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【沖縄戦:1945年9月7日】沖縄戦降伏調印式 久米島の海軍鹿山隊の投降 沖縄戦の「終結」はいつなのか

沖縄戦の正式な降伏調印式

 この日午前11時30分、越来村森根(現在の嘉手納飛行場内)の米第10軍司令部前の広場において、南西諸島の日本軍が降伏する沖縄戦の正式な降伏調印式がおこなわれた。
 正確にいえば第32軍の降伏ということになるのだろうが、すでに第32軍は壊滅しており、また第28師団など宮古・八重山諸島の第32軍隷下兵団は台湾の第10方面軍隷下となっていることから、南西諸島の日本軍部隊の降伏というべきものだろう。
 降伏調印式には、日本軍を代表し宮古の第28師団長納見敏郎中将、奄美の独立混成第64旅団長高田利貞少将、同じく奄美の海軍沖縄方面根拠地隊参謀長加藤唯雄少将が、米軍からは第10軍司令官ジョゼフ・スティルウェル大将が列席した。
 司令部前の広場には戦車や155ミリ砲などが並び、上空にはいくつもの軍用機が飛び交い、降伏を祝していた。そして米陸軍音楽隊が南北戦争時代の陽気な行進曲を演奏するなど、米軍の「圧勝」を十分に印象付けた後、納見敏郎中将以下3人の将軍が降伏文書に署名、その後スティルウェル大将が署名した。

降伏調印式の様子:沖縄県公文書館所蔵

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1945年9月7日付降伏調印文書:沖縄県公文書館所蔵【資料コード0000017549】

 降伏調印式の様子について8日付「ニューヨークタイムズ」は、「ステイルウェル、琉球の降伏を受け入れ」との見出しでUP通信の記事を次のように報じた。

 9人の扱いやすい日本人将校は、今日、琉球グループの約60の島にいる10万5,000人の日本陸軍・海軍兵士の降伏を表明し、無条件降伏文書にサインした。
 降伏式典では、合衆国第10軍の司令官、ジョセフ・W・スティルウェル陸軍大将が連合国を代表した。レイモンド・スプルーアンス海軍大将、ドゥーリトル・H・ジェームス中将、ジェーシー・B・オルデンドルフ海軍大将、デビット・ペック海兵隊少将が降伏の証人となった。
 島のほとんどすべての非番の船員、軍人、および海兵隊員が降伏式に集まった。降伏式典は、音楽も含めて何から何までスティルウェル大将の独断場であった。沖縄の連合軍の部下たちがスティルウェル大将の本部のまわりに集まると、第10軍のバンドは司令官をたたえて「年老いた灰色の雌馬」の演奏を始めた。
 日本陸・海軍を代表して、最初に降伏文書6部にサインしたのは、納見敏郎中将だった。続いて高田利貞少将と加藤唯雄少将がサインした。
 日本人将校が降伏文書に署名を終えたとき、スティルウェル大将は大股でテーブルに近づき、すぐに6部すべてにサインした。
 スティルウェル大将は、日本人に彼の指示に従うように命令して、日本人を護衛する役目を勤める諜報機関将校のルイス・イーリー大佐に向かって言った。
 「彼らをここから連れ出せ」

(川平成雄「沖縄戦終結はいつか」:『琉球大学経済研究』第74号、2007年)

 納見中将率いる第28師団が駐屯した宮古島では、すでに8月31日に連隊旗など軍旗の奉焼式がおこなわれ、9月1日には宮古出身者の召集が解除されていたが、この日の降伏調印を経て9月10日にはブッチャンナン大佐一行が宮古を訪れ弾薬集積所の状況などを見聞、24日にはキャノン准将率いる米軍部隊が武装解除のため上陸し、さらに12月5日にはチェス・アレン少佐の率いる海軍部隊が宮古島測候所敷地に軍政府を開設した。
 高田少将率いる独立混成第64旅団が駐屯した奄美諸島では、21日に米第10軍のカンドン大佐一行が武装解除のため徳之島に進駐し、23日および24日と武装解除を実施した。奄美大島では25日に武装解除が実施された。

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降伏調印式への出席者を迎えるスティルウェル大将 45年9月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号113-11-4】
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原文キャプションには「読谷飛行場に着いた、先島群島多賀俊郎少将の全権と民間人通訳竹村氏 」とあるが、おそらくこの日の降伏調印式のために沖縄島に到着した納見敏郎中将のことではないだろうか 撮影日は45年9月4日となっているが、これもあるいは実際の撮影日と異同あると思われる:沖縄県公文書館【写真番号07-66-1】

