「現代詩の入り口」12 - 胸に直接響く詩を読みたかったら、宮尾節子の詩を読んでみよう
「現代詩の入り口」12 - 胸に直接響く詩を読みたかったら、宮尾節子の詩を読んでみよう
この原稿は宮尾さんとの対談のために用意した原稿です。宮尾さんがご自身で詩を朗読して、そのあとで僕が解説をするという手順でした。書いた本人の前で詩を解説するというのはとても緊張します。
(1)
グッド モーニング 宮尾節子
コップ一杯の
水道の水が
ひとりの大人の人間を
立ちあげる
いちばん正しい
飲み物である
君がいるのは
ぜいたくだ
――『くじらの日』より
*
「グッド モーニング」について
この詩には清涼感を感じます。スッキリ感とも清潔感とも透明感とも言えるかも知れません。健康な生き方、健康なあり方、生き物の存在のあり方、背筋の伸ばし方。そういうものを感じます。
そしてこの詩は、全部を書ききってはいません。書いてない部分は、読む人が書かなければならない詩です。書かなければならない部分とは「なぜ君がいるのはぜいたくなのか」という部分です。あるいは、コップ一杯の水を飲むことが大人の人間にとって正しい飲み物なのであるなら、「なぜ君がいるのはぜいたくなのか」ということです。
考えてみましょう
「君がいるのは/ぜいたくだ」というのは、すぱっと切れ味のよい日本語ですが、そもそも何を言わんとしているのでしょうか。君がいること、存在していることがぜいたくだということでしょうか。いるだけで贅沢だという考え方は、とても面白いと思うし、とても引き下がった謙虚な感じかたです。だから、これでもいいかなと思います。
あるいは「君がいるのは/ぜいたくだ」というのは、君にとってではなく、誰かにとって君がそばにいることは贅沢だ、という意味でしょうか。そうするとこれは恋愛詩になりますが、どうもそんな感じはしません。恋愛とは遠いところの言葉のような気がします。
そもそもコップ一杯の水道の水に対比されているものはなんでしょう。おそらくジュースや果物、高級な料理。つまりは「ぜいたく」なものです。
一連目には「ぜいたく」という言葉は使われていませんが、じつはここにぜいたくが隠されていたのです。
整理すると、一連目で言っているのは、「ぜいたくでないことがただしい生き方である」ということのようです。
それに続いて「君がいるのは/ぜいたくだ」と言っているということは、生きる姿勢そのもの、ここにあることのありがたさや、かけがえのなさ、もったいなさ、むだにはしたくないという気持ちが、こもごも入っているのではないでしょうか。
先ほども言いましたが、とても切れ味のよい詩です。
言いたいことは言わずにすませてしまっている。それだけに、詩の本質だけが磨かれてここに置かれている、という気持ちがします。
こんなに健康な詩が読めることも、まちがいなくぜいたくです。
(2)
ポートレート(又は月日)
きみが
シャッターを押すから
私の悲しみは
全部笑っている
――『くじらの日』と
『宮尾節子アンソロジー 明日戦争がはじまる』に収納
*
「ポートレート(又は月日)」について
この詩はとても短い。昔はこれくらいの短さの詩もけっこう書かれていたように思います。三好達治のアリがチョウチョの死骸を引いている詩とか、吉田一穂の「ああ麗しきディスタンス」とか、安西冬衛の「てふてふが韃靼海峡を渡って行った」とか、黒田三郎の「何度も打ち上げよう、美しい願い事を」とか、有名なのがいくつもありました。
でも、最近はこれほど短い詩はそんなに見かけません。日本の詩はだんだん長くなっていきます。なぜでしょう。そのことを考えるのも、詩の秘密に触れるひとつの道なのかも知れません。
ところでこの詩です。まず「きみ」というのはだれのことでしょう。
だれだかわからないし、だれでもいいのですが、この「きみ」は恋人なのではないかと思います。理由はありません。この詩のどこかに恥じらいのようなものを感じるからです。
きみがシャッターを押す、ということは、きみが私の顔や姿を写真に撮るということです。写真に撮って引き出しやポケットにしまうということです。
