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ストーム 7

札幌で過ごした大学生活の4年間は、まるでストーム(嵐)のようでした。
寮生活での出来事を中心にサークル活動に没頭した熱くて若かったあの頃を振り返っています。
今日で7話目、サークル活動に没頭した日々を綴ります。


 子ども会活動を主体とするセツルメントという名のサークルに入会した。
 簡単に活動を紹介する。
 一番メインになる活動は「実践」である。
 毎週土曜日の午後に各地域へ出かけて子ども会活動を行う。(まだ、時代は土曜日も課業日であった)
 私の所属していたサークルには4つのパートがあり、それぞれに子ども会が組織されていた。
 実践内容は、毎回私たちの会議によって決められていた。もちろん、子どもたちの希望を聞いて企画することも多かったが、細かい段取りなどは全てこちらで進めていたように思う。
 制作活動や、音楽活動、室内ゲーム、読書会などいろいろな企画を毎回考えた。夏と冬に一回ずつ大きな行事を企画して、今で言う学習発表会的なこともやっていたなあと懐かしく思い出す。
 それ以外にも、日曜日に子どもたちをスケートや映画に連れて行った。スケートの帰りに子どもたちを送った後、猛吹雪にあって命の危険を感じたこともあった。
 夏には4つの子ども会が一堂に介して海水浴に行く一大イベントもあった。バスを貸し切るのに多額の費用がかかったが、私たちが大学の中で募金活動をして賄った。大学の先生方からもカンパをいただいたりもしていた。できる限り家庭の負担は少なくするためだ。
 私が行っていた子ども会は、札幌の中心地にある大通りのバスセンターから40分ほどかかる石狩川のほとりにある地域だった。札幌市内にあって僻地指定を受けた複式学級編成の小学校を拠点とする子ども会だった。
 初めて訪れた時は、「ここほんまに札幌市?」と思うほどだった。広がる大平原に牛がぽつりぽつりと見えた。近くによると草を食べているのがわかる。「北海道に来たんだあ」と実感した。石狩川の堤防には巨大な牛の糞が転々としていた。初めてみるものばかりで新鮮だった。子どもたちと鬼ごっこをしていてその糞に突入した時は参ったが……。ただ、意外にそんなに臭くはなかった。草食だからかもしれない。
 私は、「4つの地域で子ども会やってるけど、どこに行きたい?」と先輩に聞かれた時、迷わずこの地域を選んだ。北海道感満載だったからである。
 公民館を無償で借りていた。2階の小さな和室で待っていると、三々午後子どもたちが集まってくる。小学生ばかりだ。一年生から6年生まで10人くらいの「めんこい」子どもたちが「今日は何するの?」と言いながら集まってくる。
 毎回2時間から3時間の活動だったが、私にとってはあっという間に過ぎて行く時間だった。純粋に子どもたちが可愛かったし、まとわりついて手をつないできたり、膝の上に乗っかってくる人懐っこい子どもたちとの触れ合いが心地よかった。なんか、「俺、好かれてる?」みたいな錯覚を起こしたものだ。
 時には、家庭訪問をして、子どもの話をしたり、保護者会なるものも年に一度開催していた。週に一度、それもほんの2、3時間しか会わない子どものことを「お宅のお子さんは・・・」とか学生の分際でよく言えたものだ。保護者の方々も、よく付き合ってくれていたと思う。なんと、えらそうな何様学生だったかと今にして思う。私たちの話に真剣に耳を傾けてくれていた保護者の方々に今更ながら感謝の念を抱かずにはいられない。
 ただ、学生時代に、家庭訪問や保護者会という父母と会って話をする経験を積んでいたことは後の教員生活に大きなプラスになった。「親と話をする」ことになんの抵抗もなく、むしろ楽しい場であると受け止めることができていたからだ。どちらかと言えば、保護者と話をすることには緊張したり、構えたりする教員が多い中、「お前は変わってるなあ」と言われていたのもそんな経験があってのことに違いない。

 実践から帰ってくると、「総括」という振り返りの会議が待っている。
 無償で借りられる社会教育センターのスペースを使って、その日の活動についての反省会が行われるのだ。これが、結構すごかった。「議論する」ということを初めて経験した。

