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余り物≒贈答🤔?
旧知の同窓生から青森のコメと、北海道の珍しい野菜を分けて頂いた。 余ったから食べきれないからお裾分けというのは、親しい間柄ではあるあるで、古今東西よくある行為だ。しかし近年フードロスやエコロジー警察のような界隈からは、珍しいものや特定のものを大量には受け取り側には賛否があるからヤメレという事がさかんに言われるようになり、だからこそ商品券や現金(現金化できるもの)が望ましいとされるのも当然だろうとつくづく思うわけだが。
なぜか店の贈答コーナーでは、10個とか20個といった箱入りが幅を取っており、1ダース以上贈らないと価値がないだとか、嵩張る厚みがないと感謝の念が足りないと思われるのではないかなど、そこには見栄やバイアスが入りこむ隙があると思うのだ。ほかにも、おもてなしだから飲まないといけない(アルハラ)案件や、地域の慣習だから山盛りの白飯を平らげないと失礼にあたるというようなものも、まだある。
他方で、子ども食堂やフードバンクというものが登場して久しく、個人的に賛同し何度も協力してきたが、そのたびに同じことを考えている。 昔そうしたサービスが無かった時代には、互いに戦後の食べ物が少なかった時代の人だからか今と逆な意味でもったいないと思ってか、成分チェックもせず寺や近所の者が食べようとして強迫観念に苛まれたり(結果、坊さんなのに生活習慣病になる人が出たり坊守や寺族が婦人病なるなど良い話は全くない)、お墓に野ざらしされたものも裏山に捨てに行く坊守がいたりした。
当会会長が育った地域でも、お裾分け文化があるコミュニティ(小さな集落)では誰も食べ物に困ってないから、そこの神社やお寺にフードロスや子ども食堂対策のために余った菓子を協力してくれと言われても、ないものはないし買うのも本末転倒だし都市部では何が起きているのだ?という感じであった。
そもそも作り手や贈答業界にも賞味(消費)期限切れるまでにどれだけの人が口にできるのか考えていなかったという問題から、目を逸らしていた人間が多数いるからではないか?
書記長まだい調べwith Googleによれば日本は
・食料時給率はカロリーベースで38%
・食品資源の5〜10%がフードロス(家庭では3〜4%)
都心だけにsmall is beautifulが浸透しているのか?研究したことがないから比較が難しいが、当会でもわずかながら余らないで個人間でやりとりされるサイズ感を好む人が支援してくれているせいか、少ない分量のものが置いてある店しか繋いだことはないが、余ってもいいや、その先は知ったことではないというビジネスをする菓子メーカーたちは、何も感じないのだろうか? 農家然り支援者も、お寺ではなくて直接フードバンクや子ども食堂に支援するほうが二度手間にならず早く届けられるとかないのかな?
老人や独身世帯や若者の困窮は無いものとし子どもの貧困にしか目を向けない、途上国にしか支援しない諸団体にも、ロスジェネど真ん中的に非常にもやもやする。
20年ほど以上前、某大阪府T市の国際交流財団(当時。現在は公益財団法人)に嘱託で数カ月働いてた時から、日本は特に非営利や宗教の認識は変わっていないなと、所謂天下り先に非営利や福祉関係も多数あるらしい問題然り、どうにも斜めに構えてしまう今日この頃である。
cf. 昔のCM(スタッフサービスさん。今もある会社だそう) これに使われていた曲は、チャイコフスキー:弦楽セレナーデ作品48 である。桐朋学園時代に授業でお題になったので覚えているが、当時は何のコマーシャルだか知らず、のほほんと学生生活を謳歌していた。バブル弾ける→氷河期突入。それでも社寺教会は潰れなかった、景気もよく、災害も少なかったから。やたらとウチにもオンライン集客や視聴者稼ぎのコツやら背景のよくわからないコンサル界隈がイイねを押してくるのも、'業界としては潰れない'のが何故かに関心があるからなのだろう。