きみはその写真をときどき取り出して、写真の中の私を好きな時に好きなだけ見つめるだろう、ということです。
そんなきみに対して「私の悲しみは/全部笑っている」と書いてあります。
どういうことでしょうか。普通なら「私はわらっている」となるところです。でもこの詩では「私は笑っている」だけではなくて、「悲しみ」と「全部」が入っています。
写真を撮られている、この一瞬だけを笑うのではなく、これまできみと過ごしてきた数々のできごとをふくめて笑う、ということでしょうか。その数々のできごとには楽しいことばかりではなくて悲しいことも入っています。悲しいことも一緒になって、こもごもわらっているということのようです。
だから題名には「月日」という言葉が入っているわけです
笑っているのはきみではなく、きみの悲しみでもなく、きみとわたしの月日そのものだったのかもしれません。
(3)
私を渡る
夢の果てに
葦原がある
葦原の向こうは霧
濃い霧がかかって
時折そこに
幽霊が立つ
北の旅は
葦原までと
夢のなかでも
決めていて
入ってしまった
葦原に気づくと
心臓が鳴る
こわい葉群を掻き分け
ぬかるむ地面に
足を取られながら
目覚めへ急いで
引き返す
葦原のなかには
だから
おびただしい
足跡がある
戸惑い ためらい
引き返す
何年分もの
心のあとが
ついている
でも
目覚める前に
必ず振り返るので
苅り取られることのないまま
拡がる夢の葦原
その先の憧れにかかる
霧の橋よ
いつかきっと強い
南風が吹いて
夢の葦原を越える
その先の霧の橋を渡る
その時
信じなければ
消えてしまう
さびしい幽霊橋を
その時
信じなければ
落ちてしまう
おそろしい自分の橋を
君に会いたい一心で渡る
見たことのない私が渡る
見たことのない私を渡る
足のない私が
霧のなかを渡る
葦原の一斉に指さす
君に向かって渡る、渡る、
私を渡る
――『かぐや姫の開封』より
*
「私をわたる」について
夢の中の話です。夢の中のできごとを詩に書く、ということは一般的によく行われていて、「詩が書けない時は夢に見たことを書けばいい」と言う人もいます。でも、やってみればわかりますが、夢の中の出来事というのは、たしかに現実みたいにきちっとしていなくて、そこが奇妙な感覚をもたらしてくれるということはあるんですけど、詩にするとそれほど面白いものができないんです。なぜなんだろう。
この宮尾さんの詩は、夢の中のことを詩にしているというのとも、ちょっと違うんです。夢の中の出来事を、夢そのものの一部として描いて、詩にしているのは夢を含んだ全体なんです。夢を見ている自分を詩にしています。ということは、夢をみていない自分をも詩にしているんです。つまり夢にもたれかかっていない。すごく醒めているんです。醒めた夢だから興味深いんです。
詩は「夢の果てに」という言葉で始まります。つまり、夢の中ではないんです。夢の果てって、どこなんでしょう。果てっていうのは最後の場所ということです。はじっこ。つまり夢の果てっていうのは、夢の最後のところです。そのすぐ先は夢でなくなる場所です。夢の果てに葦原があって、そこに幽霊が立っているようです。
葦原って、日本の神話によく出てきます。この世とあの世の境目にある草です。さびしげな草です。だから幽霊が立っているのでしょう。
二連目は、葦原の向こうへは行ってはいけないと、夢の中でも思っています。苦しい夢です。
三連目は、この葦原に何度も来ていて、つまり同じ苦しい夢を何度も見ていて、ためらうとあるのですから、その向こうへ行こうかと思ったこともあるということです。幽霊になった誰かに逢いたいということでしょうか。そうであるならば、これは恋愛詩になります。
四連目で葦原の向こうに「憧れにかかる霧の橋」があると書いてあります。「霧の」という形容詞は、明確な形にならない思慕、つまりはあこがれの状態を表しているということでしょうか。
五連目で、いつか必ずそちらに行くのだという決意が語られています。葦原の向こうへ行くということは、自分も死ぬということでしょうか。でも、詩はさほどの暗さがありません。どこか、喜びに満ちてもいる感じがします。
