92番 わが袖は潮干に見えぬ 二条院讃岐
今橋愛記
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし 二条院讃岐
〔所載歌集『千載集』恋二(760)〕
百人一首(100首)中、恋の歌は43首もあって、
この時代のひとにとって男女間の恋事は、ここまで大きなことだったのかと
いよいよそこに込められたエネルギーに酔っぱらって疲れてきた。
人を思う気持ち、思いがあれば、それらはすべて恋や愛なのではないか。
そんなことを思っていたら、ちょうどこの歌が目に入ってきた。
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし
「石に寄する恋」のお題でつくられた歌(題詠)で、恋の部立てに入れられてはいるが、個人的には 百人一首の恋の歌に酔っぱらっているからか
恋の歌のようには思われなかった。
和泉式部の
わが袖は水の下なる石なれや人には知られでかわく間もなし(和泉式部集)
の本歌取で知られているが、この歌に関しては、150〜160年 あとの人である讃岐のほうが(本歌を)取っただけのことはあるなと思う。
90番の「見せばやな」をわかってほしいという思いだと書いた。
どちらも涙で袖をぬらす歌ではあるが、わかってほしいという思いは、わかってもらえるかもしれないという期待があっての感情の発露だが、
この歌は、たとえ波が引いた引き潮のときであっても見えてこない沖の石のように、涙でかわくことがない袖は、思いびとであるあなた、あるいは誰の目にも映らないのだという。あちらは熱くて赤く、こちらは、もはやわかってほしいという思いはなく諦念がある。
恋愛であれば、もう余地はなく、恋という隠れみのでカモフラージュした作者やその周辺の境涯詠であるのなら、今生はあきらめたというさびしいつぶやきなのかもしれない。
どちらにしてもサ行音が効いているのでしつこくはない。
92番のこの歌が百人一首のならびで言うと女性歌人の最後の歌になる。
翻案はちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも(上田 三四二)を下に敷いた。
困りごとはかずかぎりなしことごとくことばにならず消えてゆくかも
今橋愛
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