【沖縄戦:1945年1月13日】「軍神」とされた青年─大舛松市大尉の三回忌と「死の号令」としての大舛顕彰運動
大舛大尉の三回忌
1943年(昭和18)1月13日にガダルカナル島(ガ島)の戦いで戦死した沖縄の与那国島出身の大舛松市大尉(戦死時の階級は中尉、死後大尉に昇進)の三回忌(没後2年)である1945年1月13日、沖縄では大舛大尉の追悼式や顕彰行事がおこなわれた。
沖縄県護国神社ではこの日午後2時、沖縄県や大政翼賛会沖縄県支部、沖縄武徳顕彰会が主催した大舛大尉三回忌の祭事が行われ、那覇や首里の中等学校生徒らが参列した。その後には大舛精神実践学徒宣誓式が行われた。宣誓式では県や翼賛会県支部幹部らの訓示、生徒たちの決意表明、前線の特攻隊員に対し全学徒から送る感謝電文が決議されるなどした。
沖縄新報はこの日、次のような記事を掲載している。
また、この日から一週間は士気高揚週間として大舛顕彰運動が繰り広げられ、新聞は社説や記事で大舛大尉について取り上げた。例えば翌日14日の沖縄新報社説は、次のように記している。
大舛大尉について
大舛松市は1917年(大正6)に与那国島で生まれた。家は農業を営む一般的な家庭だったようだが、父親が教育に熱心だったそうだ。そうしたこともあり大舛は県立一中に入学し、そこでも優秀な成績を修め、配属将校の進めもあって1937年(昭和12)には沖縄県でただ一人の現役合格者として陸軍士官学校(予科)に入学した。
士官学校在学中、大舛は日記に次のように記している。
大舛は寡黙で冷静沈着、なおかつ豪胆な性格であったようだが、そうした大舛の軍人としての心がけや人間性があらわれている一文である。なお、この一文は大舛精神の顕彰にあたって、よく引用された。
そして大舛は1940年には見習士官として大陸に渡り、1941年の対米開戦後は香港攻略戦に従軍、歩兵第228連隊第1大隊に配属されて各地を転戦するが、1942年11月には同大隊第1中隊長として部下を率いてガ島に上陸、1943年1月13日に戦死した。数え27歳の短い生涯であった。
なお大舛がガ島に上陸した1942年11月の翌月12月31日の御前会議でガ島からの撤退が決定し、1943年2月初頭には撤退が完了している。あと数週間生き延びていれば、大舛も生還していたかもしれない。
「軍神」とされた大舛大尉
陸軍省は1943年10月7日、翌日の大詔奉戴日にあわせ、大舛の戦功を軍司令官が称える感状が「上聞」に達した(昭和天皇に報告された)ことを公表した。これをうけて「本土」や沖縄の新聞が大舛の戦死を報じるとともに、大舛への感状が上聞に達したことを大々的に取り上げ、連日にわたって大舛を英雄として報道した。
沖縄で感状を得るのは大舛が初めてだったようで、以降、大舛は上聞に達したことも含め「軍神」とされた。新聞では大舛についての特集記事が組まれ、「大舛大尉伝」という連載まではじまるほどであった。
軍も大舛を称賛した。当時、第32軍は編成されていないが、沖縄連隊区司令部の井口司令官の「大舛の精神を活かして銃後の県民ますますその職場において一層尽忠報国の誠を致し若い青少年はこの先輩につづいて米英撃滅の第一戦へ総決起するのだ。戦争はいよいよ職烈を極めている。県民のなかより第二の大舛、第三の大舛がどしどし出てもらいたい」との談話が新聞に掲載されたり、井口司令官が宮古群教育部会主催大舛大尉遺烈顕彰大会で講演するなどした。
県の教育界も大舛顕彰運動を進めた。県教学課は県下各学校で一週間にわたる「大舛中尉顕彰運動」の期間を設定することを決定し、報国教化団体も巻き込み、全県民に「大舛中尉に続け」と総決起を促すなどしている。その他、生徒による決意文やポスターの作成、顕彰式や座談会などの開催が企画されたりした。また大舛の出身校である県立一中でも大舛を偲ぶ会の開催や忠魂碑の建立などが企画され、校内集会では、藤野憲夫校長が千人余の生徒を前に 「けふから大舛大尉の母校、一中は大尉に続 く兵営であり、戦陣である。皆志を立て、大舛に続く烈々の気迫を示し総決起すへし」と生徒を叱咤激励したという。
そして11月8日、那覇市奥武山公園運動場において「大舛大尉偉勲顕彰県民大会」が開催され、大舛顕彰の気運は最高潮に達するのであった。
その後の大舛顕彰運動
1943年11月8日の県民大会までの大舛顕彰運動の高まりを第一次大舛顕彰運動とすると、1944年1月13日の大舛の一周忌を契機に第二次大舛顕彰運動が高まっていく。
第一次大舛顕彰運動が大舛を称え、県民の戦意高揚をはかる精神的な戦争動員に重きを置く傾向があるとすると、第二次大舛顕彰運動では「軍神大舛」が強調されつつ、宮古・八重山など各地に顕彰運動が広がったこと、戦意高揚のレベルから実際に大舛大尉のように戦争で死ぬことが求められたこと、さらに大舛精神の「実践」が求められ、増産や勤労動員など戦争遂行のための具体的な道具とされていったことが特徴的である。また、この年より第32軍の沖縄配備がはじまったため、より具体的な軍への協力、動員、戦争遂行と大舛顕彰運動が結びついていったといえる。いわば大舛顕彰運動とは、沖縄版の国家総動員体制の原動力となったのである。
1944年10月の十・十空襲により大舛顕彰運動は一時的に雲散霧消してしまうが、この日の大舛の二周忌を契機として最後の大舛顕彰運動が展開される。そして最後の大舛顕彰運動は、上述の沖縄新報社説「指導者に思ふ」にあらわれているように、米軍との決戦を見据えた「死の号令」として機能していたことが特徴といえる。
それとともに、大舛顕彰運動が教育界はじめ県当局、大政翼賛会県支部、さらに新聞・言論機関によって大々的に開始されたこと、それが戦争動員の原動力となり、最後は「死の号令」を鼓吹するところにまで至ったことはよく覚えておくべきだ。軍ももちろん多分に関わったが、県民の日常生活につながる機関がそれぞれの運動を展開するなかで県民を戦争に動員し、最後は「死の号令」まで煽ってしまったことは、現代においても気をつけなければならない点だ。
そして戦争の終結と米軍の占領により大舛顕彰運動は途絶える。教育熱心な大舛家では、大舛の兄弟姉妹も県女子師範や県立一中、あるいは大学などに入学し、学校の先生になるなどしている。戦後、大舛の兄弟姉妹たちはとても活躍したそうだ。一方で「軍神」とされた大舛は顧みられることもなく、顕彰運動のために提供した大舛の写真や日誌などは行方不明となってしまった。「軍神大舛」とは一体何であったのか。大舛の母ナサマは戦後、ルバング島で生存が確認された小野田寛郎が日本に戻ってきたときのテレビを見て、「かたわになってもいいから松市も戻ってきたらいいのにサー」といったという。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『那覇市史』資料篇 第2巻 中の2
・「沖縄戦新聞」第4号(琉球新報2004年12月14日)
・保坂廣志「軍神大舛と新聞─軍神の誕生とその普及・効果の研究─」(『琉球大学法文学部紀要』社会学篇、第31号)
・同「沖縄戦と戦争動員─『軍神大舛』顕彰運動と関係者とのインタビューを中心に─」(『琉球大学文学部紀要』社会学篇、第33号)