六連目で、いよいよその橋を渡ります。「君に会いたい一心」というのですから、やはり先立った恋人か連れあいを追ってゆくということでしょうか。「見たことのない私が渡る」というのは、ふっきれた私とでも解釈できます。でも、「見たことのない私を渡る」というのは、どういうことでしょうか。この橋は、自分自身の中にある限界、自分で越えられないと決めつけている限界をも表しているようです。ということは、これは恋愛詩ではなく、自分を乗り越えようとする詩のようです。
最終連にも明確に、「私を渡る」とあります。でもその前には「君に向かって渡る」ともあります。やはり目指す君の存在があるわけで、ここまで読んでくると、人の生き死にとか、夢の中とか外とか、ということではなしに、自分が尊敬する人に追いつこうとする、必死な自分を描いているのではないかとも、考えられるわけです。
たくさん生えている葦の葉のひとつひとつは宮尾さんが書いてきた詩の一行一行でもあり、それを乗り越えたところに、さらなる詩を書き続けようという決意にも見えてきます。
(4)
油蝉 宮尾節子
それはどこから
やってきたのだろう
それは誰から
聞こえたのだろう
しきりに起こす声が
庭いっぱいの
油蝉の声に変わった
ある夏の
幼い日のことである
昼寝の後の
まだ醒めきらぬぼんやりした頭で
母が死ぬ、
私より先に
彼女は死んでしまうと
にわかに気づいて私は戦慄し始めた
たちまちたまらなくなって
起きあがり 土間の奥の
暗い台所に母を捜しあてると
「ああ 間に合った」
という安堵感とともに
夕飯の支度でネギなど刻んでいる
後ろ姿へとびついて
「死なないで」と泣いて訴えた
「ああ 生きてる 生きてるよ」
と母は唐突な願いにこたえて
思う存分彼女のあつい身体に
触わらせてくれた
そしてこの日溢れる水甕の傍で
私は心ゆくまで母の健康な生を
満喫したのである
生きている、間に合った、
そのありがたい感触がずっと
手のひらに溜められて
やはり早く死んでしまった母の
後に残された私に
今もあたたかいまま
届いている
しかしそれは不思議な日だった
あれはどうも普段に生きている人を
普通に触わった感じじゃなかった
幼くて結べない祈りの手が
夢をかいくぐって予感の明るみへ抜けた
その人がその事で
損なわれないうちに いちばん良い姿を
「触わらせてくれ」
「ああ 触わってくれ」と
時を遡って
未来の悲しみから戻って来たように
時を留めて
過去の喜びが待っていてくれたように
時空を超えて生の煌めく瞬間を
交歓し合った感触だった
感動だった
そしてそれは本当はたった一行で書ける
了解だった
激しい油蝉の声で始まり
「手は 間に合うのだ」という
幼い啓示を握った
なぜかこの日の事件が
私にとって
いちばん詩に近い
詩を書く理由に
近いものである
――『かぐや姫の開封』より
*
「油蝉」について
不思議さについて書かれた詩です。素敵な不思議さが、この世の中にはあるに違いないと感じる瞬間です。特に肉親の死については、よく聞く話に、遠くに住んでいるお父さんが息を引き取った瞬間を、なぜか感じ取って、手に持っていたものを落すとか、あるいは電話が鳴って、その瞬間なぜか不吉なものを感じて、なぜだろうと電話に出ると、人の不幸であったり、さまざまなものがあります。
科学的に考えれば、むろんそんなことはないのだろうと思うのですが、科学だけでは済まされないことがあるから詩は書かれ、物語は語られてゆくのだろうと思います。
少女の時に、なぜかお母さんが死んでしまう予感がして(はっきりと予感したというのではないのでしょうが)、お母さんに抱きつく。その後、お母さんは早死にをしてしまう。今に思えば、将来、お母さんを亡くすことになるだろう自分が、昔の自分に、「今のうちにお母さんを抱きしめておいで」と教えてくれたのではないか、というものです。
この詩が衝撃的なのは、前半の「お母さんが死んでしまう」という焦りは、単に親だからトシをとって早く死ぬだろうという思いから来ているもののように書かれていることです。少女の時の自分も、そう思ってお母さんを抱きしめていたのかも知れません。それが、読み進めるうちに、お母さんは早く死んでしまうということを、どこかで感じていたからあんな思いに駆られたのだと、読者も知り、また本人も知るという構図です。本人が知ると同時に読者も知る、という過程が、すごく衝撃的に受け止められるわけです。
