広谷鏡子

1960年香川県生まれ。1995年『不随の家』で第19回すばる文学賞受賞、97年『げつようびのこども」が第118回芥川賞候補。文楽、サッカースペイン代表、宝塚をこよなく愛する小説家です。短歌誌『プチモンド』(松平盟子編)に連載中のファミリーヒストリーを、月2回掲載します。

広谷鏡子

1960年香川県生まれ。1995年『不随の家』で第19回すばる文学賞受賞、97年『げつようびのこども」が第118回芥川賞候補。文楽、サッカースペイン代表、宝塚をこよなく愛する小説家です。短歌誌『プチモンド』(松平盟子編)に連載中のファミリーヒストリーを、月2回掲載します。

最近の記事

  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第2章(5)  日露戦争前後、駒蔵の息子たちが次々に通い始めた中学校は、軍隊式教育で生徒たちに多くのことを禁じていた。高等学校で実践されていた自由な人間教育とは対照的だった。  たとえば風紀を乱す恐れのある図書や新聞、雑誌、恋愛小説を読むこと、劇場や映画館、娯楽場に立ち寄ること、俗歌、流行歌の類を歌うこと、そして、飲酒、喫煙等々。中学校によって禁止項目には少しずつ違いはあったが、禁を破った者には、訓戒、謹慎、父兄への注意書き発送

    •   <連載小説> 沈み橋、流れ橋

      ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第2章(4)    日露戦争下にあっても、校長の「通常通り学業に専念すること」との方針の中、北野中学の行事は例年通りに行われていた。「陸上大運動会」は、連合艦隊が稀に見る勝利を収めた日本海海戦と同じ五月二十七日に開催され、七月には堂島川の田蓑橋上流で行われるはずの恒例の夏季水泳が、上流の寝屋川沿岸に伝染病が発生したというので場所を移して行われた。八月には水泳訓練場でもあった堺の大浜で、遠泳競泳会もあった。部活動は盛んで、運動部の

      •   <連載小説> 沈み橋、流れ橋

        ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第2章(3)    駒蔵の長男、信太郎が北野中学校に入学した明治三十七(1904)年当時、義務教育は尋常小学校(四年)までで、その上に高等小学校(二〜四年)、男子のみの中学校(五年)、女子のみの高等女学校(四年)があった。農・工・商など実業に就く者たちのための実業学校もあった。この頃から中学志願者は急増し入学難でもあったので、不合格でも高等小学校をもう一年やってから、翌年再受験する者も多かった。それでも進学率は小学校卒業生の一%

        •   <連載小説> 沈み橋、流れ橋

          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第2章(2)    お初天神の西側の通りをさらに北へ向かうと、昔の人はいまだに「ステンショ」と呼ぶ大阪駅が見えてくる。初代の駅舎は百年持つと言われていたのに、三十年足らずで寿命が来て四年前の明治三十四(1901)年に建て替わり、煉瓦から御影石造りの洋館に生まれ変わっていた。阪急電鉄が開通するのはまだ先のことで、路面電車(大阪市電)も、開業時の築港線のみだった。つまりこのあたりはまだ草ぼうぼうという状態だったので、余計に駅舎の壮麗

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第2章(1)  水の都と呼ばれるだけあって大阪市内には河川や運河が縦横に走り、八百八橋と謳われた多くの橋が人々の営みをつなぐ。老松町にある廣谷の家を出て東に一町(約百メートル)も歩けば、淀川の支流である堀川とぶつかり、そこに架かる樽屋橋を渡れば天満宮までもすぐである。  堀川はその南を東西に流れる大川に注ぐが、中之島で、北の堂島川、南の土佐堀川に分かれる。浄瑠璃作者・近松門左衛門の『曽根崎心中』や『心中天網島』にも登場する曽根崎

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(22) 「お前は阿呆か」  と呟いて、誠治郎は謙三に愛想が尽きたと言わんばかりに、いったん湯の中に頭まで潜ってから、しばらく経って少し離れたところから頭を出した。そのまま立ち上がって、声を荒げた。 「お前、そんなこと思とったんか。そんな暇あったらもっと暴れてやったらええねん。ああ、俺はこんなちっさい男のおるような、こんなちっさい日本をはよ出たいわー」  二人の他に誰も入っていない湯船に大きな波が起こって、外から射し込む光

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(21)   これまで同じように遊んだり喧嘩したりしながら成長してきた兄弟たちと自分だけ名字が違うことを、千鶴の長男として生まれてきた謙三が意識したのは、小学校入学の時である。二つ上の信太郎も同じ学年の誠治郎も、先生に「ひろたに」と呼んでもらえるのに自分だけは違った。それでもそういうもんなんかな、とさして気にも留めなかったのが、三つ下の三郎が入学してきたらやっぱり「ひろたに」と呼ばれ、あれ、そうなんや、僕だけなんやとこれま

