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活動報告会(その1)

2024.04.24
石川県防災士会(日本防災士会石川県支部)は令和6年4月21日に通常総会を開催しました。
当日は、会員3名が活動報告を行いましたので、順次紹介いたします。

被災者として、ボランティアとしての活動手記石川県防災士会 副理事長 中山幸永

令和6年4月21日。今日で震災112日目です。

まずは、令和6年1月1日に能登半島地震において亡くなられた方に対し、心からお悔やみを申し上げますとともに被災された皆様に少しでも早く再建・復興できますことを祈念いたします。

それでは、能登町に住んでいます私の被災体験を話します。

1月1日の朝に、白山市に住む長男家族が帰省し、例年と変わらず午前中は菩提寺に年始の御挨拶に行き、昼食を食べ午後からはのんびりしていました。

長男は暇をもてあまして、近くのパチンコ屋へ行きました。

午後4時00分頃から私の妻は8か月の孫とお風呂に入りました。そのさなかの4時06分に1回目の横揺れ地震。

「地震の時は頭を守れ!」と言いますが、いざとなると全くできませんでした。

この地震1回で終われば、さほどの被害はなかったと思いますが、4分後の揺れは、ぐるぐると円を描くような強い揺れでした。

これでは、家が倒壊すると思い、長男の嫁の手を引っ張り外へ出ました。

田舎では車がないと全く生活ができないため、まだ揺れが続く中、2台の車を家から離して、、、なんとか揺れがおさまり妻と孫を迎えに行こうとしたら、妻は孫を抱き、服も着ずに家から出てきました。

車のエンジンをかけ、長男の嫁と孫をのせて私と妻は、もう一度家へ入り、妻は服を着て、孫の服を持ち出してきました。

風呂とトイレは地震の時、意外と安全だと聞いていましたが、もし家が倒壊すれば妻と孫はどうなっていたか今考えると、ぞっとします。

そうこうしているうちに、長男があわてて帰ってきました。

地震発生直後に集落の集会所に男性4名が集まり、発災から30分ぐらいでテントを張り、暖をとれるようにと、集会所のダルマ型石油ストーブ3台を用意しました。

集落29戸の安否確認を男性たちで手分けして行い、「人的被害がなし」という事で安心をいたしました。しかし、ライフラインは全滅状態でした。

私は職場にマイクロバスを取りに行き、その晩はバス泊でした。

夕食については、集会所におでんの缶詰などの備蓄品がありましたので、それで過ごしました。

集会所駐車場には、7家族が車中泊し、残りの22家族は自宅避難で当日は過ごしました。

2日目からは大変な日々が待っていました。

集会所は平屋のため被害は最小限でしたが、余震があり、どうしても建屋の中では怖い。電気無し、水無し、電波無し、ガソリン無し。今晩の寝床はどこに? ということで、私の勤務先から発電機、保存水100リットルを持ち込み、さらにテント1張りを追加し、2張りのテントで発電機を使い電気ストーブを使用し、家にあった厚さ6センチの発泡パネル10枚を敷き、その上に集会所の畳を重ね、10畳の部屋をつくりました。

食事に関しては、町内の宿泊施設の食材をいただき、雪の中に埋めて保存しました。

このため、集会所テントでは、ブリの刺身・豚しゃぶ・鳥の唐揚げなどを提供でき、主食も集会所にあるガス釜でご飯を炊いて食べることが出来ました。

3日の朝からは、集落29戸のための水300リットルを調達するために、20キロ離れた民家の井戸水を貰いに行く作業が毎日続きました。その途中に携帯の電波が繋がる場所を発見しました。

1月3日には近くのガソリンスタンドが、「タンクにある分だけ」ということで、1台あたり3,000円分のガソリンを購入することが出来ました。

1月5日には娘の夫が金沢から、いろいろな支援物資を持って被害状況を見に来てくれて、妻は金沢の娘の家へ避難することとしました。

1月2日から4日までの期間、テント避難・車中泊避難の食事はすべて妻が作っており、妻が金沢に行った1月5日から14日までの期間は私が代わって作ることとなりました。

1月8日の午後5時には電気と携帯電波が復旧しました。

この日からは、テント泊から集会所内での宿泊となり、すこし環境が良くなりました。

当初は田舎ということもありトイレは自宅近くの畑に穴を掘り、用を足していましたが、その後、大月副理事長から簡易トイレの提供をいただきました。

そのような中、1月22日には能登町の小木小学校避難所、1月23日には能都中学校避難所、1月24日には宇出津小学校避難所での段ボールベッド作成ボランティアの活動に参加しました。

宇出津小学校では避難者とボランティアが協力して段ボールベッドを作りましたが、体育館が避難所となっているため、小学生は玄関ホールで縄跳びの授業していました。この光景を見て、涙がこみ上げてきました。

2月7日には設計事務所と大工さんに自宅の被害を調査していただき、今後の改修についてお話をさせていただきました。

2月19日には妻が避難先から自宅に帰ってきました。

2月27日にようやく罹災証明が届きましたが、「一部損壊」との記載。納得いかず3月7日に再調査を申請し、4月8日に再調査が入り、1か月後に再罹災証明の発行予定です。

そのような日々を過ごしながらも、2月23日に珠洲市正院小学校避難所でのたこ焼きパーティーのボランティアに参加し、地元ラジオ局の放送に電話出演も行いました。

また、3月3日には女性活躍委員会が主催した炊き出しボランティアに協力するため正院小学校避難所で活動しました。

被災後の気分転換のため、近所の友人との食事会や、支援してくれた親戚への挨拶を兼ねた小旅行など、生活に変化をつけながらストレス解消を図っています。

防災士としては、被災地域の現状を確認する事が必要だと思いますが、輪島市、能登町白丸地区、七尾市など甚大な被害を受けた地域へは、まだ行くことができず、新聞社の発行した写真集を見ることが精いっぱいの状況です。

どうか、能登の復旧、復興のため皆様の継続的なご支援をお願いしまして、私の活動報告を一旦閉じさせていただきます。


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