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ダサい自分を直視する
書くということに関して、私はスタート地点にさえ立っていない状態だけど、ひとつだけ確信していることがある。
何事も、一人前になるのに必要なことは、ダサい時期を耐え抜くことだ
自信が持てない、見られるのが恥ずかしい。
そういう感情は、誰にも読んでもらえないこと以上に苦しいことだと思う。
たとえば書いて何年も経つ卒論だっていまだに読み返せないもんね。あの頃は未熟だったなあとしみじみすることなんか絶対無理。
大学の先生は「読んでみたら恥ずかしいけど部分的には『お、良いこと言ってるじゃん!』と思える箇所がある」と言っていた。
無理無理無理無理。
絶対無理。
過去のことは仕方ない。
過去と向き合う必要はない。
これから自分が納得するものを書ける書き手になるまでの、ダサい今の自分を受け入れていくことにする。
納得いく日なんか来るんか?と思わなくはなけれど、
井上ひさしだったかな、「自分でおいしいと思っていない料理を出して他人がおいしいと思うはずがない」のような言葉を残している。
たしかに私も日頃から「つまらないものですが…」は言わないようににしているもんな。文章だって同じことか。
読む人の気持ちで書き、書く人の気持ちで読む
言葉というものにとりわけ興味を持つようになってから、いつのまにかそういう発想になっていった。
「自分で納得いくもの」を目指すにあたり、まずはそこかなと。
読む人の負担になる文章は書きたくない。
書く力をつけるためには書く人の気持ちで読むのが早道だ。
こうしてあれこれ考えてることも、間違っているかもしれないし、そうではないかもしれない。
ちょっと時間がたったら読み返すのも恥ずかしいってなるかもしれない。
でもそういうのを乗り越えないと、いつまで経ってもうまくならないし、人の心を動かすなんてさらに無理なことだ。
努力という言葉は好きではないけど、「頑張る」としたらそういうところかな。
2024.8.31