詩の最後の所に、「なぜかこの日の事件が/私にとって/いちばん詩に近い/詩を書く理由に/近いものである」と書いてあります。まさに、詩を書くことは、何を書いたにしろその向こうに、死を書いていることに繋がっているということだから、宮尾さんはそう感じたのだと思います。
なぜ自分はこんなところに生きているんだろう、という思いは、そのまま死ぬということを考え、書くことに繋がってゆきます。そのような意味で、この詩は、詩を書くことの中心をしっかりつかんだ作品なのだと思います。
(5)
天然の恋 宮尾節子
死んだら生きていけない
ぐらい好きだった
かなしいのは
死んだのに生きている
わたしのかなしさだ
失いつづけるすき間を
いなかったことのように
なかったことのように
生きていけるかなしさ
あなたが死んだら
わたしも死ぬという
恋をゆるさなかった
あなたが死んで
わたしが生きている
自然の姿
あなたはあなたであり
わたしはわたしである
自然 ここだ
ここでわたしたちは出会っている
最後のかなしみにも
最初のよろこびにも
――『妖精戦争』より
*
「天然の恋」について
一行目を読んで、僕は笑ってしまいました。「死んだら生きていけない」って、当たり前じゃないのと思ったからです。「私が死んだら、私は生きていけない」ということなのかと思って、単に「生きていけない」というのを駄目押しのように「死んだら」をつけたのかなと思っていました。詩では、時に当たり前のことを言う事で、強調することができますし、これもそのような意図なのかなと思ったのです。うまい言い方だなと感じました。
ところが、先を読み進めるうちに、笑ってしまったことを後悔しました。この詩はとても真面目な詩だったからです。
最初の一行で笑うべきではなく、二行目までを読むべきだったのです。「死んだら生きていけない/ぐらい好きだった」ということは、「あなたが死んだら/わたしが生きていけないぐらいすきだった」ということです。
それで次に書いてあるのは、「死んだのに生きている/わたしのかなしさだ」ということ。つまり、あなたが死んだら生きていけないほど好きだったのに、生きていけていることが悲しい」ということです。どうやって生きていけているかというと、「いなかったことのように/なかったことのように」ということのようです。つまり現実から顔を背けているということです。あなたが亡くなったという現実から顔を背けなければ、生きていけなかったとも解釈できます。
ここで気をつけなければならないのは、「あなたが死んだら生きていけないほど好きだった」とは言っていますが、「あなたが死んだら、私は生きていけない」とは言っていないことです。
だから次にはっきりと言っています。「あなたが死んだら/わたしも死ぬという/恋をゆるさなかった」と明確に言っています。どんなに好きでも、「あなたはあなたであり/わたしはわたしである」ということです。
好きな人が亡くなる、という経験は長く生きていると多くの人が経験します。ぼくもそのような経験をしました。この詩は、読む人おのおののうちに、思い出をよみがえらせてくれます。
なぜなら、好きな人を失うという経験が、どうやったって一生忘れられないものだからです。
この詩は、はっきりと、「あなたはあなたであり/わたしはわたしである」と言い切って、出会ったことをそれとは別の大切な出来事であると割り切っているように読めますが、実際にはどうでしょう。
おそらく、ここまで言い切れるようになれるまでにはたくさん苦しんで悲しんで迷ったことだろうと思います。
もし、なにも迷わずに、自分は自分、と最初から考えられるような人は、このような詩を書くわけはないと思うのです。
迷いや悩みをそのまま詩にすることもいいけれど、この詩のように、もう迷ってはいないと書くことによって、その裏に途方もなく大きな悲しみを隠している詩が、僕は好きです。
(6)
わたしは知らない
触わったら駄目、
