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マイナスがゼロになったとして

1)ぐにゃぐにゃとした近況

休職して2ヶ月が経った。
相変わらず午前中に活動するのは難しい。
全体的に無気力。

昼過ぎにようやっと布団の中でもぞもぞしだし、しばらくタブレットを眺める。
すぐには這いずり出られず、日暮れの気配が漂い始めた頃、散歩をしに外に出る。
こんな具合の日が多い。

休み始めてからベタの水槽の掃除を2回した。
年明けに「時間をかけてゆっくり育てよう」と誓ったハクリューはカイリューになり、なつき度は上限に振り切れた。

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胸に勲章を付けてくれた。かわいい

アナログ・デジタル両方のペットは2ヶ月という時間の経過の証人だ。
しかしながら、そんなに時間が経ったとは思えない。

驚くほど何も出来ていない。
僕だけが閉じたループの中にいるような気持ちになる。

何もしたいと思えない。
思考も生活リズムもぐにゃぐにゃと溶けたままだ。

焦る。  

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このままではどうにもならないので復職デイを併設する病院へ転院した。

妙な言い方になってしまうが、家の外に僕を引きずり出すにはトリガーがいる。
近くに用があったら是非一緒にお茶でも飲んで欲しい。
リハビリの相手をしてくれる人がいたらとても嬉しい。


2)“ありのまま”の歪み


休む前の僕も人前では素の状態より明るく朗らかに振る舞おうと躍起だった。
取り繕いやすいようカフェインやコンサータを頼った。
違法薬物による著名人の逮捕が報じられる度に「彼らを笑えないな」と思う。


精神科医からすれば(きっとそれはマトモに社会生活をやれてる大多数からしても)僕の認知が悲観的でネガティヴな方に歪んでいるんだろう。

ありのままに振る舞った結果、鬱になった。
支援者を入れながら「歪みを正さなきゃならない」思考セットになった。
僕はありのままなのに。

自分が治療対象なことがショックだし、陽気すぎる世界に何だか腹が立つ。
普通に過ごしてたのに鬱になるなら間違ってるのは世界の方だろと思う(こんなことは言っても詮無いのは百も承知だが)。

現在の自分がマトモじゃなく眩しく(ときに狂ってさえ)見える世界の方が正常だということになっている。
受け入れるのにはちょっと時間がかかるかもしれない。


3)消えない呪い

回復のきっかけを掴みたくて本や漫画を眺めてみたが違和感が引っかかり続ける。  



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体調を崩す前の状態を0として、マイナスの状況を抜け出したら幸せな大円団を迎えるーーーーそう願いたいのだけどそうじゃない。

鬱が抜けても「鬱病の発達障害者」は「発達障害者」である。
怖がりでなよなよとした性格だって病気になる前からそうだ。
要領が悪く社会生活が下手なのは根本的のは変わらない。  

生まれ持って、そして今日まで育んだ僕の基本特性は滑らかに生きるのに向いていない。
呪いかよ。

20年ちょっとで嫌気が差しているがまだまだ続く。
消えたい気持ちと向き合い続ける覚悟を持てるだろうか?
「人生100年時代」なんて言葉を聞くと途方もなく絶望的な気分になり視界が黒く霞む。

4)脳ってなんなんだろう

お気に入りの音楽から一節


チャイニーズ・レストランで
美味しいものを食べたら
すぐに優しくなれて
なんとなく虚しい  
悲しみの全部を
鞄に詰めて
息切らして何処へ
運んでいこう
おろす場所なんてない
渡す人なんていない

脳とは…感情とは…魂とは……と考えると虚しくなる。
米粒ほどの錠剤ひとつで、ちょっとしたホルモンのバランスひとつで移ろう僕の「気分」ってなんなんだろうと。

これを読んでいるあなただってこの虚しさからは逃れられない。

疲れているときの甘いものを食べたら幸せな気分になるのも、一仕事した後のビールが気持ちいいのも、モジュールとしての脳の神経伝達や電気信号の刺激パターンの組み合わせに過ぎない。

「電極を脳に刺されてドーパミン放出ボタンを押し続ける実験マウス」と僕らを隔てるものは何も無い。 


5)脱ぐにゃぐにゃに向けて

今の僕は「病人であることに甘えている」と思う。家族も(数少ない)友人もネットでしか知らない人もみんな優しい。
「大変だったんだね」「ゆっくり休んで」と言ってくれる。

鬱病患者への接し方として圧倒的に「正しい」し、そうした声かけを大変ありがたく思う。
本当にありがとうございます。

でも、社会生活に戻るために真に必要なのは優しい慰めではなく激だと思う。
「いつまでウジウジやっている!歯ァ食いしばれ!」と一発ぶん殴ってくれる拳。

残念ながらそんな「正しくない」お節介を焼いてくれる大人はもういない。

だって、みんな優しいし「正しい」のだもの。

殴る代わりに(決意表明ではないが)文章に絞り出す。

「素の自分はだらしないし精神的な体力が弱い」ということを認めてやっていくしかない。
自らを律し課題を考えながら進むみたいなものができるタフさがないことを肯定的に認めよう。
いい意味で開き直るのだ。

学校や会社、宿題や納期など強制してくれる外枠を持つことでちょっとは人間らしい形になれる。

外形を与えてくれるトリガー・環境を拾いに行こう。  

ヘッダーは心療内科の帰りに撮ったものだ。
景色を綺麗だと感じカメラを手に取る元気が出てきた。
きっと悪くない兆候だ。

投げ銭されると、とてもうれしい