【沖縄戦:1944年10月10日】十・十空襲─予期されていた空襲と背後で展開された情報戦 「婦女子は凌辱せらるゝ等、軍紀は全く乱れ居り」─空襲後の第32軍の軍紀の乱れ
南西諸島全域への空襲
この日朝6時40分ごろから午後3時45分ごろまで、沖縄東南沖に展開する米海軍第3艦隊の第38高速空母機動隊(マーク・A・ミッチャー司令官)の空母計17隻から発艦した艦上戦闘機や爆撃機延べ約1400機が、奄美諸島から沖縄島、先島諸島までの南西諸島全域を計5波9時間にわたり、非戦闘員や非軍事施設の別なく無差別に空襲した。死者は非戦闘員含め少なくとも668人、負傷者は768人におよぶ。
この米軍の無差別空襲は、十・十空襲(10・10空襲)、南西諸島空襲、南西空襲、那覇大空襲などと呼ばれる。
戦世の証言 那覇市の十・十空襲について証言する宮城安秀さん:NHK戦争証言アーカイブス
戦世の証言 那覇市の十・十空襲について証言する玉城小太郎さん:NHK戦争証言アーカイブス
戦世の証言 那覇市の十・十空襲について証言する與古田光順さん:NHK戦争証言アーカイブス
空襲第一波
空襲の第一波は、午前7時から8時20分にかけておこなわれた。空母を発艦した米軍機延べ約240機は、6時40分ごろには那覇市上空に到達、那覇市は午前7時には空襲警報を発令し、市内にサイレンや半鐘が鳴り響いた。那覇市街も機銃掃射などで攻撃されたが、第一波空襲は、特に小禄、読谷、嘉手納、伊江島の各飛行場が集中的に狙われた。滑走路には爆弾が投下され、掩体壕に格納されていた日本軍機も銃撃された。また那覇港などの港湾施設や碇泊中の船舶も攻撃をうけた。
空襲第二波
空襲の第二波は、午前9時20分ごろから10時15分ごろまで、米軍機延べ約220機が小禄飛行場、高射砲陣地、港湾施設などを攻撃、大損害を与えた。那覇港付近の市街にも爆弾が投下され、集積されていたドラム缶が炎上、付近の家屋に引火し火災が発生した。警防団が出動し消火活動をおこなったが、消防ポンプ自動車3台に手引きポンプ車1台の消火態勢ではどうすることもできなかった。
空襲第三波
空襲の第三波は、午前11時45分から12時30分ごろまで、那覇や渡久地、名護、運天、泡瀬の各港が襲われた。特に那覇港の第一桟橋と垣花町などが炎上し、軍隊や警察、警防団、学徒などが出動し消火作業にあたったが、遂に大火災となってしまった。また崎原の灯台付近に停泊していた弾薬輸送船に爆弾が命中し、大爆発を起こして沈没した。
空襲第四波
空襲の第四波は、正午40分ごろから午後1時40分ごろまで、約1時間延べ約110機の米軍による那覇市への集中攻撃であった。米軍機は学校や市役所、電気会社、開洋会館など大きな建物を目標に爆弾を投下した後、機銃掃射や焼夷弾によって市街地を狙い、火災が発生した。第四波空襲により市民は全面的に避難を開始したため、消火・防火活動にあたる者はほとんどいなかった。
空襲第五波
空襲の第五波は、午後2時45分ごろから3時45分まで、延べ約160機の米軍機によるもので、第四波同様、那覇市が集中的に狙われた。特に泊、泉崎、牧志方面で激しい攻撃となった。那覇港も攻撃され、十数隻の船が撃沈され、桟橋に積んであった武器・弾薬・食糧・衛生用品などの軍需物資、日用雑貨などの民需物資も焼失した。
沖縄北部の十・十空襲
十・十空襲は那覇大空襲ともいわれ、那覇市の実に90%が壊滅する猛爆であったが、沖縄北部、宮古・八重山の先島諸島、大東諸島、奄美諸島なども攻撃対象であり、被害が出ていることを忘れてはならない。
沖縄北部では、現在の名護市域にあった軍事施設や港湾、港湾内の軍艦が狙われたことにより、その周囲の民家や住民が被害をうけた。また、このころはムロアジ漁の最盛期であったため、漁に出ている漁船なども狙われたようだ。
当然、滑走路建設が進められていた伊江島も攻撃された。伊江島では、米軍機の到来を日本軍の演習と勘違いした兵隊が、滑走路建設に徴用されていた若者に「演習を見学しろ」などといって退避させなかったため、若者たちが機銃掃射を浴びたという出来事もあったそうだ。