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(20)  結果として駒蔵は、十一人の男児をもうけることになった。母親に関係なく、生まれた順がわかるように名付けるつもりで、初めこそ、信太郎、誠治郎、謙三、とさりげなく数を入れていたものの、やがて、三郎、七郎、とおざなりになり、そのうちそれも忘れてしまった。十一番目の男児を十一郎としたのは、お、もう十一人か、という自らの驚きにちょっと感銘を受けた程度のことなのだった。  母親の千鶴も、二年続けて妊娠・出産したうえに、女将の

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(19)  駒蔵の性格上、一から事業を立ち上げること、経営の新しい仕組みを作ること、人材を大胆に配置すること、といった物事の始まりには、体がうずうずするほど興奮し集中力を発揮するのに、いったんそれが軌道に乗ってくると、途端に放り出したくなる。そんな駒蔵には格好の相棒、岡坂愛之助がいた。彼はむしろ駒蔵が描き上げた設計図を実現させていくことに長けていた。いつ投げ出しても拾ってくれる相棒のいる安心感は、駒蔵にとっては絶大なものだ

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(18)  明治四十(1907)年の暮れ、美津の妹のはまが祝言を挙げている。相手は三十になったばかりの正栄社社員、石島俊太郎である。大番頭、いまは副社長の佐助の手足となって会社の業務全般を学び、雑務は一手に引き受ける。明朗でよく気が利き、腰も低い。雑事も無難にこなしつつ、相手の懐に入って気持ちよくさせるお追従もなかなかうまい。佐助もその才覚を認めて自分のそばに置いている。  石島は四年前、美津の兄の小三郎がブラジルに出立し

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(17)   明治四十二(1909)年が明けた。美津の六男、勇が生まれて以来六年ぶりに、新しい家族が増えた。千鶴が待望の女の子を産んだのだ。駒蔵は四十一歳にして、初めて娘を得たのであった。しかしその間に、千鶴は二度辛い思いをしている。お腹に子は宿ったが、二度とも流産してしまった。駒蔵は事業拡張の中、いやそれでなくても家を空けることが多かったが、優しい言葉をかけて気持ちを癒してくれたのは、いつも美津であった。 「決めたんよ、

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(16)    美津には、実家の履物屋に兄と妹が一人ずついた。兄の小三郎は三十も過ぎたのに、女房も貰わず、履物屋なんぞもう古いと嫌がって家業を継ぐ気はまるでなく、両親も廃業を考える日々であった。年子の兄は、堅実で締り屋の美津とはまるで正反対の性格で、現状に満足していることはついぞなく、いつも夢みたいなことばかり嘯いている。その彼の目に、妹の夫の営む「正栄社」の貿易という仕事は、初めて魅力的に映ったようである。 「おい美津よ

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(15)  二十世紀が幕を開けた明治三十四(1901)年二月、九州に官営の八幡製鉄所が開業する。日本政府が製鉄の重要性を認識して「工部省」を設立したのは明治三(1890)年のことだが、その十年後に設立した官製の釜石製鉄所は失敗して民間に払い下げられ、原料の銑鉄はまだ輸入に頼らざるを得ない状況だった。八幡製鉄所が軌道に乗って、日本の産業革命はようやく、重工業が発展する本格的な時代に入っていく。  そんな時代に、駒蔵は、岡坂愛

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― <番外編> 駒蔵のお宝、「なんでも鑑定団」に出る! の巻  ことの始まりは一枚のチラシだった。  昨秋、私の暮らす香川県丸亀市にある総合文化会館に演劇を見にいったとき、配布されたパンフ類の中にそれはあった。テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』のお宝募集と観覧募集のチラシである。そう、あれ!日曜の昼にやってるやつ(後で知ったが日曜は再放送枠で、本放送は火曜夜)。亡き父が好きで必ず見ていた。「出張!なんでも鑑定団in丸亀」とある。お

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            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(14) (*文末にお知らせがあります)  美津とは所帯を持ち、「京縫」の女将である千鶴との間にも男児のいる駒蔵だったが、だからといってお茶屋通いが収まったという訳ではない。近頃頻繁に足を伸ばすのは、心斎橋界隈で一、二をあらそうという待合茶屋で、そこで商売仲間と「会合」という名の宴を開いていたときのことだった。  厠に用を足しに行った際に、別の座敷のちょっとした騒ぎと出くわした。二人の客が一人の芸子の奪い合いをしている、と

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(13)  千鶴に子ができたと告げられた時、これは面倒なことになった、などという気持ちは微塵も湧いては来ず、駒蔵は美津の時以上と言ってもいいほどの喜びに満たされた。美津は駒蔵よりも先に知っていて、「へ。おめでとうさんでござります」と、満面に笑みを浮かべて心からの祝福を表した。  美津自身も、内心ほっとしていたのである。まさか最初の子を産む順番まで譲ってくれたわけではないだろうが、千鶴は年が一つ上の美津をいつも立て、たまたま

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