「あなたは、あの時、○○ちゃんにこんな『働きかけ』をしたけど、それはどうして?」
「あの『働きかけ』は△△さんにとってどうだったのだろう」
「そんな『働きかけ』をしたあなた自身には、どんな生活背景があったのかな」
とまあ、こんな感じである。
 やたらと「働きかけ」という言葉が飛び交っていたように思う。
 初めは、面食らった。なんでそんなことあなたに言われやなあかんのっていう感じである。「○○ちゃん、楽しそうやったしええやん」と心の中でつぶやいていたが、それだけではダメらしい。
 しかし、「実践ー総括」を何度か経験していると、この「詰められ方」が段々と快感になっていくから不思議だ。今まで考えたことのない、自分との対話が始まったような気がした。まあ、私の適応力の高さがなせる技でもあったのだろうが。どんどん、私はこのセツルメントという活動にのめり込んで行ったのである。
 そうだった。元々、自分は小学校の時から「学級会」が好きだったではないか。議論とまでは行かないまでも、他の人たちと考えを言い合うことが心地よかったじゃないか。こんなことも自分自身との出会いとなったわけだ。

 土曜日の実践に向けて、木曜日に「パート会」なるものがあり、翌々日の「実践」に向けた最終の打ち合わせがある。それ以外にも水曜日には「例会」と言うサークル員全員が集まる会があった。
 この例会の始まりは、いつも歌だった。
 大きな机を囲んでみんなで肩を組んで足を踏み鳴らして歌を歌うのである。流行りの歌ではない。「うたごえ」と呼ばれるものだった。セツルメントいうサークル以外にも「うたごえ」サークルがあった時代である。
 今、冷静に俯瞰してみると、なんとも奇妙な集まりだったと思う。
 いきなり、輪になって肩を組んで歌うなんて……。隣が女子学生だったりすると自分の手の置き場所に迷い、空中を手のひらが舞っていたことを覚えている。女の子の肩に自分の手を置くことは緊張以外の何者でもない。もちろん、そんな経験もないうぶで奥手な私だったのだ。慣れるのに随分時間がかかったが、3か月くらい経った頃にはそっと手を置くくらいはできるようになっていた。(ちなみに、このオープニングイベントは、後の学生たちから抵抗があるという訴えがあり、廃止されたそうだ。私の感覚は満更ではなかったということか)
 すでに、ここまでで週の3日間がサークル活動で埋まる。
 これ以外にも、書記局会議というサークルの執行部が集まる会議や、北海道セツルメント連合(北海道大学をはじめ他の大学にもセツルメントサークルは多数あり、連合体が組織されていた)関係の会議など、次々に会合が入ってくる。
 2年生時には、サークルの中心的な役割を担うことになった。私は、サークルの代表だけではなく北海道セツルメント連合の役員も務めていた。そして、寮の方の役員まで……。なんとやりたがりの性格だったのだろう。本当のところは、やり手がなかっただけなのだが、「誰もやる人がいないのなら私がやる」という姿勢はこのあたりで身についていたのかもしれない。  
 2年生のピークの時の週のスケジュールを思い出すと
月曜日 北海道セツルメント連合書記局会議
火曜日 サークル書記局会議
水曜日 サークル例会
木曜日 パート会
金曜日 寮務委員会
土曜日 実践ー総括会議
日曜日 サークルのイベント
 よくもまあ、やったもんだと思う。しかも、このスケジュールを「俺は、忙しく頑張ってるんだ」と思っていたのだから滑稽である。
 3回生に進級し、研究室に入ることを契機に、サークルの主な任務からは解放されていくのだが、それまでは全くの「サークル人間」「大学生活=セツルメント」な日々を送っていた。

 しかし、これだけは、はっきりと言える。
 このサークル人生の日々は、私の人間形成に多大な影響を及ぼし、「ものの見方や考え方」の基盤を作ったと言える。その「根っこ」になるものは、おそらく65歳になる今も変わっていないと思う。

ストーム 8へ続く


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