と叱られた
傷口に
かさぶたができていま
一所懸命治そうと頑張っているんだから
あなたのひふが
そうか。
さわらないほうがいいのか
でもどうしてもさわりたかったては
どこからのびていたのでしょう
さわりたくてたまらなかったては
だれがのばしていたのでしょう
わたしじゃなくてだ、れ、が。
だから さわった
はがした ちがでた
ないた なんかいも しかられた
ははとかそんなのに
でも
ひふよりつよいちからが
わたしのひふをやぶるんだ
もの おかあさん
わたしは知らない。
触わらないと強くなる皮膚があるように
会わないと強くなっていく も確かにね。
たしかにね。
そうか
さわらないほうがいいのか
でも
さわりたかった
そうか
あわないほうがいいのか
でも
あいたかった。
――『ドストエフスキーの青空』より
*
「わたしは知らない」について
皮膚の傷口をさわってしまう、という行為と、離れているお母さんに会いに行くという行為がダブって描かれているのかなと思いました。間違っているかもしれないのですけど、僕はこの詩をそういうふうに受け取りました。
普通の読み方としては、お母さんと離れて暮らしていて、お母さんに会いたい、だから禁じられても会いに行きたい、会いにゆくという事実がまずあります。
それを表現するのに、お母さんを傷をもった皮膚、自分をそこにふれようとする指として喩えているわけです。単純な比喩の構図になっています。単純でもかまわないわけです。この詩は、比喩の格好良さを読んでもらいたいわけではなくて、語られている内容をしっかり読み取ってもらいたいからです。そのためには、構図は単純なほうがいいのです。
読めばなんとも健気というか、切なくなる詩です。
比喩ではありますが、皮膚の傷口に触りたくなる気持ちというのは、それだけでひとつの詩が出来そうなほどの深い内容になっています。
というのも、だれしもそのような経験をしたことがあるからなのです。かさぶたをもう数日そのままにしておけば、傷口は完全に治るとわかっているのに、あるいは、今めくったら痛むということがわかっているのに、なぜかめくりたくなってしまう。そういう気持ちってたしかにあります。その気持ちを、宮尾さんは、「でもどうしてもさわりたかったては/どこからのびていたのでしょう」と書いています。自分の心の迷いではなく、自分とは別の存在(もう一人の自分)がそうしているのだと書いています。もしかしたら、本当の自分はそっちの方なのかも知れないと思ってしまいます。
その、もう一人の自分は叱られます。だれに叱られるかというと、「ははとかそんなのに
」と書いてあります。こんなところにも、お母さんに対する複雑な心境がとてもうまく表されています。
この詩で宮尾さんがたどり着いたひとつの考え方は、「触わらないと強くなる皮膚があるように/会わないと強くなっていく」というものです。この言葉に読者は、多くのことを考えさせられます。我慢することのつらさと、それによって得る物。
この詩は、宮尾さんがお母さんへの複雑な思いを正直に書いていますので、たどり着いた考え方はとても深いものになっています。
そして、読む者にとっては、「欲しいものにすぐに手を出さないことによって、得られる大切な物は自分にとってなんだろうと考え始めます。
また、自分の中にいるもう一人の自分の顔を、じっと見つめます。
(7)
橋 宮尾節子
「別れないと言って」
「わからない…」
「別れないと言って!」
「わからない」
「わからないじゃなくて
別れないと言って!」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて
ぜったい、別れないと言って!」
「いえない!」
「別れないと言わなきゃ
ぼくはもうここを、ぜったいに動かない」
………
橋の上で
青いリュックが小さかった
仁王立ちの
背中の
なぜ言ってやれなかったか
「ぜったいわかれない」
という大きな嘘を
おまえにだけはつきたくない
おまえに嘘だけは
その本当がいちばんおまえを苦しめているのに
いちばん苦しめたくないおまえを
苦しめた本当の
母はまだ渡れない
あの日の橋を
おまえは本当が渡れない
