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【沖縄戦:1945年1月1日】B-29来襲─元旦の沖縄に鳴り響く空襲警報 「一億すべてが特攻隊員たるの実を示さう」─“決戦”に向けて緊張状態で迎えた沖縄の新年

1945年1月1日の沖縄

 1945年(昭和20)1月1日、新年を迎えた沖縄は、”決戦”に向けた緊張状態にあった。
 前日の大晦日には、沖縄新報に荒井退造沖縄県警察部長による「浮かるなお正月 県民の自粛要請」との訓戒が掲載された他、西表島や与那国島が空襲に見舞われ、沖縄島上空にもB-29が現れ偵察飛行するなどの動きがあった。
 大晦日には県会(県議会)も開会された。B-29の偵察飛行による空襲警報の解除直後の開会ということもあり、議場には鉄兜や非常袋が置いてあるなど「敵前県会」の雰囲気が漂うなか、「我等一同協心戦力特攻精神を以て驕敵米英を撃滅し以て聖慮を安じ奉らんことを期す」との県会の“決戦”に向けた決意闡明の宣誓が決議されるなどした。
 その他、1944年の年末の沖縄は、10・10空襲をはじめとする戦災被害の復旧が遅々として進まず、ようやく那覇市街の電気が復旧したり、戦災で家財道具を失った市民に藁の布団の配給が行われているような状況であった。厳しい環境の年末年始だったといえる。
 そうして迎えた新年の朝9時ごろ、前日に引き続きB-29が沖縄島上空に進入し、10時ごろ南方に飛び去った。爆弾の投下はなかったので、前日同様の偵察飛行であるとともに、大晦日と元日の祝賀ムードを壊し厭戦気分を醸成させる狙いに基づく謀略的戦術であったと思われる。また石垣島にも米軍機があらわれ、偵察飛行をおこなった。
 事実、十・十空襲により灰燼に帰していた那覇市街には門松なども設けられ、「火線迎春」の雰囲気があったが、B-29の来襲により元旦早々の沖縄に空襲警報が鳴り響き、まさに沖縄の正月が「火線」(最前線)のなかにあることを思い知らせた。1945年1月2日の沖縄新報には、県防空本部に動員され防空監視にあたる女性たちが年末年始もなく警戒する様子なども報じられている。
 護国神社では午前0時ごろより軍官民の参拝者が訪れ、明け方には参拝者が非常に多くなり、午前7時には歳旦祭および必勝祈願、そして出征将兵の武運長久祈願祭がおこなわれた。
 波上宮でも午前1時ごろより参拝者が訪れ、モンペ姿、脚絆姿の人々で社頭が賑わい、必勝を祈願した。
 もっとも、正月の祝賀ムードがまったくないわけではなかった。沖縄新報には「戦捷用お酒の酔ひ」といった言葉も見られるので、正月にあたりお酒の特配などがあり、御屠蘇気分となった市民もいたのもしれない。波上宮では参拝者にお神酒を振る舞ったともある。また軍が大晦日の31日および新年1日と2日、県立一高女にて那覇周辺の住民を招き映画の上映会を催すなどしている。
 また軍の各部隊もこの日はおおむね休養の日としたようだ。第32軍参謀部の日誌にも「特記事項ナシ」とあり、第62師団独立歩兵第15大隊第3中隊の日誌にも午前中は「四方拝」、午後より「休養」とある。大東諸島の沖大東島(ラサ島)においても、ラサ島守備隊はラサ神社を参拝後、一日休養だった。
 軍の「慰安所」にも正月はあったようだ。第62師団の1944年12月28日の兵団会報には

第101号 石兵団会報
   十二月二十八日一六〇〇 浦添国民学校
  [略]
九、仲間慰安所ヲ左記ニヨリ休業セシム
  左 記
見晴亭 十二月三十一日 一月一、二日(三日朝迄)三日間
観月亭 十二月三十一日 一月一、二日(三日朝迄)三日間
第三慰安所 一月一日(二日朝迄)一日間
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

と記されている。第三慰安所はいうまでもなく、見晴亭、観月亭も「慰安所」である。こうした「慰安所」で働かされる「慰安婦」たちは、どのような思いで新年を迎えただろうか。