また北部のハンセン病療養施設「愛楽園」も攻撃され、多くの入所者が「この世の終わりかと思うような恐怖にとらわれた」と証言している。米軍は愛楽園を軍事施設と理解していたため、集中的に攻撃をうけたといわれる。日本側が愛楽園を療養施設・医療施設であると何らかの方法で表示していれば、避けられた被害である。
先島、大東、奄美の十・十空襲
先島諸島では、宮古諸島が二波の空襲に見舞われ、延べ36機の米軍機が襲来したといわれる。飛行場や港湾が襲われ、飛行機や貨物船が撃破・撃沈され、複数の死者が出ている。八重山諸島でも石垣島に数機の米軍機が襲来し攻撃している。なお先島諸島は、十・十空襲後、米機動部隊を追撃するために始まった台湾沖航空戦に関連し、12日13日と再び空襲をうけていることに留意したい。
大東諸島では、18機の米軍機が襲来し、飛行場や港湾などへ機銃掃射や焼夷弾攻撃をおこない、碇泊していた駆逐艦も襲われ、死傷者が出ている。
奄美諸島では、奄美大島に延べ50機から60機の米軍機が襲来し、古仁屋や名瀬などが爆撃された他、砲台が銃撃され、機帆船が攻撃されるなどした。また徳之島に延べ約50機の米軍機が襲来し、主として飛行場を攻撃するなどした。同時に、奄美大島北端の笹利西方地区が米潜水艦による攻撃をうけた。潜水艦は十・十空襲時、奄美諸島だけでなく南西諸島各地に出現している。
このように被害の大きかった那覇以外の地域の声、特に病気や障がいのある方々など弱者にとっての十・十空襲も語り継いでいかねばならない。
宮古島の十・十空襲について証言する砂川末子さん 「宮古島空襲・友達が重体に」:NHK戦争証言アーカイブス
国際法違反についての日本の抗議
十・十空襲は米軍による住民を巻き込んだ無差別空襲であり、日本政府は軍から被害状況や国際法違反の事実を報告させ、中立国のスペインを通じて、米国に国際法違反として調査を要求するとともに、抗議した。
日本の調査要求・抗議に基づき実態を調査した米統合参謀本部は、民間施設へ攻撃した事実を認めたが、住民の殺傷については「空襲から免除される絶対的な保護権を享受できるわけもない」と開き直った。しかし国際法についての論争を日本とすることは利がないと判断したのか、結局は日本の抗議を黙殺した。日本も重慶爆撃などで民間人を巻き込む無差別攻撃をした過去があるためか、これ以降は何らの抗議の意思表示をしていない。
空襲を予期していた軍
十・十空襲の5日前、台湾の第10方面軍は、隷下軍である沖縄の第32軍に「敵機動部隊ハ比島附近ヨリ北上台湾、南西諸島方面ニ対シ策動ヲ開始スル算大ナリ厳重ナル警戒ヲ要ス」と速報した。また海軍部隊も同日、同様の警報を発している。
第32軍は、6日には情報速達演習を実施し、敵襲の監視および電波警戒隊の能力向上をはかるとともに、7日には台湾東海岸の東方海面に米機動部隊出現との情報を発し、さらに8日には戦備レベルを丁号戦備から丙号戦備へ上昇させた。その上で電波警戒隊や高射砲部隊は厳重警戒を敷き、燃料の分散配置や洞窟への秘匿などをおこなった。また、このころ、海軍佐世保鎮守府司令長官は「南九州及南西諸島方面部隊ハ指揮官所定ニ依リ黎明時ノ対空警戒ヲ厳ニスルト共ニ被害局限ニ留意スベシ」と電令し、台湾の第8飛行師団も航空部隊に警戒配備を下令し、警戒を厳重にしていた。
このように第32軍は、沖縄への米軍の攻撃が差し迫っている可能性が高いことを知っていながら、住民の事前の避難や防空対策、火災対応などを十分に準備していなかった。それどころか十・十空襲の当初、縦横無尽に上空を飛行する米軍機を見て、住民は口々に「友軍機の演習だと思った」と証言しており、米軍の攻撃が近いことすら周知されていなかったとみられる。山里将林さんは次のように証言している。
同時に、軍の緊張感もどこまでのものだったか疑問である。それというのも、軍は10日から3日間、参謀長統裁の兵棋演習の実施を予定しており、このため9日、徳之島、宮古島、石垣島、大東島から各兵団長や部隊長、幕僚などが那覇に参集し、沖縄ホテルにおいて牛島司令官主催の酒宴が張られた。さらに軍幹部たちは二次会として那覇市内の料亭で深夜まで飲み明かし、第32軍八原高級参謀にいたっては酩酊状態で宿舎に戻り、前後不覚に陥ったという。