わたしは嘘が渡れない
ちっぽけなふたりを
はりつけた
あの橋を
――『ドストエフスキーの青空』より
*
「橋」についての感想
この詩は先ほどの「わたしは知らない」と逆の立場の詩のように読めます。去ろうとしているのが私の方で、離れたくないと訴えているのは子供です。語り言葉と、母親の心境の両方が書かれていますが、「わたしは知らない」同様に、とても緊張した場面の詩です。身につまされます。宮尾さんに十篇選んでくれといったら、このような、肉親との別れについての詩が複数出されてきたことに、感慨深くなりました。
一連目は、橋の上で別れる、別れないの言い合いをしています。具体的な内容です。片方は別れないと言ってくれと頼み、もう一人は言えないと、拒否しています。で、その拒否はなぜなのかについて、そのあとで書いています。
四連目、別れないと言えないのは、別れたくないからではなくて、嘘をつきたくないからなのだ、ということのようです。母親も実は別れたくないのです。でも、何らかの理由で別れざるをえないのでしょう。だから、言いたくても「別れない」という嘘をつけません。子供に対しては真実でありたいという思いからです。この辺の覚悟を見れば、なぜ別れることになったかの想像はつかないまでも、ここに至るまでの母親の苦しみや痛みが感じられます。
最後に、この「嘘をつく」ということを、橋を渡ることに喩えています。橋は単なる橋ではなく、「嘘をつくこと」を意味しています。「嘘をつく」という「ごまかしの橋」です。あるいは「おまえの橋」と言っているように、相手と別れること自体の「覚悟の橋」でもあります。また、子供との間にかかる「関係性の橋」でもあるようです。この辺の橋の多くの意味の重なりは見事です。おそらく、こういう事態に至った多くの関係者との「関係の橋」でもあり、さらにその向こうに広がる「世間の橋」「他者の群れの橋」「自分自身がここにあることの橋」でもあるのでしょう。
(8)
ホテル 宮尾節子
ホテルが
好きです。
響きが
ホタルに似てるから
夜には
明かりが灯もるから。
ホテルが
好きです。
眺めがよくて
眠れるところが
天国に似ていて
おはよう
ございますと
朝食が
付くから。
――『恋文病』より
*
「ホテル」についての感想
この詩で読むべき箇所は、格好をつけていない、飾らない、ということの大切さです。
とっても率直な詩です。詩は、こね繰り回して作らなくても、すっと素直にでき上がるのだなと思います。ホテルに行った時に感じたのか、ホテルに行った時の事を思い出しているのかわかりませんが、「いい気分」が湧き上がってきたのでしょう。そのいい気分を見つめていると、わたしはホテルが好きなんだなとわかったということです。ホテルが好きなことを詩に書くのだから、どんな飾りもつけずに「ホテルが/好きです。」と、ともかくも書いてしまったのです。
好きだと書いてから、どうして好きなのだろうと、後追いで理由を考えています。その時に、ふっと「ホタル」が思い浮かびます。響きが似ているからでしょう。響きが似ているだけでは詩にするにはちょっと無理がありますが、そう言えば、ホテルもホタルも、光る物だなと気がついて、ここで二つの物が結びつきます。結びついたら もう、これは確実に詩になるなと、確信します。二つのイメージが結びつくと、あるいは関連づくと、詩は間違いなくでき上がります。あっ結びついたな、と感じる時、詩人の中にも灯がともるのです。
それからまた、「ホテルが/好きです。」に戻ってきて、「眺めがよくて/眠れるところが/天国に似ていて」と、その理由が書かれていますが、ここもじつに飾り気がなくて、正直そのままの理由が書かれています。
でも、ホテルが好きな理由はそれだけではなくて、さらに飾らない理由が最後に書いてあります。「おはよう/ございますと/朝食が/付くから。」とても具体的な理由です。ここで、「朝食がつくから」だけでも、主婦にとってはとても幸せなことだと思いのですが、それだけではなく、「おはようございます」と誰かに言ってもらえる喜びが加わることによって、この詩全体があたたかくなってくるのです。
(9)
恋文病 宮尾節子
