35番② 人はいさ心も知らず 紀貫之
花山周子記
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける 紀貫之 〔所載歌集『古今集』春上(42)〕
この歌には古今集に長めの詞書きがある。
「はつせ」というのは漢字では初瀬と書き、奈良の長谷寺のことで、そこに詣でるときには必ず宿にしていた家にひさしく行かずにいて、しばらくぶりに行ったところ、その家の主が、宿のほうはこのようにいつもちゃんとありますのに、と言い出したので、そこにあった梅の花を折って歌を詠んだ、というような内容である。
この家の「主」について、ただ「主」として鑑賞しているものと、
というふうに「女主人」としているものとある。
わたしは長らく初老くらいの男主人を思って想像を膨らませていたから、最初、白洲正子の書いている、
を読んで、男女の贈答歌であれば趣が深まるというものでもないのではないか、と反感を持った。相聞歌にそもそもあまり興味のない私には、この歌に人と人との機微がありながら、相聞的な要素が感じられないところが気に入っていたから白洲正子の書きぶりは「趣」一点の置き方において、想像を台無しにされたような気持ちがしたのだ。
といっても、ド素人のわたしでも和歌においては男女のやりとりの機微を味わうことがその要になることくらいもちろん知っているし、白洲正子はわたしなんかより千倍も一万倍も和歌に造詣の深い人で、和歌のなんたるかをわかっているからこその「趣が深い」なのであろう。致し方ない。悶々としながら他の人の鑑賞も読み継いでみると、「女主人」とこともなく書き進めているものが多く、だんだん女主人としての想像も定着してゆく。
田辺聖子は、
などと書きながら、いい塩梅のところで〈わかった、「人」は女ですな〉と熊八中年の独演に譲っていく。この書き方は上手いなと思う。「現代の私たちには分からない」と一旦は書きながら、その後に展開させていく和歌ド素人熊八の言い分は単なる鑑賞よりよほど説得力がある。ちなみに熊八中年というのは『田辺聖子の小倉百人一首』の鑑賞兼対話の中で登場する人物である。
それにしても、こうして女主人読みが自分の中でも定着してみると、自分がなんでずっとそう読んでこなかったかのほうが気になってくる。相聞歌に興味がないとはいえ、わたしはそこまで鈍いわけでもないのだ。
(つづく)