「我的朋友」 静かな短編の奥に広がる世界。中国映画
主演は周迅、王一博。監督は張大磊。変わらぬ日々の奥に広がる世界。2023年ベルリン国際映画祭短編部門参加作品。
中題 「我的朋友」 Wo de peng you
英題 All Tomorrow's Parties
監督 張大磊 中華人民共和国
撮影年 2022年
主演 周迅 王一博
上映時間 24分
制作会社 FIRST International Film Festival XINING
制作 Bingchi Pictures
短い前書き
この映画を気に入って、思ったことを書きたくて、ついにnoteを始めてしまいました。
特に映画に詳しいわけではありません。王一博の鋭敏な感性に注目していて、主演の一人だったので興味をひかれたのですが、映画を気に入ったのと、2023年ベルリン国際映画祭短編部門で受賞はなかったものの監督に興味を持ち、初めてのnote記事を書いています。
映画について
短編映画なのであらすじは簡単。時は1990年、初めてアジア競技大会を主催した中国。地方のとある工場で工員向けの映画上映会が予定され、郵便物配布係の女性が限定鑑賞券を配布している。そこに、知人を訪ねて青年詩人がやってくる、というたいした筋のないお話。
スポンサーはCHANELで、主演の二人はCHANELのアンバサダーを務めている。CHANEL側は女性に焦点をあてた作品の制作を依頼したようだ。
張大磊監督は、俳優に演技を任せて作品を作る方らしい。
撮影前、主演二人に設定を簡単に共有した後は、すべて彼らに任せたと語っていた。王一博は話さないことを選んだと言っていたので、役名の李「默」はたぶん後からつけたのだろう。周迅の役名「小周」は前に小を足してあるだけだ。
張大磊監督は2021年ベルリン国際映画祭で短編映画部門の銀熊賞を受賞。映画祭公式サイトに受賞時インタビューのアーカイブがある。
映画鑑賞記と、旅の記憶
工場の郵便物配布係の小周と、内気な青年詩人の李默。二人の淡々とした姿が映る。画面は常に抑制され、ある日の工場の日常のひとこまを描いて、何の事件も起こらない。
小周は病身の母の世話をしながら、工場で働く女性だ。彼女の勤める職場に、李默が知人の張晨を訪ねて来る。李默は休憩から戻った張晨に会うと、自作の詩を書きつけた手帳を黙って手渡す。旅から戻った挨拶がわりらしい。張晨は、藍火車と題された李默の詩を読む。
夜、工場で映画が上映される。小周は券のもぎり係。入口で番をする彼女は手持無沙汰で居眠りしている。そこにやってきた李默。会場に入ったあと、連れの男に小周のことを聞かれて「我的朋友(ぼくの友だち)」だと答える。二人は出会って間もないのに。たいして言葉も交わしていないのに。
映写会場ではフランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない 」を上映している。必死に走る主人公の前に、広々した水辺の景色が広がる。そして暗転。仏ヌーヴェルバーグ映画への敬意を字幕で表し、この映画は終わる。
うん?肩透かしをくらった気分だった。はて、なんでしょう、この唐突さ。なんだかよくわからない。それくらいの感想で終わりそうだった。
だが一つだけ、見ていて何だか、引っかかる箇所があった。あれは、何か。
そう思い始めると妙に気になってくる。それを手がかりに、もう一度映画を見た。ちらりと何かが見えた。もう一度見た。すると、逆回転のようにするすると、もう一つの物語が現れてきた。共時性の物語だ。
李默の最後の台詞「ぼくの友だち」は願望でも幻想でもない。立ち現れる世界への信頼と確信の表明。想念と現実は時にシンクロする。その時、そこに、現れる。彼は戻ってもいいと思ったに違いない。この世界に。その後ろで彼女もまた静かに満足感を滲ませる。映写会場の暗がりで。
張大磊監督は注意深く画面から対象を外し、映像を紡いでいく。そして一か所だけ、見せる。
あえて見せない、この手法は面白い。観る側は自分で見出すのだ。見出さない間は何も起きない。それは、現実の世界でも同じことだ。そのほかにも監督のメッセージを受け取ったように思うが、書かないほうがいいと思うのでここには書かない。
映画の冒頭、大会閉会式の司会者は熱っぽく呼びかける。この友情を大事にしましょう。パレード、そして閉会歌が流れる。「再見朋友(さようなら、友よ)」と歌は繰り返す。次は広島であいましょうと。
翌日、工場前から撤去される巨大な大会マスコットを眺め、小周は「再見、朋友」と口ずさむ。それは、その場にいた李默にとって啓示である。寡黙な李默が口を開く。何の歌?嘉峪関、行ったことある?
