<連載小説> 沈み橋、流れ橋
―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―
第1章(21)
これまで同じように遊んだり喧嘩したりしながら成長してきた兄弟たちと自分だけ名字が違うことを、千鶴の長男として生まれてきた謙三が意識したのは、小学校入学の時である。二つ上の信太郎も同じ学年の誠治郎も、先生に「ひろたに」と呼んでもらえるのに自分だけは違った。それでもそういうもんなんかな、とさして気にも留めなかったのが、三つ下の三郎が入学してきたらやっぱり「ひろたに」と呼ばれ、あれ、そうなんや、僕だけなんやとこれまでになく強く感じて、母の千鶴に尋ねたのだった。
「なんで僕だけ、ひろたに、ちゃうの」
店の帳場で忙しく出納帳を整理していた千鶴は突然手を止め、謙三の方に体を向けた。そして帳場という場所にはまるで相応しくない、静かな、落ち着き払った声で、九歳になった謙三を自分の前にきちんと正座させてから言った。
「謙三、ようお聞き。うちは普通の家と違て、お母ちゃんが二人おりまっしゃろ」
謙三はそう言われて改めて、そのこと自体をおかしいと思ったことはなかったような気がした。せやけどそれは普通の家とは違うことなんや、と思い直した。
「謙三のお母ちゃんはこのお母ちゃんやけど、廣谷のお母さんも、あんさん可愛がってくれはるやろ」
いつものお母ちゃんの声ではなかった。謙三は怒られる直前みたいに背中がヒヤヒヤした。
「二人ともあんたらのお母ちゃんやし、お母ちゃんからしても、どの子も大事な息子なん。みんな廣谷でええやんて思うかもしれんけどな、お母ちゃんは親から頂いた”笹部“ゆう名を残さんとあかんねん。あんさんは笹部の家でいちばんお兄ちゃんや。せやさかい、あんさんだけは「笹部謙三」として、下の子の面倒みてやってほしいねん。どの子も大事なんやで。みんな、お父ちゃんの子やさかいな」
その当時、謙三の下には、美津がお母ちゃんの三郎のほか、千鶴が生んで間もない英造がいた。もちろんそのときまで謙三は「いちばんお兄ちゃん」であるという自覚などなかった。「いちばんお兄ちゃん」は信太郎だけと思っていた。
自分ら兄弟がどうやら、他の家の子に比べてええとこに住んで、ええもんを着て、ええもんを食べとるらしいと意識することはあったけれど、同じ学年にも兄弟がいたり、その兄弟が二つの家を行き来していたり、お母ちゃんは他の家のお母ちゃんとちょっと違う商売をしていたりというのは、謙三にとってごく自然なことだったので、気にしたこともなかった。ところが母親の言葉は、謙三に、幼い頃のある不快な光景を思い出させていた。
夜、目が覚めて厠に立った帰り、お母ちゃんが中庭のところで、知らんおっちゃんに抱きつかれているのを見たのだ。寝ぼけてもいたので布団に入るとすぐに寝てしまったが、翌朝、そのおっちゃんの禿げ頭とか脂ぎった顔とか、お母ちゃんがそのとき笑っていたことなどが不意に思い出されて、すこぶる嫌な気分になった。夢だったと思って忘れることにしたが、笹部の名を残さんとあかん、とお母ちゃんが言ったとき、その情景が唐突に浮かび上がってきたのだった。
その後、母と客とのそんな場面を目撃することはなかったけれど、その頃から謙三の中には、男に酒を飲ませたり抱きつかれたりするのが母親の商売、という図式が棲みつき、好ましくない印象だけが脳裏に定着していったのだ。
小さい頃はよく遊んでいた信太郎を、同じ「長男」であるという意味で意識し始めたのは、北野中学に一年違いで通いだした頃だった。なるほどうちには、お母ちゃんも二人おるんやから長男も二人おるわけや、と謙三は妙に納得した。その年齢になると、「妾」というような単語が耳に入って来ることもあった。母の商売に加えて、「うちは正式に結婚してへん」家であることも普通とは違うと理解した。母がかつて言った「いちばんお兄ちゃんやから笹部の名を継がんとあかん」という理屈には、納得できず欺瞞を感じた。
もともと口数の多い方ではない信太郎とは、中学に入ってからはあまり話をしなくなった。仲良くするのを親たちから期待されているかもしれないと思うと、その通りになってたまるかという意地も謙三にはあった。信太郎の端正な顔つきや物腰を見るたび、同じ長男でも自分は一段格が落ちるように感じ、「妾の子」だから周囲もそう思っているに違いないと、そんな妄想までした。
一方、四か月だけ年長の誠治郎は、母親は違うが気が合った。口が達者で物怖じせず、知らないことが何もない、というくらいに物知りなのが誠治郎だった。やがて学年が上になってくると、「有馬行こかー、ちいやん(年かさの兄弟たちは千鶴を陰でこう呼んでいた)とこ、つけといてもろたらええがな」などと豪語して、家族で利用する有馬温泉の定宿に謙三を誘い、部屋を押さえて一日遊んで帰ってくるくらいのことは平気の平左だった。吃驚仰天するに決まっているから、実母の美津には有馬に行ったとはおくびにも出さないが、千鶴なら許してくれるとわかっているのだ。
昼間から有馬の湯に浸かり、信太郎について二人で話をしたことがある。あいつは何考えとんのやわからん、お前と遊ぶ方がずっと気が楽やわと誠治郎は言った。「お母ちゃんもてこずっとる。廣谷を継ぐんはあいつやのにな」
「そうなんか、やっぱり」
「そらそやろ。お前は『京縫』、継ぐやろ?」
「継がん」
「なんでや? 御茶屋の亭主、ええやないか」
「嫌じゃ。あんな商売、好かんのじゃ」
「他に何かしたいことでもあるんか?」
「いや……なんもない。どうせ妾の子じゃ」
吐き出すように、謙三は言った。誠治郎は心底驚いた顔で弟の顔を穴のあくほど見つめたあと、お前は阿呆か、とぽつりと呟いた。
(つづく・次回の掲載は9月1日の予定です)
* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。
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