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俳句を読む 82 池田澄子 生きるの大好き冬のはじめが春に似て
生きるの大好き冬のはじめが春に似て 池田澄子
詩人の入沢康夫がむかし、「表現の脱臼」という言葉を使っていました。思いのつながりが、普通とは違うほうへ持っていかれることを意味しているのだと思います。もともと創作とはそのような要素を持ったものです。それでも脱臼の度合いが、特別に気にかかる表現者がいます。わたしにとって俳句の世界では、池田澄子さんなのです。読んでいるとたびたび、「読み」の常識をはずさ
俳句を読む 81 山口誓子 秋夜遭ふ機関車につづく車輛なし
秋夜遭ふ機関車につづく車輛なし 山口誓子
遭ふは、あまりよくないことに偶然にあうという意味です。ということは、作者は駅のホームにいたのではなく、どこか街中の引込み線か、金網越しの操車場に向かって歩いていたのでしょうか。夜中にうつむいて、とぼとぼと歩いていたら、突然目の前に機関車がわっと現れた、というのです。それも、本来はいくつもつながっているはずの車輛が、見えません。なにかに断ち切られたように
俳句を読む 80 酒井せつ子 人間が名付け親なり鰯雲
人間が名付け親なり鰯雲 酒井せつ子
実際に空を仰いで見るというよりも、この季節になると、鰯雲の「写真」をたびたび見ることがあります。ネットであったり、新聞であったり、雑誌であったり、まるで「鰯雲」という新商品がいっせいに発売されたかのように、空の写真が頻繁に日常の中に入り込んできます。たしかにそのすがたは美しく、目を雑誌に落としている瞬間も、遠くの空を見渡しているような心持になるものです。今日の
俳句を読む 79 丹羽利一 秋の燈や連弾の腕交差せる
秋の燈や連弾の腕交差せる 丹羽利一
たしかに秋には音楽が似合います。澄み切った高い空へ抜けてゆくものとして、この季節に楽器の音を連想するのは自然なことです。句はしかし、日が落ちたあとのゆったりとした時間を詠んでいるようです。居間に置かれたピアノ。弾いているのは幼い姉妹でしょうか。必死になって練習をしているようです。ピアノの発表会に連弾はつきものです。第一部で小さな子が演奏し、第二部のお姉さんた
俳句を読む 78 西宮陽子 夕焼けて玩具の切符は京都行き
夕焼けて玩具の切符は京都行き 西宮陽子
夕焼けは夏の季語ですが、個人的にはむしろ、秋が似合っている感じがするのです。それはたぶん、日の暮れ方の寂しさが、寒さへ向かう季節を連想させるからなのだと思います。一日を終えて、夕焼けを顔いっぱいに浴びながらその日の終点にたどり着く。この句を読んでいると、そんな時の動きが、空間の移動に自然に結びついてきます。とはいうものの、「玩具の切符」というのですから、こ
俳句を読む 77 森澄雄 眼鏡はづして病む十月の風の中
眼鏡はづして病む十月の風の中 森 澄雄
この句に「病む」の一語がなければ、目を閉じてさわやかな十月の風に頬をなぶらせている人の姿を想像することができます。たしかに十月というのは、暑さも寒さも感じることのない、わたしたちに特別に与えられた月、という印象があります。澄んだ空の下を、人々は活動的に動きまわることができます。そんな十月に、句の中の人は病んでいるというのです。季節の鮮やかさの中で、病と向き
俳句を読む 76 藤田湘子 物音は一個にひとつ秋はじめ
物音は一個にひとつ秋はじめ 藤田湘子
一読、小さなものたちが織り成す物語を思い浮かべました。人間たちが寝静まったあとで、コップはコップの音を、スプーンはスプーンの音を、急須は急須のちいさな音をたて始めます。語るためのものではなく、伝えるためのものでもなく、単にそのものであることがたてる「音」。もちろんこの「物音」は、人にもあてがわれていて、一人一人がその内側で、さまざまな鳴り方をしているのです。