あたたかい
春の日差しが
草木に花を咲かせるように
指先から生まれる言葉がみな
紙の上で恋文になっていくような
病気が——
あるのですか、せんせい
わたしが、知りたいのは
恋文病が
本当に春の病気か
あるいは、
冬のうわ言か——
なのです
だって、こんなにも
つめたいのだ
書き終えたときの
わたしの指は
――『恋文病』より
*
「恋文病」についての感想
これもまた、とっても素直な詩です。詩を書くための企みや工夫を排除しています。あるがまま、そのままの気持ちを書こうと書いているようです。
「恋の病」という言葉があるわけですから、恋する気持ちは病の一種なのでしょう。ただ、普通の病は自分の中で癒えてゆくものですが、恋の場合、治療はむしろ、快復は相手の言葉や態度にかかってくるという不思議な病です。
この詩でも、「指先から生まれる言葉がみな/紙の上で恋文になっていくような/病気が」と言っていますが、恋している時は、みんなそんなものでしょう。だから気持ちはよくわかります。恋をすれば、心はすべてそれだけで一杯になってしまうわけですから。
で、三連目では先生に質問をしています。「恋文病が/本当に春の病気か/あるいは、/冬のうわ言か」という質問です。ここも、素直な質問と受け取ってかまわないと思います。恋をすることが、喜びであり、つらさでもあるという、二面性を表しています。
恋文を書いた先の文字はこんなに温かな幸せで満ちているのに、文字を書く指は、冷たくなっていた、という印象的な描写で詩は終わります。
むろん、生涯に幾度もない重要な手紙に向かっているのですから、あくまでも間違いのない冷静さとしての冷たさと、持っている情熱のすべてを文字の中に注ぎ込んだ後の、残った肉体の冷たさと、その理由は読者によって、行く通りにも考えられるだろうと思います。
素直で、健気で、うれしくて、切ない、恋の歌です。
(10)
ひなた雨 宮尾節子
河川敷の野原で
リードを外した飼い犬が
わたしに背を向けて、とことこと
遠くの方へ歩いて行くのを見ている
川からは、涼しい風が寄せて来る
好きというのは
そばにいたい、ということ
「こんなにも、すき」と
全速力で、駆け寄って来ていた犬が
きょうは得意そうに
「ほら、こんなにも」と
わたしから遠くへ、離れてみせる
こいしの、はもんが
みなもに、ひろがるように
「こんなにも、すき」の
距離を広げる、試練が──
愛の果てにはあるのだろうか
別れではなく(さよなら、でなく)
自然の姿として(もう、いいかい)
死もまた そこに(もう、いいよ)
続くもの なら──
きみが、わらっている
ほほが、ぬれている
白いクローバの花咲く野原には
陽が出ているのに光のような
明るい雨が、降っている
――『明日戦争がはじまる』より
*
「ひなた雨」についての感想
愛情と、その距離についての詩です。読んでいて、うまいなと唸ってしまいました。好きな人のそばにいたいというのは、普通の感じ方です。その感じ方を辻征夫さんは、あんまりそばにいるので呼吸ができなくて酸素欠乏症になったという詩を書いています。
この詩は、そこにとどまっていません。好きだということは、あるいは愛されているということは、そばにいなくても安心できる事なのではないかと書いてあります。つまり、距離を隔てていても、あの人は自分を愛してくれているという安心感です。
そのことを、犬が遠くまで行って遊んでくることで分かりやすく書いています。僕も犬を飼ったことがあるので分かるのですが、河川敷の人のいない場所でリードをはずしてあげると、喜んで走るのですが、不安なのかどうか、ちょっと行くと走って戻ってくるわけです。その距離が少しずつ長くなってゆきます。
遠く離れても大丈夫、ということで、距離の長さは愛情の深さに比例しているということです。
この詩はさらに、その距離をずっと遠くまで伸ばしています。相手が死んだ後の場所です。それほどの遠くに行ってしまっても、思いが深ければ、繋がっていられるのだということです。
死もまた続くもの、という言葉の深さに、僕は深く頷いて、うなってしまったというわけです。
(11)
パンを焼く日
わたしは詩を書いて
