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『キリエのうた』を見てつぶやく
映画『キリエのうた』を見た。
これまで映画鑑賞を趣味としていたわけではなく、初めて見るタイプの映画で、まだ興奮冷めやらぬというか、うまくまとまらないけれど、松村北斗さんを入り口に見てきたそれの感想(今の感情)をそのまま残しておくことに意味があると思って書く。
1)夏彦
真っ白な雪の中、路花(ルカ)と真緒里が寝転んでいる。
白くてまぶしい画面と、アイナさん演じる路花が歌う、オフコースの『さよなら』から映画が始まる。
事前に小説を読んでいたとはいえ、まず映像の美しさに圧倒される。
映画と小説は、別物でありつつストーリー進行はほぼイコール。心に留まるシーンは上げたらきりがないけれど、私は松村さんを入り口にしていたので、まずは夏彦に焦点を当てて考えてみます。
・帯広
帯広、宮城、大阪、東京をまたぐ13年にわたる物語。
まずは帯広、このころの夏彦は25,6歳。帯広の牧場で働いていたところ、真緒里の家庭教師をすることになる。
ずいぶんとおじさん臭いというか、単語帳を買うときの動作や言葉遣い、細かなニュアンスがお兄さんぶっているなと思いながら見ていたけれど、25歳と18歳では自然なのかも。
明らかに「言えない何か」を過去に抱えて、その欠片が少しずつ言葉尻からこぼれていく様子がとても繊細だった。私は松村さんのそういう演技に非常に心が震えます。
そして、見終えた今思い返せば、帯広での路花(キリエ)・真緒里・夏彦の短い時間が、ある意味一番幸せな時間だったのかも、と思う。
「僕らは自由だね」 いつかそう話したね
まるで今日のことなんて 思いもしないで
・宮城、大阪
宮城~大阪は高校時代の夏彦。正確には高校3年生~卒業後の1年までなので、18,9歳ごろ。いかにも18歳の危うい未熟さが見えてこれも見事。
1度目に映画を見たときは、希(キリエ)の「テクニック」がすごくて少し面食らってしまって、そのあと彼女が辿っていくこととに自分の感情が着いていけなくなりかける部分が多少あった。
希は路花に比べるとわが道をゆく、前髪も路花のぱっつん前髪に対してセンター分けにしていて、夏彦をリードするような、”そういう”女の子。
”そういう感じ”のあざとい希も希なんだけれども、しかし冷静に考えれば、そこに溺れてしまった夏彦も夏彦なんだろうな。特に赤ん坊ができた後の揺らぎは赤裸々だった。気持ちはわからんでもないけれど、率直に言えば結構軽率でトンデモ男である。
「産んでいいよ」と言うまでの間。路花の歌う『異邦人』の歌詞にとっさに目をそらし、何とか拍手をする曖昧な表情。ついつい疎遠になる連絡。
映画本編には無かったけれど、「赤ん坊と希は俺が守る」と言っておきながら親には打ち明けられず、家にやってきた希に他人行儀な接し方をしてしまったりもする。
そんな揺らぎを抱えたのち、罪悪感に苛まれながらも、やはり一緒になろうと決めたのが3月10日だった。
翌、3月11日のシーンは本当に胸が詰まる。
この期に及んでなお電話越しに「知り合い」と言ってしまうところも、無事を願い、切実であるからこそ希に苛立ちを見せてしまうことも、そのまま電話が切れてしまったことも。
仙台から石巻へ走る「フルマラソン」の中で起きたことと夏彦の胸の内は、小説が雄弁だ。
もし未読の方がいたら、時間があれば読んでいただきたい。
生きた心地がしない、いっそ死んでしまいたい、皮肉にも思い出されるのは傍で寝ている希のぬくもりで、ぽっかりと穴が開いた喪失感、罪の意識、見つかってほしい、見つかってほしくない。
大阪で初めてこれを打ち明けたときの、
「卑怯なやつなんですよ」
という声色が、今も耳に残っている。
・東京
32,3歳の夏彦。少しひげも生えていて、いかにも30路。
路上ミュージシャンとなったキリエ、風琴さん(演:村上虹郎さん)と歌う『ずるいよな』は、思わず「雉真兄弟やないかい!」と胸が熱くなったけれど、本質からずれるのでこれ以上は割愛。
キリエが歌う『ずるいよな』はお姉さんに宛てた叫びのよう。
でも、夏彦が歌うとラブソングに聞こえるから不思議だった。最初は遠慮がちに震える声で。低くて温かい声だった。
久々に会った路花の中に、希の面影を見て「ゆるしてくれ」と崩れてしまう姿を見て、夏彦にとってこの13年は悔い改めというか、赦しを求める物語だったのだと思った。
もはや赦してもらうこと自体が罪だと思っているかもしれない。
きっと、これは夏彦、というか、「なっちゃん」のようなことをしてしまった人でなくとも、いわば”残されてしまった人””逝かれてしまった人”が抱き得る感情なのではないかな。
2)音楽映画、だった。