沖縄新報より

 この日、沖縄新報には「一億すべてが特攻隊員たるの実を示さう」と訴える社説が掲載された他、第32軍長勇参謀長の談話も掲載された。

社説 一路必勝へ邁進せん
 新春を迎へて先づ天祚の無窮を祈り奉る、金甌無欠の我が国体こそ一億の誇りであり、又これを護持することが臣民たるの光栄の任務である。大東亜戦争が神州護持の大精神をもつて戦はれて居ることは一億国民の信念であることは言を俟たない。戦に敗れんか神州は亡ぶ外なく、戦に勝てば国体の尊厳いよいよ赫灼し大御稜威八紘に光被せん、断じて勝たなければならぬ戦争であり、戦争を通じて神州の尊厳を体得する一億の信念は火となつて敵撃滅に向かつて燃ゆ
 レイテにミンドロに支那大陸に印度支那にニュギニヤに皇軍は征む、それは実に困難なる戦であり、前途更に荊棘の国を征かなければならないであろうが苦難の中に勝利の光を見出せば勇気百倍し、不退転の決意をいよいよ固くするのみである
 過去一年は守勢を余儀なくされた、守勢は決して有利ではない、が、さうせざるを得なかったこと、又そのために幾多の尊い犠牲を払つたことは一億国民に強い反省を与へずにはおかなかつた、アッツ島の玉砕、サイパン島テニヤン島の全員戦死がどんなに国民を悲痛せしめたか、又どんなに憤激発奮せしめたことか、戦死した全将兵在留同胞は後に全国民がついて来ることを確信しながら笑つて逝いたのである。これに対し国民は一人残らず勇士達の後につゞく決意をかためたのではなかったか
 後につゞく決意、それは言ふまでもなく敵への復仇であり、復仇するための戦力の培養蓄積である。尚ほ遺憾の点あるとはいえ国民の総力は着々結集されて前線の激闘に結びついて居る、此の力をますます強大にして比島に侵入した敵を粉砕し、攻勢に転移するの勝機を新に迎へた年に於て掴まなければならない
 従つて今年は昨年の二倍も働かなければならない年である。生活も苦しくなつてくるであらう。敵の攻撃もますます激化してくるであらう。が、一切を踏み越へて突進するものに勝利は与へられることを忘れてはならないと思ふ
 喜ぶのも一億であり、苦しむのも一億である。一億苦楽を共にして始めて偉大なる力を発揮する、いはんや苦しむのは吾々ばかりではなく敵国民も苦しんで居るのだ、苦しさには何の変りもないのである、苦難によく耐へて昭和20年を戦勝の年たらしめよう、決戦の段階より勝利の段階に推し進めよう、軍服は着けなくとも一億すべてが特攻隊員たるの実を示さう、そして神州護持の大任を果さう。

(『那覇市史』資料篇第2巻中の2)

迎春火線◇◇県民に檄す 輝く勝利の年だ 我れに呑敵の布陣在り 軍官民一体 
 烈しい決戦のさ中に迎へた昭和二十年の劈頭に当り現地軍長参謀長は次の通り談話を発表、太平洋戦局の進展に伴っていよいよその使命重大化し来った我が戦略内線の要衝南西諸島護持に軍官民一体、滅敵必勝への総突撃を号令した。
参謀長談 この昭和二十年こそは我が南西諸島も真の決戦場とならう、敵侵寇し来らば我れにこれを壊滅し去る呑敵の布陣があり、従ってこの年こそ輝く勝利の年でもある、茲に軍も官も民も真に一体となって血戦に備へ、特に官民はぎりぎりの土壇場に置かれても断乎として敵必滅せずんば煌まじの気構へと最後の一人まで戦ふ烈々の闘志をもつて揺ぎなき態勢を一段と固めねばならぬ、斯くて南西諸島はそれ自体が偉大なる火砲となつて侵寇の敵を撃滅し最後の勝利を得るのである。

(同上)

参考文献等

・『那覇市史』資料編第2巻中の2
・『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ(戦前期)
・『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6
・森田芳雄『ラサ島守備隊記 玉砕を覚悟した兵士たちの人間ドラマ』(光人社NF文庫)
・大田静雄『八重山の戦争』復刻版(南山舎)

トップ画像

・1945年8月、本土空襲後、沖縄の読谷飛行場を中継しマリアナ諸島に向かって離陸したB-29:沖縄県公文書館所蔵【写真番号13-59-2】