あなたはパンを焼いた。
おたがいに
しあわせな日があった。
わたしは
あなたのパンを食べて
あなたは
わたしの詩を読んでくれた。
詩は本になり
パンは体になった。
おたがいに
しあわせな日があった。
ある日
この国に戦争がはじまり
書きたい詩が
書けなくなった。
ある日
この国に戦争がはじまり
食べたいパンが
食べられなくなった。
ある日
本を燃やして
パンを焼く日があった。
わたしはうれしかった
全部忘れた、ほかのことは。
わたしの詩が、
あなたのパンになった
うれしい日の、ほかは。
わたしは詩を書いて
あなたはパンを焼いた。
だれもが
しあわせな日があった。
*
「パンを焼く日」についての感想
この詩を読んでいて気付いたことがあります。「詩は本になり/パンは体になった。」とあって、そうか体というのは人偏(にんべん)に本と書くのだなとあらためて思いました。
この詩は、「パンを焼く」ということと「詩を書く」ということの二つの動作について書かれています。そのままであれば、普通の言葉であって、普通の言葉を普通に使えることの幸せを書いています。ところが、目的語と動詞の組み合わせが変わってしまって、「詩を焼く」ということになると、事情は大きく変ってきます。戦争になったのです。
七連目の「わたしはうれしかった」というのは、いうまでもなく戦争状態が嬉しかったというのではなくて、困難な状況になってもわたしの詩が、本が、役にたったことが嬉しかったということを言っています。
じわじわと考えさせてくれる反戦詩になっています。戦争の状態そのものを描くのも反戦詩になりますが、この詩のように、戦争でなければできたことを、おおらかに優しく書いた詩も、見事な反戦詩です。
それとともに、詩を書くという生活にはなにも役に立ちそうもない行為が、困難な状況にあってさえ、生きることに役に立ったという発見は、詩とはなにかという思いも、深めてくれます。
(12)
いじめ、いっせんまん 宮尾節子
いじめ、いっけん、いっせんまん
いじめ、にけんで、にせんまん
なんですと?
お金で払ってもらえますか、罰金を。
いじめは
いけません、では、なおりません。
いのちは
すみません、では、もどりません。
いじめ、いっけん、いっせんまん
いじめ、しぼうは、いちおくえん
びたいちもん、まけません。
きれいごとでは、しょせん無理
決めてください、罰金を。
あらあら、うちのこは、元気すぎてね。
あちらさんにも、問題があったのでは。
い、一千万円ですと!
うちでは、とても払えません。
い、一億円ですと!
とんでもない! なら、やめればいい。
やめさせればいい。
やめられない、やめさせられないなら
手を打ちましょう。
こころのきずは、一生いたむ。
ひとのいのちは、二度ともどらない。
想像力がないのなら、払ってください
さあ、みみをそろえて。
いじめ、いっけん、いっせんまん
いじめ、しばうは、いちおくえん
びたいちもん、まけません。
いっそ、決めてください、法律で。
*
「いじめ、いっせんまん」についての感想
この詩すごいなと思うんです。直接胸に響くんです。いじめはいけませんよと、上から言っていないんです。いじめに対して、それと同じくらいのレベルに自分を落して、ケンカしているんです。悪いことに対して正しいことで向かっていないんです。悪いことにたいして、自分も意地悪になっているんです。目には目をなんです。ハムラビ法典みたいなんです。是非はともかく、気持ちがいいんです。いじめられていることに対してその子を守るのではなくて、いじめている人をやっつけているんです。すごく響くやり方でやり返しているんです。
これも宮尾さんの社会的な詩のうちのいひとつだと思うんですけど、社会的な詩を、詩として成立させるのはとても難しいんです。たいていつまらなくなるんです。理に走ると、詩と言う情の世界ではつまらなくなるんです。でも宮尾さんの詩は、理のなかに情が入っているんです。だからづごいんです。社会的なことを書いているのに面白いんです。深いんです。人が感じることのもう一段奥まで考えて書かれているんです。
「2020年11月 Zoomによる詩の教室」