【誰かと生きる人生と、お金という概念】
26年間生きてきてこんなことも理解していなかったのかと、不意に頭を殴られたような感覚だった。
誰かに言われた訳ではない、収支の見直しや納税をする中でふと省みたのだ。
何を言ってるのかと思うかもしれないが、私はあまりに無知で愚かであった、それと同時に知覚せずに生きてこられた幸福と家族の愛情を改めて痛感した。
誰かと生きる人生。
それは自分の稼ぎやお金の使い道が、自分ごとだけではないことを言うと思う。
結婚している訳ではないのに責任感が強すぎるかもしれないが、これから共に生を分つ中で自分にも相手にも言えることだが、ある程度の収入と浪費しないことが暗黙の了解としてあるのではないだろうか。
飲食店の開業を目指して、学生の頃から今の今までずっと生きてきた。
その当初はそれしか頭に無くて、誰かと生きる人生を考えたことがなかった。
そこそこに頭の良い、扱いやすい生徒。
それが私だったと思う。
でも今の私は違う。
心から大切なパートナーがいて、ここまで育ててくれた親愛なる両親が居て、大切な兄弟もいる。
いや、元々居てくれていたのに私が知覚するのがあまりに遅すぎたのだ。
ー働いてただ日々を浪費して過ごすだけでは、決して家族を守っていけないことに。ー
父は昔から残業が多くしんどそうな面持ちをしていた。
母も子育てに追われ曇った表情を時折見せることがあった。
それでも私や兄弟をここまで育ててくれて、無事にみんなが健康に当たり前が当たり前にやってくる日々を送ることができている。
それがどれだけ難しいことだったのか、大人になった今の私にはよく分かる。
頭がどこかへ飛んでいってしまうほど頷ける。
Z世代や悟り世代と言われる私たちや更に下の世代は恵まれているけど貧しいような。
現状よりももっと先の未来にこの日常があるのかという不安と隣り合わせで生きている。
世代別で考えるのはあまり好ましくないが、それぞれにバックグラウンドがあり、各々が辛い経験をしていることと思う。
我々でいえば小中学生の頃に東日本大震災を目の当たりにしたこと。
リーマンショックの最中必死で両親が家計を回してくれたこと。
その両親の努力は当たり前ではなかったのに、私はすっかり甘え切っていて、当時の私にそんな自覚はなかったが、学校での人間関係におけるストレスで手一杯だったのが今は少し情けなく思う。
両親と同じように子供がいる暮らしが今の私にはまだ想像がつかないでいる。
守っていけるほどの力が今はないからである。
もし家族を持つことが私の人生の主軸であったなら、私はパティシエなんて夢を抱くことはなかったであろう。
少なからず夢を見ろと教えを乞うた人間でも現実的思考の方がめっぽう強い人間だからだ。
でも今、私は気づいた。
来年では無く今だった、それが救いだと信じて今の仕事を全うしよう。
開業が資金的且つ技術的な面において、より低リスクで始められること、ものづくりをお金に変えてせめて家族を守れるくらいになること、そう思考をシフトして、もっと貪欲に学び試していかなければ。
26歳、遅いだろうか。
それとも人生100年と言われる時代の中では最早若造にすぎないだろうか。
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