【沖縄戦:1944年12月11日】「国軍創設以来初メテノ不祥事件」「当軍ノ戦力半減セリ」─沖縄県営鉄道稲嶺駅付近で弾薬輸送列車の爆発事故おこる
弾薬輸送列車の爆発事故
この日午後3時30分前後(午後4時30分前後とも)、当時沖縄にあった沖縄県営鉄道(沖縄県鉄道、軽便鉄道)の稲嶺駅近くの神里集落付近(現在の南城市大里稲嶺と南風原町神里の境界付近)において、軍の燃料や弾薬を大量に積載していた輸送列車が突如爆発し、軍民あわせて200人以上の死者と多数の負傷者を出す大事故が発生した。
事故の経緯は次のとおりである。
このころ沖縄中部に配備されていた第24師団は、配備変更により沖縄南部への移動を進めていた。これに関連してこの日、弾薬を積載した無蓋貨物車両6両が、その上にススキをひろげ第24師団の兵士約150人が乗り込んだ上で嘉手納駅を発車した。列車は途中、古波蔵駅に一時停車し、そこで研修帰りの衛生兵約60人と数人の女学生が乗車するとともに、無蓋貨物車両を牽引していた機関車が燃料補給のため切り離されて那覇駅に向かった。
ほどなくして機関車は、ガソリン入りのドラム缶を積載した無蓋貨物車両1両と医薬品を積載した有蓋貨物車両1両の2車両を牽引しながら、数人の女学生を乗せて古波蔵駅に戻ってきた。そして先ほどの停車中の無蓋貨物車両6両を那覇駅から牽引してきた2車両の後方に連結し、高嶺・糸満駅方向に発車した。
途中、津嘉山駅で軍作業帰りの女学生(一高女の女学生とも)2人を乗せて進行し、喜屋武駅を過ぎた大きなカーブをゆっくりと進みながら坂を上り、稲嶺駅手前のワイトゥイ(掘割)に差し掛かるころ、列車は突如大爆発を起こした。
爆発の原因は、機関車の後ろの1両目、那覇駅から牽引してきた無蓋貨物車両に積載されたガソリン入りのドラム缶が何らかの理由で発火したためといわれている。列車に乗り合わせた女学生の一人で、事故の生存者の糸数禧子(良子、よしこ)さんの証言に基づくと、先頭の機関車の煙突から飛び散った火の粉がガソリン入りのドラム缶に引火して炎上し出し、その炎によって、もしくは炎上によりガソリン入りのドラム缶が爆発したことによって、後方車両に積載されていた弾薬が誘爆し、大爆発を起こしたと考えられる。そして運悪く、付近の畑には、一帯を陣地としていた部隊の弾薬が野積みされており、これがさらなる誘爆を招き、大惨事となった。
一足先に南部へ移動していた第24師団の兵士たちは、事故の一報をうけ救助のため現場へ出動したが、火災と間断ない誘爆により近寄ることができず、やむなく現場を遠巻きに眺め、自力で這い出してきた負傷者を南風原小学校にあった陸軍病院などに後送するだけで精一杯であったという。
このあたりの軍の動向については、事故直後の軍の記録に生々しく記されている。以下、引用する。
これは第24師団ではなく第62師団の独立歩兵第15大隊の動向であるが、爆発事故の発生時間は、一説には午後3時30分といわれているから、事故発生からわずか10分後には大隊が誘爆を防ぐため稲嶺駅に集積してある弾薬の防護や救護班の派遣など非常時の行動を開始していることがわかる。しかし上述のように、救護班・衛生兵が現場に派遣されても、もはやなすすべもなかった。
そして数時間後、ようやく火の勢いが弱まり、救護班・衛生兵たちが現場に近づくと、そこにはあちこちに焼けただれた犠牲者の遺体が散乱し、手足がバラバラになった遺体も無数にあった。また事故現場付近一帯は爆発により散乱した医薬品のガーゼや包帯により、雪が降ったかのように白くなっていたという。
犠牲者は東風平の国民学校に運ばれ安置され、負傷者は南風原の陸軍病院に収容されたというが、負傷者の怪我は重く、ほとんどの者がうめき声をあげながら一、二週間のうちに亡くなっていったという。なお列車に乗り合わせた女学生のうち数名は火傷も軽く、家族に引き取られたともいう(亡くなったという証言もあり、そのあたりは判然としない)。
爆発事故に対する軍の対応
