
ストーム 12
札幌で過ごした大学生活の4年間は、まるでストーム(嵐)のようでした。
寮生活での出来事を中心にサークル活動に没頭した熱くて若かったあの頃を振り返っています。
忘れもしない、大学1年目が終わろうとしている時だった。
私の4年間の寮での暮らしを思い返す時、堂々の1位に輝くと言っていいほどの「事件」が起こった。
名付けて「腸チフス事件」である。
当時、私は、寮の役職で「渉外委員」というポストについていた。
名前はたいそうだが、入寮すると必ず一度はやらねばならない役の中で一番楽なものだったから就いた委員である。
寮には、寮務委員会という組織があって、トップは、寮務委員長、その下に3つある各棟の寮長、そして渉外委員と会計委員がいた。任期は半年で年に2回、それなりの立派な選挙も行われ当選した委員で構成される。
学園闘争華やかなりし頃は、寮は活動の拠点でもあったらしく、寮務委員の選挙は各セクト間でのたたかいの場であったそうだ。対立候補も出ての激しい選挙戦が繰り広げられていた時代もあったと聞く。しかし、私の頃は、対立候補どころか、成り手がなく、無理から押し付けられてやっと頭数を揃えているという感じだった。
話が横にそれたが、そんな時代だったので、誰もする人がいないということで引き受けた私だ。
この役について、一つだけいいことがあった。
それは、大きな渉外委員室という部屋をあてがわれたことだ。1階の入り口近くの大部屋で外へ出るのにも、動線がよくありがたかった。
さて、事件の話に入っていこう。
ストーム5で、新入寮生説明会という記事を書いている。
その時に、「え、この人、新入寮生?」と目を疑った人がいたことを紹介している。
そう、この人、社会人を経て、画家を目指してこの大学の特設美術科へ入学してきたSくんである。確か、年齢も30近かったと記憶している。
このSくんは、当然の如く行動が新入生らしくないというか、貫禄があった。芸術家とはこういう人のことを言うのかと思ったものである。
Sくんは、1学年が終わろうとしている時に、海外へ飛び立った。
行き先は、インド。
話を聞いた時は「へえええ」と思った。「ジョージ・ハリスンじゃあるまいし」
「インドの山奥で、修行して〜」と言う「レインボーマン」の歌を思い出して口ずさんだ私のレベルの低さ。
きっと、Sくんは、この旅で将来の人生においてたくさんの肥やしとなる修行を積んでこられたことだろう。
しかし、同時にとんでもない「お土産」をこの寮に持ち帰ってくれたのだ。
初めは、「Sくん、赤痢らしいで」と言う噂を耳にした。
なんでも、インドから帰ってきてから体調がすぐれず病院に行ったらすぐに隔離され検査されたらしい。
その後、赤痢ではなく「腸チフス」であることが判明したのだ。
ここからが大変だった。一時は、大学を挙げての大パニックになった。
寮内も騒然とした。
保健所の方が来て、私たち寮生に色々な指示を出された。
その中でも最も衝撃だった言葉、今でもはっきり覚えている。
「禁足令」
「禁足」って何?