この兵棋演習について、薬丸兼教情報参謀が全般の戦況を考慮して延期を申し入れながら、軍首脳部はこれを聞き入れなかったともいわれており、酒宴の件も含め、軍の緊張感はあまり真剣なものでなかったといえる。
いうまでもなく、高射砲隊を中心に第32軍の反撃もおこなわれている。第32軍の戦闘詳報によると、沖縄島で第9師団が高射砲で7機、第24師団が高射砲・機関砲で16機、第62師団が重機関銃・軽機関銃および小銃で3機、独立混成第44旅団が高射砲・機関砲・重機関銃で4機、また宮古島で第28師団が重機関銃・軽機関銃で1機の米軍機計37機を撃墜したと記されている。
また八原高級参謀の回想によると、第32軍側の飛行機が反撃・迎撃のため全く出撃しなかったわけではなく、中飛行場から一個中隊規模の戦闘機が出撃している。ただし戦果はほとんどなく、撃墜されたそうだ。
米軍にとっての十・十空襲
沖縄攻略への情報戦
フィリピン奪還を目指す米軍にとって、十・十空襲はいうまでもなく日本軍のフィリピンへの前進基地である沖縄を叩き、フィリピン奪還作戦を支援するための作戦であった。とはいえ、米統合参謀本部は1944年10月3日、翌1945年3月1日に沖縄に上陸するという作戦命令を下令しており(アイスバーグ作戦)、十・十空襲が米軍にとって沖縄戦の前哨戦、沖縄攻略作戦の第一歩であったこともまた間違いない。
その事実を示すものとして、米軍は十・十空襲に際して、多数の空中写真(航空写真)を撮影している。そもそも米軍は、十・十空襲の前月の9月29日にB-29を発進させ、高高度から沖縄の空中写真を撮影し、日本軍の飛行場や部隊配置など大きな動きを確認したが、高高度での撮影であるため雲などで判然としない部分もあり、十・十空襲に際して比較的低空からの空中写真の撮影をおこない、銃砲などの配備状況を確認するとともに、軍事用の地図作製に供された。現在、米国立公文書館には、十・十空襲に際して沖縄南部を撮影した空中写真が121枚保存されている。
なお、2020年8月2日に放映されたNHKスペシャル「沖縄“出口なき”戦場〜最後の1か月で何が〜」では、米軍が沖縄の地図にグリッド線をひき、上空からの偵察飛行の情報などもあわせ、爆撃ポイントを精緻に設定し、攻撃していたことが取り上げられていたが、そこにおいても十・十空襲の際に撮影された空中写真が利用されたことだろう。
また米軍は、十・十空襲にあたって日本各地の部隊や施設から発せられた各種の通信を追跡し、解明することにより、暗号の解読も含めて日本軍の一大通信網を解析することに成功している。
それとともに、十・十空襲では、米軍の宣伝ビラが撒布されたといわれている。例えば独立歩兵第12大隊による「一〇・一〇南西空襲戦闘詳報」には
とある。また第32軍の十・十空襲戦闘詳報にも
とあり、米軍の宣伝ビラが撒布され、また日本軍機の来援がなかったことと被害が甚大であることもあり、一部の市民のあいだで米軍が上陸するなどのデマが拡散された様子が読み取れる。
空中写真の撮影、通信の解析、宣伝ビラの撒布など、十・十空襲の背後では、このように沖縄攻略と本土上陸に向けた米軍の壮大な情報戦、あるいは心理戦が展開されていたのである。
焼夷弾攻撃と天気
十・十空襲では、機銃掃射から爆弾の投下、ロケット弾の発射、あるいは魚雷の投下などあらゆる攻撃がおこなわれたが、那覇などの市街地・住宅地に対しては焼夷弾攻撃もおこなわれ、大規模な火災も発生した。東京大空襲が1945年3月のことであるから、十・十空襲は本土空襲のさきがけとなった。
焼夷弾攻撃について、第32軍は十・十空襲の翌11日、第10方面軍に「今回ノ如ク敵カ多数ノ飛行機ヲ以テ低空ヨリ乱舞銃撃ヲ加ヘツツ相当長期ニ亘リ集中的ニ焼夷弾攻撃ヲ実施スル時ハ警防団隣組等ノ活動ハ殆ト無力化サルルニ至ルヲ以テ都市防空ノ画期的改善ヲ要スルモノト思料セラル」と報じている他、様々なことを戦訓として記しているが、こうしたことが東京大空襲などの本土空襲の対策に活用されたのかどうかは甚だ疑問である。
また米国への抗議に関する軍の記録によると、米軍は空襲にあたりわざと住民に爆弾を手に取らせるような「謀略資材」もあったといわれる。
