38番 忘らるる身をば思はず 右近
今橋愛記
忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな 右近 〔所載歌集『拾遺集』恋四(870)〕
1音目から、忘らるる身(忘れられる私の身)と置く。
「惜し」は、深い愛着を感じるあまり、失うにしのびないという気持ち。
この「惜し」には解釈が ふたつあるようで
①相手への哀惜から、相手を気遣う気持ち→ こちらだとすると、歌意通り「ほんとうに」思っているということになる。
愛を誓ってくださったあの人が通ってくださる事も今では なくなりました。そんなわたしの事はどうだっていいのです。
ただあの人が神罰によって命をなくしてしまうことが、わたしはとても未練なのです。
②自分を裏切った相手への恨みから、お気の毒なことです。というアイロニー
→ わたしの事はどうだっていいのです。ただわたしとの誓いを裏切ったあの人が神罰によって命をなくしてしまうのは、お気の毒なことだと思っているのです。
①だと、どちらかと言うと、どうぞ、あなた死なないで。長生きしてください。というお祈り。
②だと、わたしを裏切った人なんて どうなったところで知らんわ。という恨み。
全然顔がちがう。
解説書を見比べると①と採りたいというものが多かった。
しかし作者の右近は 権中納言敦忠〔43番 逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔は物を思はざりけり〕、
中納言朝忠〔44番 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし〕、
元良親王〔20番 わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ〕らとの恋ごとがあったとされている女性。
①だとは思い難い。
現代の言語感覚では、ほんとうに相手の事を思っているのなら、1音目から 忘らるる身をば思はず とは置かない。
個人的には、①②どちらであっても
忘らるる 身をば思はず
自分の顔をゆさぶるような 大仰なこの風情を好ましいとは思えなかった。 もてもて右近が女性だからでもなく、男性であっても同じだと思う。
現在と昔では色んな事が違うから、このようなズレが生じるのだろうか。
ちょうどぱらぱらとめくっていた本に「忘れる」を使った歌があったので、この歌を引用して翻案の代わりにします。
この歌すきです。
いつ帰る
いつ来 いつ逢ふ
いつ別る
いつ行く われを
いつ忘るるや 小池 純代
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