つまり、私たち寮生は、Sくんと接触している可能性があり、この寮から一歩も外に出てはいけないと言うことらしい。
さらに、全員が検便の検査を受け、う○こを提出させられた。
あらゆるところが消毒された。元々かなり汚い場所だったのでちょうど良かったのかもしれない。
食堂には、床に「飯への道」とチョークで飯にありつくまでの動線が示された。手桶があり、強烈な臭いのする消毒液で手を清めてから食事をすることが義務付けられた。
正直、私は、Sくんとはあまり接触がなかったので、さほど心配はしていなかったが、それでも初めは、「これはえらいことになってしまったなあ」と思った。
まず、禁足なので、大学にも行ってはいけないのだ。つまり、講義に出席できないということだ。時期は、まさに、後期の試験が始まろうとしていた時期だ。どうなるんだろうと私以外の学生も戦々恐々としていた。
外に出てはいけないということで、一番の問題は、買い物である。
寮の横に、「スーパー高田」(ジャパネットではありません)があり、そこのお姉さんが綺麗だったこともあって、寮生のほとんどがこの店で買い物をしていた。まだ、コンビニが今ほど豊かではなかった時代である。セブンイレブンが離れたところに1軒あったのは覚えているが、寮生が利用することはなかった。
渉外委員だった私は、この買い物担当になった。
寮からスーパー高田に電話で注文をするのだ。
その前に、寮生から注文を取らなければならない。
そのやりとりがめんどくさかった。いや、めんどくさい人がいた。
「トイレットペーパーね。二枚重ねのやつだよ。シングルじゃないよ」
「うーん、あとインランね、チャルメラでいいわ。なかったらエースコック」
(ちなみに「インラン」とは。インスタントラーメンの寮生語である)
いちいち細かいことまで言ってくる方が結構いて、メモを取るのが大変だったことを覚えている。
そして、そのめんどくさい注文内容をスーパー高田の美人のお姉さんに電話で伝えるのだ。明らかに受話器の向こうで不機嫌そうにしているお姉さんの顔が浮かんだ。「嫌われたらどうしよう」なんて思ったものだ。
そこから、どうやってその品物を受け取るか。
これが、笑えた。
寮の入り口のところに大きめの段ボール箱を置く。その箱は、ロープで繋がれて寮の入り口まで伸びている。「ブツ」を入れてもらったらこちらからそろりそろりを引っ張って受け取るのだ。なんとアナログなシステムだったことか。しかしこれで非接触で(当時、こんな言葉は無かったが)受け取ることができたのである。
思い出した。
禁足期間中に「バレンタインデー」があった。
寮生に想いを寄せる危篤な女子学生もいるかもしれないと、同じ方法で2月14日に「バレンタインのチョコレートはこちらへ」と言う別の箱を用意した。これは、半分ジョークだったのだが……。
なんと、本当に2つチョコレートが入っていた。多分、サークルか、クラブかの関係で渡す義理チョコだったと思うが……。携帯電話なんかない時代、どうやって連絡を取ったのだろうかと思う。
日が進むにつれ、この「腸チフス」事件は、思わぬ「恩恵」を私たちにもたらした。
検便の結果、寮生全員が陰性だった。これで、緊張感は一気に緩んだ。
しかし、禁足はしばらく続く。つまり合法的に大学をサボれる日が続くと言うことだ。
何が起こるか。
毎晩、宴会である。
明日のことを気にしないで飲めるのである。
「ああ、明日、一講目から講義やからもう寝るわ」
をしないで済むのである。
さらに、試験は、禁足期間中につき、受験出来ないので、レポート提出で済んだり、試験なしで単位認定してくれたりさえあったのだ。
ここまでくるとSくん様さまだ。
毎晩、どこかの部屋で腸チフスパーティなる不謹慎な宴会が主催され、大いに盛り上がったものだ。Sくんのおかげで寮生の結びつきが強くなったと言って良い。
まあ、これも、Sくんを含め、誰も犠牲になった者がいなかったからの話である。
このSくん腸チフス事件は、その後も語り草となり、Sくんは伝説の人となった。
禁足が解かれ、Sくんも無事退院した頃、Sくんのご両親が遠方から「お詫び」と称して寮を訪問されたらしい。寮務委員長は、腰を低くして謝られるご両親に「いや、Sくんには、感謝しかありませんよ。みんな大喜びで禁足を楽しませてもらいました」と言ったとさ……。
一つだけ残念だったのは、Sくんがこの後、退寮したことだ。
「そんなん、気にしなくていいのに」とみんな言っていた。
Sくんは、その後、どうされたのだろう。風の噂で中学校の美術の先生になられたと聞いたような気もするが。
ああ、猛烈にSくんに会いたくなった。
私より10以上年上だったのでもう70をはるかに超えているSくんはどんな人生を送っているのだろう。
できれば、「作品」を見せて欲しい。
ストーム13へ続く