軍は事故直後より現場一帯に規制線を敷き事故原因の調査をおこなったというが、はっきりとした事故原因は今に至るまで明らかになっていない。ただ当時の軍の資料には第32軍長勇参謀長による爆発事故についての注意、訓戒が記録されており、そこには直接的な事故原因とはいえないものの、ある程度の事故発生の要因や惨状の拡大のメカニズムについて把握している様子が読み取れる。また事故についての軍の認識や総括がどういったものだったかもわかるため、長文ではあるが以下引用する。
軍参謀長は爆発事故について「上司ノ注意及規定ヲ無視シタル為惹起セルモノナリ。無蓋車ニ弾薬、ガソリン等ヲ積載スベカラザルコトハ規定ニ明確ニ示サレアルトコロニシテ常識ヲ以テ判断スルモ明ラカナリ」としていることから、爆発事故の原因を部隊がかねてより指示されていた輸送に関する注意や規定を無視して燃料や弾薬を無蓋車両に積載したため(それゆえに引火して爆発した)と把握していたと考えられる。また「兵器、弾薬、燃料ノ分散格納不十分ナリシ為カカル莫大ナル損耗ヲ来セリ。各兵団ノ兵器、弾薬、其ノ他ノ軍需品ノ分散格納モ極メテ不十分」として、部隊が兵器や弾薬、燃料を野外に野積みしていたことも大惨事の原因と指摘している。そして、そうした注意や規定の無視という危険な行動は、ひとえに部隊の軍紀弛緩によるものとして厳しく注意、訓戒している。
他方、軍参謀長はこの爆発事故により兵器や弾薬が著しく損耗し、戦力が半減したことを繰り返し述べ、それにより「今、敵上陸スルトセバ吾レハ敵ニ対応スベキ弾薬ナク玉砕スルノ外ナキ現状」と危機感をあらわにし、部隊責任者を厳重に処罰するとしているが、残念ながら軍民問わず爆発事故の犠牲者を弔うような言葉はなく、負傷者を見舞うような言葉もない。もちろん参謀長という第32軍ナンバー2としての監督責任、統率上の責任を認める言葉もない。
注意、訓戒という性質上、そうした言葉がないのも仕方ないのかもしれないが、犠牲者や負傷者があまりに軽く扱われているように思えてならない。
そうとはいえ、軍が犠牲者を弔わなかったかといえばそうではない。軍の記録には、犠牲となった兵士の慰霊祭や葬儀について記されている。
事故当日の11日、衛生教育隊勤務要員として美里国民学校に派遣中であった岡田三郎一等兵は、爆発事故を起こした列車に乗り合わせていたため瀕死の重傷を負って東風平第一野戦病院に入院した。岡田一等兵は奇跡的にも一命をとりとめたが、容体が急変したのか13日には亡くなってしまい、これにともなって原隊(第24師団歩兵第89連隊第2中隊)から隊長、准尉などの要員が東風平へ派遣されるとともに、14日には遺骨が原隊へ帰還し、慰霊祭と小隊ごとに通夜式がおこなわれ、15日には告別式と墓標の建立をおこない、那覇の護国寺へ遺骨を送り出したという。13日の日誌には「遺骸ハ東風平ニ於テ合同葬実施」とあることから、東風平においても他の犠牲者とともに合同葬がおこなわれたのかもしれない。あるいは13日おいては遺骸、14日には遺骨という表現であることから、合同葬とは13日に東風平において他の犠牲者とともに荼毘に付されたという意味かもしれない。
ともあれ、このように爆発事故で犠牲となった兵士の慰霊祭や葬儀、遺骨の安置などが軍内でおこなわれていたことが確認できるが、犠牲となった民間人の慰霊や葬儀を軍が責任をもっておこなったのか、あるいは負傷した民間人への謝罪やお見舞いのようなものはあったのか、そのあたりは確認できない。軍はこの爆発事故についてかん口令を敷いたともいわれており、実際に当時の新聞を見ても爆発事故の報道は見当たらない。推測に過ぎないが、そうした軍のかん口令もあり、犠牲となった民間人の葬儀なども、ごくごく小規模に、身内だけで執り行われたのではないだろうか。
爆発事故の背景
爆発事故が発生した背景には、このころの第32軍をとりまく大きく2つの情勢があった。
一つは、たびかさなる配備の変更と陣地の移動である。もともと沖縄には大規模な軍の部隊の駐屯はなく、44年の第32軍創設により本格的に部隊の駐屯がはじまる。第32軍は10万からの大兵力を擁したが、既設の陣地や施設はないため、最重要任務である飛行場建設はもちろんのこと、何よりもまず陣地構築が直面する任務であった。その上で10万の大兵力が一度にまとめて沖縄に派遣されたわけではなく、波状的に陸続と派遣されるのであるから、軍全体の配備や作戦構想もたびたび変更となり、部隊は何度となく配備が変更され、陣地を移動しなければならなかった。