俳句を読む 75 五十嵐研三 うらがえすやもう一つある秋刀魚の眼
うらがえすやもう一つある秋刀魚の眼 五十嵐研三
最近のサンマはだいぶ小さくなってきましたが、つい先日も、夕食のテーブルの上にちょこんと乗っていました。勤めから帰って、思わず嬉しく「サンマか」と、口から出てきました。特段珍しいものではありませんが、箸をつけて口に入れた途端、そのおいしさに素直に驚いてしまいました。掲句、「うらがえすや」とあるのですから、片面を食べ終わって箸で裏返したところを詠ってい
俳句を読む 74 松本進 颱風へ固めし家に児のピアノ
颱風へ固めし家に児のピアノ 松本 進
もう60年も昔、多摩川のほとり、大田区の西六郷に住んでいた頃、台風が来るというと、父親は釘と板を持って家を外から打ち付けたものでした。ある年、ちょうど家の改築をしている時に大きな台風がやってきて、強い風に家が揺れ、蒲団の中で一晩中恐い思いをしたことがあります。掲句の家庭にとっては、まだそれほど状況は差し迫ってはいないようです。台風に備えて準備を終えた家の中で
俳句を読む 73 大西泰世 縄とびの縄を抜ければ九月の町
縄とびの縄を抜ければ九月の町 大西泰世
今年の夏の暑さは尋常ではありませんでした。昔は普通の家にクーラーなどなかったし、わたしが子供の頃もたしかに暑くはありました。しかしそのころの夏は、どこか、見当の付く暑さでした。今年の、39度とか40度とかは、どう考えても日本の暑さとは思えません。そんな記録尽くめの夏も、時が経てば当然のことながら過ぎ去ってゆきます。掲句、こんなふうに出会う9月もよいかなと、
俳句を読む72 神蔵 器 吊革に手首まで入れ秋暑し
吊革に手首まで入れ秋暑し 神蔵 器
人というのはなぜか電車に乗ると、坐りたくなる生き物に変わってしまうようです。駅に着くたびに、どこか空き席がでないかと期待する思いは我ながら浅ましく、そんな自分がいやになって、今度は意地でも坐るまいとくだらない決断をしてみたりもするものです。それはともかく、掲句です。吊革に手首まで入れということですから、姿勢よくまっすぐに立っているのではなく、身体はかなり斜めに
俳句を読む 71 小澤實 窓あけば家よろこびぬ秋の雲
窓あけば家よろこびぬ秋の雲 小澤實
読めばだれしもが幸せな気分になれる句です。昔から、家を擬人化した絵やイラストの多くは、窓を「目」としてとらえてきました。位置や形とともに、開けたり閉じたりするその動きが、まぶたを連想させるからなのかもしれません。「窓あけば」で、目を大きく見開いた明るい表情を想像することができます。ところで、家が喜んだのは、窓をあけたからなのでしょうか、あるいは澄んだ空に、ゆっ
俳句を読む 70 篠原俊博 八月をとどめるものとして画鋲
八月をとどめるものとして画鋲 篠原俊博
昔から小学校の近くには、かならず小さな文房具屋があったものです。売っているのはもちろん勉強に使う物たち。鉛筆であり、消しゴムであり、帳面であり、画用紙であるわけです。店の小さな間口から急いで走りこみ、始業時刻に間に合うようにあわてて必要なものを買って走り出した日を思い出します。いつの頃からか、文房具はおしゃれな小物になり、時に気どった英語で呼ばれるようにな
俳句を読む 69 秋元不死男 終戦日妻子入れむと風呂洗ふ
終戦日妻子入れむと風呂洗ふ 秋元不死男
わたしが生まれたのは1950年8月。終戦から5年後になります。それでも小さなころから、自分の誕生日の近くになにか特別な記念日があるのだなと意識をしていました。「いつまでもいつも八月十五日」(綾部仁喜)という句にもあるように、いまだに毎年のようにテレビでは、終戦の日になれば、胸の痛くなるような記憶を蘇らせる映像が流れます。終戦の年に生まれた人もすでに79歳、