この映画は、自分の中から二つの記憶を呼び起こした。一つは中国への旅。
1990年と1992年に中国を訪れた。その時の印象は強く残る。だから自分の知る中国は90年代初頭の風景と人々だ。そのせいか、この映画のあちこちに親近感を覚える。
ぽつんと街灯が灯る真っ暗な夜道。薄暗い家の中。人々の暮らし。大声で歌う通行人。気だるそうな店員。自転車。
訪ねた都市の朝の出勤ラッシュは自転車の大波だった。緊張して一緒に自転車を走らせた。ハンドル操作を誤ればたちまち転倒事故だ。当時、外国人が行ける場所は限られていて、お金は外貨兌換券、何をするにも外国人料金が設定されていた。
中国の人たちは、知り合いにはめっぽう親切で親身、一方で、店員は客には至極不愛想だった。映画の小周は親切だし店員ではない。でもなんだか、雰囲気が自分の記憶の中の店員たちに似ている。どこか何となくだるそうな、こんな感じ。
この短編でも、映画の券を手に入れられるのは、この工場で働く労働者と家族だけ。そういう決まりになっている。券をもっとほしいと頼む者、余計に配るなと念を押す工員もいる。よそに券を回してはいけないという張り紙も映し出される。
もう一つの旅の記憶。それはアフリカで起きた。ボツワナ、チョベ国立公園。運転手と二人きりの真昼間のサファリツアーで。成り行きで敢行したアフリカ一人旅。
炎天下の日中は過酷で、2時間近く森を車で走り回っても動物の気配は全くなかった。けだるい昼下がり、収穫のなさに疲れ果てて、もう引き返すかというその時。森で突然、象の家族と鉢合わせした。それが始まりだった。
サファリカーは象たちを追う。やがて森が切れ、眼下にチョベ川が広がった。この川は広大である。向こう岸が見えないくらいの川幅がある。十頭ほどの群れは赤ちゃん象を真ん中に一列になり、崖を降りて川に入っていく。
見ているこちらも喉がカラカラ。象たちは鼻から水を吸い上げ大騒ぎしながら、ずんずん中洲へ渡り、あっという間に豆粒大になった。川が、広すぎる。そして象たちは進むのが早かった。
ふと気配を感じ振り向くと、灌木の切れ目から別の象の群れが姿を現した。その向こう、さらに向こう、延々続く川沿いの、茂みという茂みから、続々と象の群れが姿を現すのが見えた。
茫然とした。象たちは広大な中洲に散り、どんなに目を凝らしても点々にしか見えない。余談だがアフリカの人たちの視力は桁違いである。地平線を双眼鏡で眺め、やおらサファリカーを走らせる。象がいるという。どこに?On the horizonだ。そして1時間以上も走った先に本当に象の群れがいるのだ。
一切の動きを止めた昼下がりの森と、一斉に出現した象たちのいる川は、心に鮮やかな対比をなした。広大な空、広大な川、ごま粒をばらまいたような象の大群を前に、いきなり啓示がおりてきた。わかったのだ。思い出したと言ってもいい。それが、心の奥底にひっそり眠っていた光景であることを。幼いころの夢と詩の世界であったことを。
あの時、自分の中にあふれた感情を表す言葉を、私は持っていない。それは詩そのものだった。詩が、目の前にある。その瞬間その光景は、それまでの自分、それから先の自分、すべての自分を、救った。
詩の世界は現実に成り得る。
夢のような現実が詩となっておりてくることだってあるだろう。
この世に生きるとは、そういうことなのだ。
今もこの世界のどこかで、夢は形を成し続けている。それが自分には見えていなくても。
映画のラスト。かすかに電車の音が聞こえる。藍火車の音だ、きっと。黄金の国へ連れていくブルートレイン。この短編はもしかしたら監督自身のポートレートかもしれない。あるいは俳優たちの。見ている観客自身の。救いと希望の物語。
時々見返せるように配信に入れてほしい作品。こんなに淡々と、こんなに心を熱くしてくれる。この映画をきっかけに私はnoteという新しいことを始め、今は張大磊監督の前作「下过去了一半」を見たくてしかたない。
後書き
映画の予告トレイラーは、本編に入っていない場面だ。トレイラーと本編をひっそりつないである。おしゃれだなあ、張大磊監督。
そして、私が気になった箇所は、トレイラーに入れてある。
今、少しどきどきしている。映画の設定が、自分の中国滞在時期に重なる気がするのだ。当時のアジア大会の開催は秋。滞在していたホテルの客室に大きな月餅が運ばれてきたのを思い出す。いえ、自分は嘉峪関とか行っていません。
でも…なんだか鳥肌がたつ。こんなこと、あっていいのだろうか。
追記1,2,3
1.
NHKの番組「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」を最近知った。映画、ポップス、流行を各年代ごとに横断しながら、面白い切り口で時代を見せる。今までアメリカ編、ヨーロッパ編、日本編と放送されている。過去放送を見たいのにオンデマンドがなくてじりじりする。
BS4Kで先日再放送された「フランス 興亡の60s」編を運よく見ることができた。トリュフォーとゴダールのヌーヴェルバーグを詳しく取り上げていて、勉強になった。何も起きない、という当時の若い才能たちの革新的な発想。「我的朋友」という作品の立ち位置も、自分なりに見えてきたと思う。これからの張大磊監督に注目したい。
2.
制作のFIRST影展・西寧青年(FIRST International Film Festival XINING)は、若い映画人のための映画祭らしい。
2年前の記事だが、中国の若い人々の「1990年代の中国」ブームについての情報を見つけた。今どきの中国の若者を知る参考になりそう。
3.
上海国際映画祭2023(会期6/8-6/18)で、張監督が短編映画部門の審査員を務めたそうだ。客席との質疑応答がツイッターに上がっていた。「我的朋友」はこの映画祭では上映されていないが、誰かが質問したのだろう。李黙について、こういうキャラクターは続きのエピソードがあるものだし、機会があれば王一博と再度組んで続編を撮ってみたいとのこと。さて、あるとすれば次はどんな共時性が展開するだろう。そんな想像も楽しい。