特に爆発事故の直前、第9師団の台湾への抽出が決定されたため、沖縄島全域で大々的な部隊配備の変更と陣地の移動が進んでいた。第24師団も沖縄中部から第9師団が配備されていた南部への移動となり、爆発事故の数日前から沖縄県営鉄道を使用して弾薬などを南部へ輸送するとともに、部隊の移動をおこなっていた。
こうしたなかで部隊は輸送しやすいよう弾薬をある程度まとめて集積していたため事故が起きやすい状況にあり、また事故が拡大する要因となっていたと思われる。同時に部隊の移動は懸命に構築した陣地を放棄するだけでなく、敵に逆用されないために陣地を破壊する必要がある。部隊は陣地を構築しては破壊するという非生産的な任務を繰り返すなかで、緊張感が失われ、また建設資材も不足しがちとなり、次第に事故が起きないよう掩体施設をしっかりと構築してそこに弾薬を格納するようなことをしなくなり、野外に野積みするようになっていき、それが誘爆を招く要因となったのではないだろうか。
第32軍八原高級参謀の回想には、たびかさなる配備の変更により、軍内部で不満が高まっていた様子が記されている。
上意下達と命令への絶対服従の世界である軍において、各部隊の将校が軍首脳部にその指揮について不満を訴えたというのであるから、軍内部の不満は相当なものであったのだろう。末端の兵士などは、自暴自棄のようになっていたのではないだろうか。そのため弾薬をきちんと格納せず、そのあたりに野積みしていたということもあったと考えられる。
もう一つの情勢として、十・十空襲以降の第32軍の軍紀の弛緩、軍紀の乱れがある。軍紀弛緩については爆発事故に関する軍参謀長の注意、訓示のなかでも指摘されていることだが、爆発事故の2ヶ月前に起きた十・十空襲以降、第32軍の軍紀は相当に弛緩し、乱れていたといわれる。
その原因としては、十・十空襲により日米の圧倒的な戦力の差を思い知らされたことがあるともいわれている(第32軍の軍紀の弛緩、乱れに関しては以下の note 記事を参照していただきたい)が、軍紀が弛緩し乱れるなかで弾薬輸送の方法や弾薬の集積、格納がいい加減になり、爆発事故を招いたと考えられる。言うまでもなく、たびかさなる配備の変更や陣地の移動による部隊の不満も軍紀の弛緩、乱れを招く原因であったろう。
考えるべきは、自衛隊の南西シフトが進展する今、宮古島や石垣島にミサイル部隊が配備され、島全体が巨大な弾薬庫のようになっているなかで、再びこの爆発事故のようなことが起きないとは言い切れない状況になりつつあることである。そして万一そうした事故が起きても、軍は住民の犠牲者のことなど気にもかけず、かん口令を敷き事故そのものをうやむやにするかもしれない。78年前の沖縄で起きたことをよく学び、悲劇を二度と繰り返さないためにどうすればよいか考えていく必要がある。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『南風原町史』第3巻 戦争編ダイジェスト版 南風原が語る沖縄戦
・『南風原町沖縄戦戦災調査』12 神里が語る沖縄戦
・川端光善「弾薬輸送列車の大爆発」(『那覇市史資料篇』第3巻7 沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記1)
・玉木真哲「戦時沖縄における侍従武官派遣・ガス関係・輸送弾薬爆発事故に関する資料─『沖縄戦防衛庁文書』より─」(『史海』第8号、1996年)
・同『沖縄戦史研究序説 国家総力戦・住民戦力化・防諜』(榕樹書林)
・吉浜忍「陣中日誌にみる兵営生活─玉城村に駐在した独立歩兵第十五大隊を例に─」(『史料編集室紀要』第26号、2001年)
・NNNドキュメント「封印~沖縄戦に秘められた鉄道事故~」(2020年6月22日放送)
・『南城市の沖縄戦資料編』(南城市教育委員会)
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米軍により占領された那覇市内の操車場跡 45年5月撮影:沖縄県公文書館【写真番号83-11-1】