こうした米軍の焼夷弾攻撃の被害を拡大したのは、この日の天気も影響している。十・十空襲の直前の10月7日、沖縄は台風が通過し、大陸性高気圧が張り出し、高温・無風・異常乾燥となった。この天候は10日まで続くが、無風であれば風に焼夷弾が流されることなく目標地点に到達し、乾燥していれば着火・発火、そして火のまわりが早い。こうした天候が好条件となり、十・十空襲の被害は拡大していった。
軍の住民観と軍紀の乱れ
軍の侮蔑的な住民観
軍は十・十空襲時の住民の動静について、
などと侮蔑したような表現で状況を記録・報告するとともに、空襲などに対する今後の住民教育が必要であることを記している。また上述の空襲時における宣伝ビラの配布について、軍が住民を「文化教養ノ遅延シタル本島住民」などと表現しているところにも、軍の住民への蔑視が窺い知れる。
軍のこうした沖縄住民への蔑視は、1910年の「沖縄警備隊区徴募概況」に見える「本県下一般ノ軍事思想ハ不充分ナリ」「本県民ノ軍事思想及国家思想共ニ薄弱ナルハ忌避観念ヲ旺盛ニシ」といった侮蔑的な沖縄県民観に共通する歴史的なものであり、軍全体に浸透していたものであろう。
十・十空襲後に目立つ軍紀の乱れ
十・十空襲後、目立つようになったのは、第32軍の軍紀の乱れである。沖縄を視察した内務省防空総本部施設局の高村坂彦資材課長は、十・十空襲後の軍の様子として
と近衛文麿元首相の側近である細川護貞に語っている。事実、第62師団の兵団会報には、十・十空襲後、軍が空家に侵入して荒し、物品を持ち去ったり、家畜を略奪するため、住民側が「占領地ニ非ズ無断立入リ禁ズ」といった立て札を掲げることもあったことが記されている。また兵団会報には「性的犯行ノ発生ニ鑑ミ各隊此種犯行ハ厳ニ取締ラレ度」との注意喚起が記されており、『細川日記』の「婦女子は凌辱せらるゝ」という文言を裏付けている。
こうした軍紀の乱れは、十・十空襲により米軍の圧倒的な軍事力を目の前に突きつけられたことにより、兵士たちが自暴自棄になり、また食糧や物資が消失したことにより軍も物不足に悩まされたこともあるだろうが、根底には前段の軍の侮蔑的な住民観に裏づけられた「占領地」の感覚、沖縄ならば何をやってもいいといった感覚もあったことだろう。
進んでいく軍官民共生共死の一体化
十・十空襲以後、軍は軍官民一体の軍事演習を実施していくことになる。その背景には、上述の軍の侮蔑的な住民観があると思われる。
つまり十・十空襲を経て「文化教養ノ遅延シタル本島住民」「住民ハ一般ニ無知ニシテ気迫ニ乏シク動揺シ易キ民情ニ在リ」という住民観をあらたにし、住民がそのようであるため防空・消火の役に立たないとした軍は、「一般住民に対し積極的防空観念を養成せしめ且つ戦斗時軍に協力し得る如く指導するを要す」などとして、住民への積極的な教育・訓練を実施し、さらなる軍官民共生共死の一体化をはかる必要性を感じたということである。
そこで本部町では10月13日、本部町長・警察署長・各大隊副官が会同し、空襲下における住民指導について意見交換し、11月25日、また29日に合同警備演習実施計画が立案されている。こうした軍官民共生共死の一体化が後の沖縄戦での住民の犠牲につながっていく。
新聞報道より
「沖縄新報」1944年11月14日は、十・十空襲について次のように論じている。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・沖縄戦新聞第3号(琉球新報2004年10月10日)
・源河葉子「沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真:米国側資料にみる撮影・利用の概要」(『沖縄県公文書館研究紀要』第4号、2002年)
・吉浜忍「10・10空襲と沖縄戦前夜」(『沖縄戦研究』Ⅱ、1999年)
・地主園亮「沖縄戦における軍官民一体化─軍官民合同警備演習資料」(『季刊戦争責任研究』第60号、2008年夏季号)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説 国家総力戦・住民戦力化・防諜』(榕樹書林)
トップ画像
空襲により炎上する那覇市の港湾施設 空母フランクリン艦載機から撮影 1944年10月10日撮影:沖縄県公文書館【写真番号108-29-3】