問いは、詩とはなにか、という深い問いにつながってゆきます。一日中考えていられます。
さて、金井さんの詩には、間違いなく、詩にしか書けないことが書いてありました。
ところで、詩を読むことは、その詩のよさを隅々まで味わうものですが、さらに、詩によってもたらされる過去の記憶や感情を、自然と思い出すことでもあります。
ですから、読むひとによって、微妙に詩の受け止め方は違ってきます。
ですから、読むひとによって、好きな詩人は違ってきます。
違っていいのです。違っているからいいのです。
だれもが、だれとも違って生まれてくる、ということほど、素敵な奇跡はないのだと、詩を読むたびに考えるのです。
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