久米島の鹿山隊、米軍に降伏

 久米島でもこの日、鹿山正率いる海軍部隊はじめ日本兵が北原で米軍に投降した。鹿山隊はただちに米軍施設内に収容され、翌8日に久米島を去った。
 久米島では20人もの住民が鹿山隊に虐殺された。また鹿山は住民ばかりではなく、部下の兵隊も殺害している。
 鹿山隊に殺された住民の谷川昇さんとその家族の遺体遺骨の埋葬は、けして丁重になされたとはいえなかった。谷川昇さんが朝鮮半島出身であったため、ぞんざいに扱われたのではないかという見方もある。
 そればかりか鹿山は、島の少女を「愛人」として連れまわしたが、鹿山隊が去った後、その少女は周囲の視線を気にして島に居られなくなったという。さらに少女は鹿山の子どもを妊娠していたことも発覚し、一人で子育てをせざるをえなかったそうだ。
 鹿山はこのように久米島でやりたい放題のことをやった上で、結局は米軍に投降して島を去るが、島の人々は鹿山が去った後も、鹿山がもたらした大きな傷を抱えながら戦後を生きていかざるをえなかった。
 一方、久米島でこの日投降したのは鹿山隊だけではなかったようだ。この日の鹿山隊の投降について、久米島の具志川村農業会の会長であった吉浜智改氏の戦時日記には次のようにある。

 九月七日
  日本兵調印
久米島に駐屯していた日本軍は、通信部隊の外不時着した特攻隊の搭乗員及慶良間より避難し来れる軍属其他最終応召兵引取の為め派遣されて来た渡辺上等兵等を加へ、四十余名の兵員が亜米利加の軍門に投じ本日調印終了、米軍陣地に収容された。
これで鹿山の危害を免れた人々がホットしたことである。
応召兵引取りに来た渡辺上等兵一行三名は、ハンノウ山にて自殺をとげたとの噂もあッたが、鹿山等とは行動を共にしてなかッた。[略]

(『久米島町史』資料編1 久米島の戦争記録)

 久米島には海軍鹿山隊(吉浜日誌にいう「通信部隊」のこと)の他、吉浜日誌にいう不時着した特攻隊の搭乗員や渡辺上等兵など数人の陸軍将兵がいたことは何度か取り上げてきたが、その者たちも吉浜氏の日記を読む限り、おそらくこの日、鹿山隊と一緒に投降している。
 なお久米島には具志川国民学校訓導として赴任した「上原敏雄」を名乗る竹川実と、仲里村青年学校指導員として赴任した「深町尚親」を名乗る氏元一雄が離島残置諜者として送り込まれていた。二人は陸軍中野学校出身の諜報要員であり、特に竹川は鹿山より階級が上で、通信機材を所有し、鹿山と米軍上陸の場合についての打ち合わせをおこなっていることなどから、鹿山隊の住民殺しへの関与も疑われているが、鹿山隊が米軍に投降した後もしばらく久米島に潜み、46年3月になりようやく米軍に連行されて島を去った。
 竹川は戦後、「軍隊生活、なかでも沖縄での敗戦や収容生活の記憶が強烈すぎて、その後、一体なにをしてきたのだろうかと影うすく、何かに奪われてしまったような三〇年とさえ思われます。この三〇年は虚仮の半生だったと悔やまれます」と回想している。その上で、家族などにも久米島での出来事や戦時体験を語ろうとはしなかったそうだ。
 戦後の人生を「虚仮」と表現し、久米島での出来事を語ろうとしなかった竹川。戦後も秘匿し続けた竹川が久米島で実体験した「強烈」な出来事、戦後の人生を「虚仮」とまで表現させるほどの「強烈」な出来事とは何か──およそ答えは想像がつくだろう。

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米軍に投降するため軍刀を返納する鹿山正:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
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同じく米軍に投降する鹿山と鹿山隊:沖縄タイムス2013年10月12日

沖縄戦の終結とはいつか

 この日、沖縄戦の正式な降伏調印がおこなわれ、沖縄戦は「終結」するが、それはあくまでも日本軍にとっての沖縄戦の「終結」である。沖縄戦の研究などをおこなっている川平成雄は次のようにいう。

