健在、地域コミュニティー
続「イケイケ4歳児と悩める母」
名古屋在住の長女からラインが届いた。
(長女より)
イケイケ4歳児の話読んだでー
にやにやしてしまったわ
そしてたいして考えずに思いのまま打ち込んで送ったLINEが記事になっちゃったわ😂🤭🤪
もうすぐお迎えやけど戻ったら他の記事も読ませてもらいますう
さらに(長女より)
今日も今まで公園で遊んでて小ネタになりそうな出来事あったでー笑笑
まあ、暇な家族である。
ちなみに、この長女も仕事の関係でブログを書いている。少額らしいが、報酬も受け取っているようなので一応「プロ」である。
「ものを書くことが好き」という点では私と長女は似ていると思う。ちなみにその遺伝子は、長男は受け継いでいないように思う。「おふざけが好き」という点のみ譲ってしまったようだ。
noteを初めて、こういう形で遠方にいる子どもたちと関わることができるのは、想定外の副産物だった。育休中の長男は熱心な読者になってくれているらしい。
それはいいとして、今回も長女の提供してくれたネタを以下に紹介してみる。
長女から届いたラインより
今日も例の如く帰宅せず帰り道そのまま公園で遊んでエルサごっこしてたら
幼稚園は違うけどおんなじ年少の女の子がやってきて
一緒に遊んで
途中Fちゃん(長女の娘)トイレ🚽帰宅挟み
縄跳び持って再参戦。
途中までは交代ばんこに遊べててんけど
Fちゃんが上達してきてノッてきたタイミングで縄跳び貸すのいやーってなって結局2人とも泣くことになって
そしたらそれを見かねた小学生のお兄ちゃんが
自分が持ってた縄跳びをちゃんと短く結び直した状態でこれ使っていいよって渡してくれた🥹🥹🥹
あの公園で遊んでたらいろんな学校や園の子と友だちになれる。笑
その男の子たちは
明日は遠足やから来ないけど
木金はまた来るから遊ぼう!みたいな感じで言うてくれて16時に去っていった。
優男三人衆でした👏Fちゃんとその女の子を鬼ごっこにも入れてくれてたし。
とまあ、こんな感じだった。
私は、
「ええ話やなあ」
と返した。
私は、昭和34年生まれ。地域の「異年齢集団」が健在だった年代である。
家に帰ると、近所で誰かが遊んでいて、「入れて」とさえ言わずにその輪の中に入って遊んだ。次第にその輪が大きくなって、母親の「ごはんやでえ、帰ってきいやあ」の夕暮れ時のお告げまで目一杯動き回っていたものだ。
玉置浩二さんの「カリンと工場の煙突の上に」の一節で
「市営住宅の中の広場で リレーしたんだ みんなで 」
があるが、まさにこの世界だ。(ちなみに、私は玉置浩二さんが今ほどウルトラメジャー級なアーティストになられる前からの大ファンなのです)
これは、私が小学4年生まで住んでいた東大阪市では普通に見られた光景だったように思う。
たまに、遠方の友達を訪ねて遊びに行っても、そこには中学生まで入った集団があって一緒に野球やドッジボールなどした。年上のお兄ちゃんの豪速球のドッジボールの恐怖は今でもありありと思い出すことができる。自分もこんな玉が投げられるようになるのだろうかと憧れたものだ。そう、身近に「目指すもの」や「モデル」が見えた時代だったのだと思う。
時は流れて私が、小学校教員として教壇に立ったのは、昭和56年だった。その頃、流行りのように「異年齢集団づくり」が言われていた。
社会の変化の中で、地域のコミュニティーが失われがちになり、年齢の違う者同士での交流が少なくなった。「子どもは子どもの中でこそ育つ」などという謳い文句の下、私が勤めた学校では「縦割りの清掃活動」が始まった。また、曜日を決めて「縦割り活動日」が設定され、遊んだり、制作活動をしたりしていたものだ。いい交流もたくさん生まれたし、高学年の子どもたちのリーダーシップが育つという効果も目にしてきた。しかし、それと同じくらいトラブルもあり、その対応に追われたことも事実だ。学年やクラスを超えて問題の解決にあたる必要がり、次第に活動は下火にならざるを得なくなっていった。
やがて、集団が本当に子どもにとっていいものなのか、そのこと自身が問われる時代になっていく。もちろん、どんな集団かということを抜きにしては語れないと思うが。
「人間は類的存在である」と学生時代に叩き込まれた私は、いまだに「集団信仰者」である。
しかし、集団が苦手な子どもたちにもたくさん接してきて「押し付けてはいけない」ということも学んだ。
長女からのラインを読んでいて、思わず「いいなあ」と思のは、関わり方がとても自然なことだ。
1つしかない縄跳びで揉めることも、ブランコの順番待ちも、大事な経験である。
そして、自分の縄跳びを相手の身長に合わせて短くして貸してやる年上の子らの存在。その子らの優しさはどこで身につけてきたものなのか。やはり、異年齢での関わりは貴重であると思った出来事である。
縄跳びの取り合いで泣いた2人の4歳児が、年齢を重ねて時にこの「してもらえた」経験が生きてくると信じたい。