2024年3月14日(木)だれもがほんの少しの嘘つき
先日、大阪で神尾和寿さんと初めて会った。「お会いするのは2度目ですね。」とぼくが言ったら、神尾さんは不思議な顔をして黙っていた。
すると一緒にいた人が、「いや、松下さんと神尾さんは会ったことないよ」と言ってくれた。
そう言われて顔を見れば、確かにぼくは神尾さんとは初めて会ったのかもしれない。ぼくはいったい誰と勘違いしていたのだろうと考えていた。
それと、ぼくが「2度目ですね。」と言った時に、神尾さんは否定するでもなく、ぼくをじっと見ていた。考えているふうだった。たぶん、ぼくの間違いを即座に指摘しづらかったのだろう。そんな時、すぐに、「いえあなたとは会ったことはないです」と言う人もいるだろうけど、神尾さんはそんな人ではないのだなと思った。たぶん、間違えているぼくの気持ちのことを思いやってくれて、どのように返事をしようかと、考えていたのではないだろうか。
いったん考えて、相手の受け止め方も考えて、そののちに、言葉を発する人は素敵だと思う。
そんな神尾さんの詩を、ぼくは2008年の日記に引用している。こんな詩だ。
⭐︎
伸びる 神尾和寿
朝起きて
「やあおはよう」と挨拶してはみるものの
それは嘘だろう
知人の近況が気になって「お元気ですか」と尋ねてみるそこにも嘘が
ほんのちょっぴりではあるが
混じっている
何を言っても鼻がまた伸びる ピノッキオは
厭世的になる 自暴自棄にもなる
ゼッペル爺さんは髭の手入れを終えて
酒を飲んでいる
☆
この詩には、どんな人のどんな挨拶にも、ほんの少しの「嘘」が混じっていると、書いてある。なるほどそうだなと思う。さらに言えば、挨拶に限らず、人のどんな言葉にも、いくばくかの嘘が混じっているのだろう。
そしてそのことを知っていながら、誰もがちょっと心を痛めて、言葉を発している。
大人も子供も、みんな少しの嘘つきだ。それは時に、優しくあるための嘘であったりもするけれど。
たしかに自分の中の偽りに、だれもが心を痛めて生きている。
それからこの詩では、ゼッペル爺さんが酒を飲んでいるんだけど、僕なんかむしろ、ピノッキオが歳とって、無精ひげをはやして自棄酒を飲んでいるところを思い浮かべてしまう。
だれもがみんな、結局は年老いたピノッキオなのかもしれない。
帰りに大阪駅のホームまで送ってくれた神尾さんに、どんな挨拶をして別れただろう。慌しく別れたから覚えていないけど、嘘のほとんど混じっていない言葉であってくれたらと、願うばかりだ。