詩人と呼ばれることについて
辻征夫さんは、少年の頃に、「詩人」というのはすでに亡くなった人しかいないのだと思っていたそうだ。杜甫とかヴェルレーヌとか蒲原有明とか、そんな人をイメージしていたのだろう。また、生きているうちは「詩人」とは呼ばないという感じ方も、どこかわかるような気がする。
また、吉野弘さんは、「詩人」というのは、みずから名乗るものではないと言っていた。ひとが、あの人は詩人だと言うことはあっても、私は詩人だ、とは言えないものだということなのだろう。これも言いたいことはわかる。
わかるけれども、ぼくはそれほど厳しく決めつける必要はないのではないかと思う。詩人と名乗りたい人がいたら名乗ればいい。生きていれば思い通りにならないことばかりで、そんな世の中に健気にも頑張っているのだから、詩人とみずから名乗ることくらい許されてもいいと思う。
ぼくはと言えば、子どもの頃に、何人かの詩人を知って、あこがれて、いつか自分が詩人と呼ばれたらどんなに素敵だろうと思ったことがある。
でも、自分が詩人になったところで、あるいは、人から詩人と見られたところで、それで優れた詩が書けるというものではない。それとこれとは別だ。呼称は作品を生み出してくれない。関係ない。
だから、なんと名乗ろうと関係ない。もう詩人だろうと詩人でなかろうと、そんなことはどうでもいい。
そう思った。
その思いはどんどん大きくなっていった。
それで、呼称なんて全く興味がなくなった頃に、老人になってから、人から、「詩人の松下さん」と、呼ばれることが何度かあった。
変なものだし妙なものだ。
欲しい時には手が届かなくて、どうでも良くなった頃に手に入る。
たいていのものは、そうなのかもしれない。