プロモーション期間中、「これは音楽映画です」という宣伝があまりぴんとこなかった。
震災の映画でしょう、と思っていた。
小説から入ったので無理もないと思うけれど、詞にメロディの無い状態で読み進めていたし、震災の重量が心にのしかかっていたから。
でも、たしかに音楽映画だった。音楽でちりばめられている。
賛美歌、キリエの歌うカバー曲(つまりアイナさんのカバーを映画館の音響で聴ける。なんたる贅沢)、オリジナル曲、他にもいろいろ。
最初、キリエの歌は、路花の感情の吐露であったろうと思う。そういう意味では路花自身の救いだったはずだ。
次いで真緒里。
この映画は人が信じる(すがる)なにか(神さまなど)が沢山モチーフとして出てくることが印象的だったけれど、真緒里の信教は「女を使って仕事をするのは嫌だ」が軸だったと思う。
神社で大学合格を祈願するとき、「罪深い祖母や母を許してください」と添えるほどに。
しかし、ようやく東京に出てみれば、母(の彼氏)からの金銭支援は断たれ、とあること(これは小説参照)がきっかけであっけなく信教は崩れてしまう。真緒里を捨てて、イッコさんとして、かつて「罪深い」と思っていた生き方をするしかなかった。
きっとキリエの歌は、どこかで自分を「罪深い」と思っていたイッコを救い上げ、真緒里に戻す力を持っていたのだと思う。
冒頭の真緒里のセリフが私は非常に好き。
このくらいじゃ恩返しにもならないから。歌ってそういうものよ。いっぱいの人をいっぱい感動させるものでしょ?人の人生変えたりするものでしょ?
聴衆とバンドの仲間を得て、キリエの歌そのものも力を得、姿を変え、育っていく。
夏彦が「なんか、変わったな、お前。(略)…声が少し大きくなった」と言っていたように。
『キリエ・憐れみの讃歌』。
最初はキリエの私的な心の内を吐露する、小塚希へのレクイエムだったこの曲が、徐々に行進曲のような力強さを手にして、映画の要所要所で使われていく。
だんだんと演奏者が増え、音数とアレンジが加わる。
そして野外フェスのシーンで、クライマックスを迎えたこの歌詞で、キリエはたしかに聴衆の方を指すのだ。
世界はどこにもないよ
だけど いまここを歩くんだ
希望とか見当たらない
だけど あなたがここにいるから
警察の阻止など振り切って、大きなムーブを起こす痛快さ。観客のコーラスが重なる。
ここで得も言われぬ気持ちになって、どうにも私は泣いてしまう。
キリエは言葉を話せない。言葉を話そうとすると泣いてしまう。
私は、この曲を聴くと最近涙がこみあげてくる。言葉に表せないものが出てきて、それが涙として出てくる。
急に差し込むけれど、SixTONESのImitation Rainでも同じようなことが起きることがある。
言葉にはできない、底なしに明るいものでもない、しかし膨大なエネルギーがある。歌っている人と過去の経験を共有しているわけでもないのに、歌手と聴衆たちが一つの何かになっていて、終わった頃にはよく分からない力によって勝手に足が前に進んでしまうような感覚になる。
映画でそれをやられた。
とても素敵なものをもらった。
イッコが、真緒里が用意した青い花束が、どうかキリエの元に届きますように。
3)役が生きている
この映画のパンフレットをとても興味深く読んだ。
本編にないシーンも多く撮っていたこと、当日の天候に応じて撮影の仕方を柔軟に変えていたこと、などなど。
そうした手法によって、本当にその人が生活しているような、人生の一部を切り取ったような映画になるのだとか。
松村さんの「夏彦にとって本当に一番苦しい瞬間も撮影しました」という言葉から察するに、「フルマラソン」の他のシーンも撮ったのだろうと思う。
最初から最後までそこに居たのは夏彦だったし、その年齢相応の夏彦が生きていた。
これほどまでに繊細な映画は正直初めて見た気がする。
言霊のせいかもしれないし、さすがにこれは自担贔屓だと思うけれど、私も岩井俊二さんの作品を見て「映画って面白いな」と思った。
そして、本筋から外れるけれど、スクリーンで見る松村北斗、ただただ美しい。
クレジットに出る「松村北斗」に毎度感動するし、引き合わせてくれてありがとう、と思う。
4)エンディング
最後だけに、エンディングの話を。
この映画、エンドロールまで見てほしい。絶対に。
私のお気に入りの一曲は『音痴の聖歌』。
そして、キリエのその後を覗きたいときは、小説の終章を読んで、アルバム『DEBUT』を聞くと、垣間見ることができるはず。
※そのほか、好きだったシーン
・風美の部屋、大阪弁
・教会で「あー!」と声を上げ、天井を見上げるイワン
・大人たちの会話にめんどくさそうに付き合うなっちゃん
・青いワンピ―スに着替える儀式を語る風琴
・なんだかんだ優しい根岸プロ