2024年3月28日(木)亡くなったのちの詩集
このところ疲れ方が以前よりもひどくなったと感じる。30分ほどの散歩から帰ってきただけで、ソファーに倒れ込んでしばらく横になっている。調子が悪いのか、歳のせいなのか、わからない。
ところで、自分の欲だけのためのおこないは、結果として、何かが欠けてしまうように感じる。自分のためだけでなく、まわりの誰かのため、あるいは何かのための志が少しでも含まれている詩作は、それだけで生まれた価値を持つ。そんなふうに感じる。
茨木のり子さんには『歳月』(花神社)という詩集がある。この詩集はご自身が出版したのではなくて、茨木さんが亡くなった後に、甥御さんによって出版されたものだ。
というのも、内容が、先立ったご亭主への恋歌だったから、照れくさくて自分では出せなかったもののようだ。恋愛詩でさえも、きりっと背筋が伸びている。朝のテーブルでこの詩集を読んでいて僕は、うかつにも涙を流してしまった。
先日のnoteの日記に、菅原克己さんの詩は誰かのための詩が多いと書いたけれども、茨木さんのこの詩集は、まさに亡くなったご亭主に向けて書かれた詩だ。
自分の栄誉や欲のために書かれた詩が持ちえない気品を、感じる。
では、短いものをいくつかここに。
☆
占領
姿がかき消えたら
それで終わり ピリオド
とひとびとは思っているらしい
ああおかしい なんという鈍さ
みんなには見えないらしいのです
わたくしのかたわらに あなたがいて
前よりも 烈しく
占領されてしまっているのが
☆
泉
わたしのなかで
咲いていた
ラベンダーのようなものは
みんなあなたにさしあげました
だからもう薫るものはなにひとつない
わたしのなかで
溢れていた
泉のようなものは
あなたが息絶えたとき いっぺんに噴きあげて
今はもう枯れ枯れ だからもう 涙一滴こぼれない
ふたたびお逢いできたとき
また薫るのでしょうか 五月の野のように
また溢れるのでしょうか ルルドの泉のように
☆
電報
オイシイモノヲ サシアゲタシ
貴公ノ好物ハ ヨクヨク知リタレバ
ネクタイヲ エランデサシアゲタシ
ハルナツアキフユ ソレゾレニ
モットモット看病シテサシアゲタシ
カラダノ弱点アルガゴトクアラワニ見ユ
姿ナキイマモ
イマニイタルモ