 ここで、沖縄戦の多くの証言や聞き書きの中から、沖縄戦終結についての声を聞く。

証言1:稲福マサ 昭和2年10月1日生まれ 大宜味村根路銘出身
 4月17日頃、米軍は西原村の幸地・棚原まで攻め入ってきた。まだ生きていた兵隊にウジがわいているのを見たときは信じ難かった。5月13日に友達の前川さんが亡くなった。6月1日か3日だったと思うが、穴に死体を投げ入れていた兵隊が地獄の鬼にみえた、血も涙もない人間であった。普通の人間ではないと思い、怖くなった。人間が人間でなくなる。玉城村港川に排水溝があったので、そこに避難していた時、英語が聞こえてくる。黙っていたら殺されると、朝鮮人の軍属と長崎出身の女2人が排水溝から出た。自分もふくめて残った4人も出た。その日は6月21日で、沖縄戦が終わったと実感したのは、捕虜になった時であった。

証言2:中西カメ 明治40年4月5日生まれ 浦添市字宮城出身
 沖縄本島北部の避難小屋にいた時、「日本は戦争に勝った」という情報が届いたので、浦添に帰ることになった。東村の慶佐次まで来たとき、アメリカ兵がうろうろしていた。アメリカ兵はガムとか缶詰めとかくれた上、握手をした。アメリカ兵をみながらも、まだ負けたことを意識せず歩きつづけていた。瀬嵩の収容所に入って、初めて負けたことがわかった。

証言3:外間米子 昭和3年生まれ 那覇市出身
 米軍上陸後の戦闘のなかで捕虜となった日が、人びとの"戦後''のはじまりとなる記念日である。沖縄本島中部の米軍上陸地点では、上陸の日の四月一日に捕虜になった人もいる。激戦地の中、南部では弾丸のなかを多くの死体を踏み越え、逃げのびながら死の寸前で捕われた人、地下洞くつの奥深くひそんで、戦争終結も知らず、九月~十月頃地上に這い出た人、北部の山中を逃げまわって五~八月頃米兵に見つかって山をおりた人びと等、鉄の暴風をかいくぐり、山の中を飢えに苦しみながらさまようという、さまざまな戦争体験をしながら、米兵に捕われた日が"終戦記念日"であった。

 これまで、「沖縄戦終結はいつか」について見てきた。大切なのは、住民にとっての沖縄戦終結と日本軍にとっての沖縄戦終結を同じ次元で論じるべきではないということである。住民にとっての沖縄戦終結は捕われた日であり、収容された日であるということ、日本軍にとっての沖縄戦終結は、9月7日であるということである。

(川平上掲書)

 川平のいうように、この日は日本軍にとっての沖縄戦の「終結」であり、軍と国家に翻弄された住民にとっては全く異なる「沖縄戦」とその「終結」が存在することはよく意識しなければならない。
 他方、この一年前、沖縄に駐屯した第62師団の44年9月7日の兵団会報には、特記事項として次のような一節がある。

第四九号 石兵団会報
  九月七日 一〇〇〇 仲間
  [略]
10、本島ニ於テモ強姦罪多クナリアリ 厳罰ニ処スルヲ以テ一兵ニ至ル迄指導教育ノコト
11、住居侵入罪発生シアリ遺家族出征軍人宅等ニ濫リニ出入リスルハ之罪ニ問ハル[略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 沖縄に第62師団をはじめとする大兵力が上陸、駐屯し、軍民混然一体となるなかで、兵士による性暴力、あるいはおそらく性暴力や略奪に関連すると思われる住居への不法な侵入などの犯罪行為、軍紀違反が発生している様子が伺える。
 これ以降、この日の降伏調印まで兵士による性暴力や略奪、虐殺など犯罪行為、軍紀違反は絶えることがなかった。日本軍にとっての沖縄戦はこの日をもって「終結」するが、一年以上にわたり日本軍に苦しめられた沖縄の人々にとっての沖縄戦は、例え米軍の捕虜となり実質的には「終結」したとはいえ、その悲しみの記憶や傷として長年にわたって「終結」することはなかっただろう。
 そしていうまでもなく、米軍占領下、施政下の沖縄では、性暴力をはじめとする様々な米兵犯罪が多発していくことになる。また基地負担もこれ以降、本格化していく。日本軍の降伏とともに、沖縄住民にとっての新たな「沖縄戦」がはじまっていくことになる

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第14号(琉球新報2005年9月7日)
・「サンデー毎日」1972年6月4日号
・川平成雄「沖縄戦終結はいつか」(『琉球大学経済研究』第74号、2007年)
・川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる少年兵「護郷隊」』(吉川弘文館)

トップ画像

越来村森根の米軍司令部(現嘉手納飛行場内)にて降伏文書に調印する日本軍代表(高田利貞少将もしくは納見敏郎中将か) 45年撮影:沖縄県公文書館【写真番号02-49-1】(https://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/?lang=ja にてカラー化)